首藤氏より「川添の人たちに、自分たちの住む地域についてもっと深く知ってほしい」という強い思いをいただき、貴重な資料をホームページで順次公開しております。
今回は「第3章 川添の自然環境」をお届けします。古代の地層から、地域の鉱物、歴史的な大水害と人々の戦いまで、川添の豊かな自然と歴史の記録です。
目次(インデックス)
- 1. 古代からの地層と緑泥結晶片岩
- 2. 間氷期の化石「赤い土」
- 3. 川添の地域別地質
- 4. 地域を走る主な断層
- 5. 大分市近辺の過去の大地震
- 6. 川添に存在する鉱石と化石
- 7. 古代の朱(水銀朱)と丹生神社
- 8. 気候と近年の内水対策
- 9. 九六位山・本城山の森(自然の宝庫)
- 10. 希少生物オオサンショウウオの生息
- 11. 大野川の歴史と「昭和18年 大洪水」の記録
- 11-1. 大野川と川添の変遷
- 11-2. 昭和18年 大水害の記録と体験談
- 11-3. 命を守るための治水・防災対策の歩み
第3章 川添の自然環境
1. 古代からの地層と緑泥結晶片岩の誕生
- ジュラ紀の誕生: 中生代ジュラ紀(約1億8千万年前)に誕生しました。
- 分布地域: 川添の緑泥結晶片岩(りょくでいけっしょうへんがん)類は、杵河内・宮谷・広内・九六位山脈などに広範囲に分布しています。
- 三波川層(さんばがわそう): 九六位山から群馬県の利根川支流・三波川まで続く、中生代に広域変成作用を受けた地帯です。広内峠の岩石には美しい渦巻き模様が見られます。 (参考:『学研 学習百科大事典』 P.461)
2. 間氷期の化石「赤い土」(鉄分)


西日本の丘陵や台地で見られる鮮やかな赤い土は、数万年前の温暖だった時代(間氷期)に形成された土の名残(化石土)です。
- 特徴: 鉱物の風化が極度に進んでおり、養分や珪酸に乏しく、鉄分やアルミニウムに富んだ痩せた土壌です。そのため大きな樹木や作物が育ちにくく、ハゲ山や小さな松林が多く見られます。 (参考:『学研 学習百科大事典』 P.400)
- 地域での見極め: 大野川右岸の丹生台地や、下広内の山を削った道路工事跡などに赤い土が確認できます。川添公民館横の村上広治氏宅では、井戸水でお風呂を沸かすとタオルが赤くなると言われています。
3. 川添の地域別地質
大分県の地質図(通商産業省工業技術院地質調査所・平成9年発行)等の調査による、各エリアの地質構造です。
| 地域・エリア | 地質の分類・特徴 |
| 大野川沿い(川添面) | 沖積地帯(礫・砂・泥) |
| 川添橋〜百堂登り口 / ハイランド | 滝尾層群(軽石質砂・泥・礫) |
| 百堂登り口〜宮河内 | 東植田層群(シルト・砂・軽石質凝灰岩・ガラス火山灰) |
| 迫・阿蘇入 | 敷戸火砕類堆積物(ガラス火山灰・軽石・泥質片岩) |
| 新田 | 自然堤防堆積物(砂) |
| 杵河内・宮谷・広内・九六位 | 白亜紀の三波川変成岩類 |
| 背後の丹生台地 | 大在層(礫・砂・泥) ※阿蘇山噴火(約9万年前)の火山灰が堆積 |
| ハイランド南側(貝ヶ迫) | 安山岩 |
神明社の珪化木(けいかぼく): > 大野川一帯の地下深くには、大木が数万年かけて鉱物化した「木の化石(珪化木)」が埋まっており、沖積地帯から出土した珪化木が神明社に奉納されています。
5. 大分市近辺で発生した過去の大地震
① 慶長の大地震(1596年 / 慶長元年)
1586年の天正大地震から10年後、豊後地方でM7.0前後の地震が発生し、別府湾沿岸を大津波が襲いました。府内(現大分市)では多くの家屋が流失。別府湾の「瓜生島(うりゅうじま)」が沈没したという伝説が残る地震です。記録は定かではありませんが、川添地区も大きな被害を受けたと推測されます。
② 安政の大地震 / 豊予海峡地震(1854年 / 嘉永7年12月26日)
安政南海地震のわずか約40時間後、豊予海峡を震源として発生したM7.4規模の地震です。豊予地震、豊予大地震ともよばれています。豊後国鶴崎で100棟の家屋が倒壊。川添の広内地区ではこの地震の影響で大火災が発生し、48戸(納屋含め96軒、牛一匹)が焼失した記録が臼杵藩御会所日記12月29日の欄に残っています。
6. 川添に存在する鉱石と化石
川添地区では、様々な種類の鉱石や古代の化石が発見されています。
| 種類 | 色・特徴 | 主な産出場所 |
| 石灰石 | 白(サンゴの化石) | 火振・深迫 |
| 金鉱石 | 石英中に含む | 杵河内・長迫 |
| 水銀朱(辰砂) | 赤(硫化水銀) | 赤迫池周辺 |
| 緑泥結晶片岩 | 緑(ヒスイの原石) | 三波川層 |
| 黄銅鉱 | 黄色(黄鉄70%、銅30%) | 種具・勝ヶ平稲荷神社周辺 |
| 昆布の化石 | 白 | 川添小学校裏山 |
| 貝殻の化石 | 貝殻 | 迫の裏山 〜 ハイランド入り口 |
| チャート | 赤 プランクトンの化石 | 迫、新田地区出土 |
| 間氷期の化石 | 赤(鉄分を多く含む) | 浄土寺・金谷・百堂清流苑・迫上開 |
7. 古代の「朱」
早稲田大学の松田壽男教授による著書『丹生の研究―歴史地理学から見た日本の水銀』には、川添・宮河内地区の「朱(水銀朱・辰砂)」に関する学術調査が記されています。
- 水銀朱の重要性: 水銀や辰砂(しんしゃ)は、古来より金属のメッキ、医薬、顔料(鳥居や磨崖仏の赤塗料)、化粧品などに使われた貴重な資源でした。
- 現地調査の記録: 丹川(あかがわ)から宮河内地区にかけては昔からの朱砂(しゅさ)の産出地であり、赤迫の丹生鉱山など(奥が原・サの清掃センター南側の谷ー広内)でも産出が確認されました。
- 丹生神社のルーツ: 宮河内地区の「阿蘇入(あそいり)」にある小さな祠(元宮)周辺の土壌からは、0.13%という高品位の水銀が検出されました。この地こそが、古代の朱砂採掘にちなんで創立された「丹生神社」の元宮であると裏付けられています。
8. 川添の気候と内水対策
川添地区は基本的に温暖ですが、冬季は西北からの強い風が吹き、大野川の「川嵐(かわあらし)」によって一層の寒さを感じます。
また、台風時の豪雨では大野川の水位が上がることで「内水(排水できなくなった水)」が溢れ、新田地区や迫地区で床上浸水が頻発していました。これに対し、平成16年(2004年)に約15億円を投じて大型排水ポンプが整備され、現在では床上浸水被害が大幅に改善されています。
迫のポンプ場

9. 九六位山・本城山の森




本城山の森には、イスノキ、ウラジロガシ、スダジイ、アカガシといった常緑広葉樹が原生しています。これは、かつて西日本全体に広がっていた常緑広葉樹林(照葉樹林)の貴重な残存林であり、今後の生態系調査が期待されている自然の宝庫です。
10. 希少生物「オオサンショウウオ」の生息
川添地区には、絶滅危惧種・特別天然記念物であるオオサンショウウオ(大分サンショウウオ)が生息しています。
- 保護のエピソード: キヤノン大分工場の立地に伴う道路建設工事中、清流苑裏手の高台にある池でサンショウウオが確認されました。そのため、自然を保護するために「池の埋め立てを中止し、道路を高架化する」という大幅な工事変更が行われました。
- その他の生息地: 若葉台クリニック近くの谷などにも生息しており、迫川にはメダカ、コイ、フナなどの豊かな生態系が残っています。
11. 大野川の歴史と「昭和18年 大洪水」の記録


11-1. 大野川と川添の変遷
大野川は幹川流路107km、流域面積1,465k㎡を誇る大河です。かつては水流の変化が激しく、「荒れる川」として知られていました。
大野川は荒れるほうの川であることから、 大昔より川の流れる方向がたびたび変わったことは高田風土記の中にも書かれている。
今の本川は元は (昔)地面であった。 寛永 (1624~1642 江戸初期) の頃の水害により川と変化したと伝えられている。 今でも新川とよぶ人もいる。
このように水流が変化して昔の本流は小川となり、 東の小川は絶え、溝だけ残り (現在の浄土寺、 金谷道路) 中央の新川本川となり、 水の勢いが強く水害はたびたびで洪水の時は堤防を破って田畑をうずめ、 荒地となって農民を苦しめ、 飢饉で人や家畜が死亡したと伝えられている。
- 流路の変化: 寛永年間(1624〜1642年)の大水害によって流路が大きく変わり、現在の「本川」ができました。江戸時代中期までは「白嵩川(しらたけがわ)」とも呼ばれていました。
※迫村の上に白嵩山という山があります。 - 氾濫の歴史: 高田誌によれば寛永から慶応までの240年間に30回、明治から大正初期の48年間に18回もの洪水に見舞われ、そのたびに田畑が荒廃し、人々の暮らしを脅かしました。
11-2. 昭和18年(1943年)9月20日 大水害の記録
毎秒8,800㎥という有史以来の濁流が押し寄せ、大野川の堤防が決壊。宮谷や金谷の堤防が破れ家屋が流出し20数名が流されました。新田地区が全戸孤立するなど甚大な被害を出しました。しかし消防団の救護活動が速く、船での救助で死者はいませんでした。
■ 被害状況(昭和18年9月23日付 大分合同新聞より)
- 死者・行方不明者: 大分県全体で59名(鶴崎・日岡・川添等)
- 流失家屋: 197戸 / 半壊家屋: 1,560戸
| 鶴崎 | 高田 | 戸次 | 松岡 | 桃園 | 竹中 | 川添 | 日岡 | |
| 死亡行方不明 | 18 | 18 | 1 | 11 | 1 | |||
| 流出家屋 | 40 | 32 | 52 | 12 | 18 | 29 | 5 | 9 |
■ 当時の体験談(地域の語り継ぎより)
椎原 好夫 氏: > 「全部の家が流されてきて詰まってしまい、その濁流の中に牛や馬が一緒に流されて死んでいました。」
新田地区・白井 正一 氏: >
「我が家は水害に備えて何年もかけ、田畑より4〜5m高く『うずら積み』という石垣を積んで家を建てていました。それでも昭和18年の大洪水の時は天井近くまで浸水しました。米や味噌は2階へ逃がし、牛も危険を感じたのか自ら階段を上って2階へ避難したのには驚きました。」
新田地区の高石垣『うずら積み』









鶴崎中学校 生徒(当時2年生・安部俊光 氏の記録): >
当時、宿直警備に当たっていた生徒と教師は、急激な増水により校舎(現在の乙津川河川敷にあった)ごと流されました。「幸いにも桑畑に引っかかり校舎が止まったが、寒さと雨に耐え、瓦を剥がして屋根裏で19時間救助を待った。救援隊が来た時の嬉し涙は忘れられない」と記されています。
※なお、この手記についてはこのサイトの最後にまとめて記載します。
洪水後
・大水害水位標の設置(金谷)



・水神の塔(宮谷)
: 天保元年(1830年)に建立。大野川の水害から村を守るため、水神(罔象女命)を祀り、今も地域で見守られています。

大分県大分市川添地区(宮河内)にある「水神の塔」は、江戸時代後期の天保元年(1830年)に建立された石塔です。この地域を流れる大野川の水害から村人を守り、豊かな水恵に感謝するために水神(罔象女命:みづはめのみこと)を祀ったもので、今も地域の歴史を伝える史跡として親しまれています。 <川添校区の歴史マップより>
11-3. 命を守るための治水・防災対策の歩み
川添の人々は、古くから水害との戦いを続けてきました。
- 人造の「うずら積み」石垣: 新田地区などでは、水害から家財や家畜を守るため、何年もかけて高い石垣を造成して家を建てました。
- 青年団による堤防復旧: 終戦直後、重機のない時代に地元の青年団ボランティアがスコップとトロッコを使い、炎天下や厳冬の中でも命がけで堤防修復作業を行いました。
- 近現代の治水設備:
乙津川への分流堰: 水圧がかかると自動的に乙津川へ水を逃がす仕組み。


- 河川防災ステーションの設置
堤防破壊後の修復作業資材の保管、 平成10年に完成
- 宮河内地区の堤防の補強
👉川添校区の樋管・樋門
大谷樋門


宮谷樋門


- 迫排水機場(排水ポンプ場)

(国土交通省管轄)
・設置個所 大分市川添迫
大野川右岸3.2km
・供用開始: 平成15年(2003年)4月
・総排水能力: 5.0 m3(5000ℓ)/秒


: 毎秒5トン(5,000リットル)の強制排水能力を持ち、平成16年3月に15億円かけて完成。運転は地元の消防団が行う。
運転実績
①・平成16年には台風が4回あり4回とも1回につき10時間運転を実施。
平成18年には台風が1回あり20時間の運転であった。
➁・ 評価: 排水ポンプの稼動により家屋の床上浸水はなくなった。
12. 未来へつなぐ環境保全
地域の子どもたちへ自然の大切さを伝える取り組みとして、「つるさき環境フォーラム(大野川となかよくなろう)」などが川添小学校等で実施されており、豊かな自然と防災の歴史が未来へと語り継がれています。
昭和18年大洪水関係の体験談
1・大野川の変遷の様子
昭和12年当時までは乙津川と分かれていました。 昭和4年堤防築堤、河道の掘削など本格的な工事に着工、 昭和37年乙津川分流堰建設によって現在の大野川となりました。
川添の迫村の上に白嵩という山があり、 その下を流れていることから江戸中期までは白嵩川と呼んでいました。
大野川は荒れるほうの川であることから、 大昔より川の流れる方向がたびたび変わったことは高田風土記の中にも書かれている。
今の本川は元は (昔)地面であった。 寛永 (1624~1642 江戸初期) の頃の水害により川と変化したと伝えられている。 今でも新川とよぶ人もいる。
このように水流が変化して昔の本流は小川となり、 東の小川は絶え、溝だけ残り (現在の浄土寺、 金谷道路) 中央の新川本川となり、 水の勢いが強く水害はたびたびで洪水の時は堤防を破って田畑をうずめ、 荒地となって農民を苦しめ、 飢饉で人や家畜が死亡したと伝えられている。
高田誌によれば、 1624年 (寛永1年) から1865年 (慶応1年)までの240年間に30回、 明治から大正4年まで48年間に18回の洪水被害をうけている。
2・ 洪水体験
① 迫地区の消防団は大野川に人が流されていたので腰にロープをつけ救助しています。
② ある夫婦と子供たちの避難活動場所 鶴崎寺司 乙津橋手前、
母親がおにぎりにし、一人ひとりの子ども5人の背中にかるわせ、一方父親はせまりく
る増水の中でタンスを開け階段式にし、 屋根裏をやぶり全員を屋根の上に引き上げ難を
逃れています。
最終的には水は平屋の軒先まで来ていた。
③ 鶴崎法心寺では軒先まで水につかる
④ 森町専想寺では避難してきた人や牛馬でごったかえした
⑤ 乙津の親戚では牛の死がいが庭に流れて来て片付けが大変であ った。
⑥ 水がなかなか引かなかった原因
・日豊線にかかる鉄橋下に多くの木が詰まった
・日豊線の高架が堤防の役目になり溜池状にった
⑦ 救援物資の発送
東京から父親が救援物資を送っていた
3・鶴崎中学校での洪水体験記
(鶴崎中学校校友会誌 昭和18年発行白井正巳氏所有資料)
① 昭和18年当時の洪水発生時の鶴崎中学校の場所
現在の乙津川の河川敷 (当時は河川敷内に桑畑もあった) 高田の常行の前を流れる乙津
川で、 別保の若宮八幡宮前の河川敷にありました。
②体験者
宮谷 三浦岩雄、 新田 安部俊光、 新田 白井正巳、百堂 釘宮真一、 中津留君、 教師の
5名で宿直警備 (各地区で交替制になり当日が川添の当番であった) に当たっていた。
現在の大野川と乙津川との接点にある溢流堤分流堰は当時はなく土手を築いていた時代
です。
従って乙津川は機能せず、 従来からある河川敷があいていたので鶴崎町立鶴崎中学を鶴
崎小学校にあった学校を河川敷に移転新築した。
③ 「生徒洪水記録 新田 安部俊光 中学2年生」
警備の日
警備隊の任務に就いたのが19日の午後5時、 降りしぶく豪雨の中であたえられた勤務を
終えて司令白井君以下4名、 昨日より一段と烈しくなった20日の朝を迎えた。
5時起床直ちに学校警備に当たっていた8時半ごろ朝食を取り巡察。
その時はもう非常な増水で心なしか刻々とあふれてくる来る様な気がする。
研修の後どうも私は水が気にかかるので1年の中津留君を巡察させた。
ところがなんという増水の早い事だろう、 早速体錬場に上がって来るの報告を受け行っ
て見ると嘘ではない、 時に9時20分ごろ。 堰を切った白馬はかんせいをあげて今しも
体錬場は一面の湖となっている。
私は堤防が切れたと直ちに悟り赤峰先生の指揮のもとに森部落へと避難にかかった。道
に出て見ると奔馬たけるがごとく、 どどうっと濁流が渦をまいている。 道路は深くて
とうてい歩けないので桑畑の方に行って見た。 が歩一歩水は深まりついに股まで入らね
ば歩けないようになる。
ようやくのこと桑にしがみついて引き返し道路上まで帰ってきた。
もうその時は立っていられない。 5人もろとも手をつなぎやっと校舎にたどりつく。
それから赤峰先生の指揮にて窓を皆開きその上にあがっていた。
水は激しくずんずんと増している。 これでは駄目だと衣服を脱いで泳ぐ用意をした。
浮いている教壇及び流木等を集め泳ぎ始めようとしたが泳げぬ者がいて進退きわまる。
仕方がないので炊事場の屋根にようやく登り、 減水するを待った。
しかし、水は減るどころかますます増水し、ごうごうと校舎をつつんで流れて行く。
見まわせば別保の方は堤防をところどころで越して入り、ひとのみとかかっている?。
高田村の方はと見ればひとつ島と化している。
我が校舎も一つの小島となってしまった。 電柱は折れ、 植木は倒れそのものすごさ何
のたとえ様もなかった。
その時、 第2校舎が職員便所をバリバリと突切って流れて行く、時10時20分頃、 考え
てみると大工小屋及び仮校舎はずっと前に流れていたのだった。
第2校舎が流れて後10分も経たぬ時に自分達がいた第一校舎がぐらぐらと揺れ始めた、
すはと屋上に登る。 先生はやや遅く決死の奮闘の後屋上に登って来られた。
校舎は静かに浮きすべて流れて行った。
しかし、神の助けと云うべきか。 幸いに桑畑の中に止まって動かなくなった。 始めて
ホット一息入れたが寒さには耐えきれない。
雨が個々の小石の様にひしひしと当たって痛い。 寒い。 板を取ってきて背に当てて痛
さを防いだ。
救援隊が来ぬかと四方を見まわしたが何物も視界に入らぬ。 止むを得ず瓦をはぎ取り屋
根裏の梁に身をひそめて寒さをしのぎ減水を待っていたが減水を始めたと思う間もなく
またずっと増水して来る。
数回繰り返して後わずかながら減水しはじめた様だ。 その減水も遅く、 自分達の心を
いらただせた。 それまでの寒さ及び飢えをしのぐ苦しさ、それを克服してゆく皆の苦心
実になみなみならぬ物があった。
何時間たったのだろうか。 水も大分減りまた雨も止んだ自分達の居場所も大分良くなっ
た。
外に出て見ると別保の方で誰か合図をしている。 こちらからも応じて見たが理解できな
い。
黄昏の色も濃くなり寒さも烈しいのでまた屋根裏へもぐりこんだ。
その後自分達は眠くなって来た。 5人1塊になってうつらうつら眠っていった。
幾時間位たったであろうか人声がする。 目をさました。
一緒にいた者が誰かと話をしている様だ。耳をすますと確かに外で人声がしている。
待ちに待った救援隊が来たのだ。 皆は声に嬉しさを表して「おじさん!」 と言った。
自分は目に熱い物を感じた。
出水してから約19時間困窮欠乏に耐えてようやく新しい世界に出たのだ嬉し涙だ。 感
激の涙だ、 空を仰げば円い月がこうこうと地上の我々を照らしている。
別保の村人に救助され大津さんの家にて一夜を明かす。昨夜の風雨とうって変って上
天気、 自分は東の空を伏して拝み、有難うございます、 と何にともなく祈らずにはお
れなかった。後はただ涙が出て来て仕方がない。
我が校舎はと見れば鳴呼新興の意気を謳った中学も今は無惨な様と化した。 いつ誰が立
てたのか日ノ丸の旗が翻闘と朝日に翻っている。
校舎が流失したとはいえども自分達の心は砕けてはならぬ。 自分達の校舎は流失したが
これは尊い天の試練である。 それに対して頑張りと努力がなくてはならぬ。
生死の巷を彷徨した自分も良い体験をした。 あの時の先生の愛と先生への敬いと友の信
とは永遠に忘れぬ想いとなろう。 あの気持ちこそ今後あらゆる方面に生かしてゆかねば
ならぬ。 人生を尽して天命を待つの古語もまた西郷南洲の幾度が辛酸を経て志始めての
境地も何かわかる気がする。
やろう復興へ!復興の意気に燃えて鶴中健児の意気をこれから示すのだ。
4・<新田地区の白井正一氏 洪水の記憶 平成元年盛夏>
うちの屋敷は「うずら積み」 を何年もかかって高くしてきた。そのため屋敷の造成費用が家を建てるほどかかった。 田や畑より4~5メートルは高くなっている。 それでも、 昭和18年の大洪水のときは天井近くまでつかった。 米、 味噌 醤油等は水害の時の話をよく親より聞いていたので2階へ運んだ。 牛が流されそうになったの母屋の床上にあげた、 牛も、 水位が高くなり身の危険を感じたのか2階へあがってしまったのにはびっくりした。 母屋の前に 「薪小屋」 があったが、 それが家の横まで流されていた。近くの人が洪水で流されたが大樹につかまり助かった。
金谷の放水路の近くの堤防が決壊したため、急に増水したため他へ避難する余裕がなかった。 洪水がひいたあと家の中は泥や流れ物でどうしてよいか、なかなかもとのようにするには、時間がかかった。
炊事をするにも井戸がふさがり水がなく、 ご飯を炊くにも薪が流されどうにもならなかった。 金谷交差点の東側に金谷校があったがその校庭まで水位があったと聞いている。
水害の時のこわさや苦しみは言葉で表せず、 また、 わかってもらえないだろう。
5・洪水後の堤防復旧を行う
住みよい地域を作つくるために、遠い昔から祖先の人々は水とのたたかいをしてきた。 この、 新田堤防づくりも新田の人をはじめ川添地区民は力を合わせ必死で頑張ったことでしょう。
堤防づくりについて、 川添公民館の児玉睦雄氏は次のように話してくれました。 昭和18年の台風による洪水のため新田の堤防は宮谷の水門の近くと金谷の水門の二箇所で決壊した。
終戦 (昭和20年) になって復員したときはほとんど修復にかかっていなく、被害の大きさにびっくりした。 私達、 村の青年団員は奉仕作業 (今のボランティア活動) として全員協力して堤防の復旧工事に取り組んだ。 工事は今のようにダンプカーやブルドーザーがなく、 トロッコを人や馬でひっぱっていた。 土を掘たり、トロッコに入れたりするのは、クワやスコップを使っていた。
冬でも汗をかき、夏は炎天下の中でも休むことなくみんな頑張た。金谷の堤防工事作業中、 体格の良い元気な先輩が土砂に埋ってなくなったことは、今でも忘れられません。
当時の村財政は必ずしも良かったとはおもはないが、 堤防づくりは村を挙げて全力投球したと思われる。
国は昭和4年に大野川全域にわたり治水計画をたて着工した。 昭和21年と昭和49年に過去の水害の教訓を生かして二度に渡り改修工事を立て工事を進めた。 現在の堤防は昭和56年に完成した。





