高田周りの百堂の渡し、金谷の渡しは見て回っったが、松岡の船本にある船本の渡しも見たくなり、訪ねてみることにした。船本の渡しに到着すると川の中にコンクリート舗装の遊歩道らしきものが川の下流に続いている。これは大野川乙津川分派<導水路>らしい。
溢流堤まで続いているので、この後、溢流堤にも再度行ってみようと思う。

船本の渡し

進入路

船本大橋を過ぎ、土手沿いの道を進む。生コン工場のプラント前を通り過ぎ、崖沿いの道を進むと渡しの入り口が見えてくる。

船本の渡し入り口

渡しの入り口で写真を撮っていると船本地区の老人に出会う。(昭和18年の大水害をよく覚えていたので十分な老人である) その老人から渡しの話や船本の水害の話をうかがう。
 昔は下記の写真の川の中の青い線まで水があり、渡しの船で戸次に渡っていたそうだ。その頃は戸次の町が開けており、渡し舟で戸次に買い出しに出ていたそうだ。
船頭は船本の住人が必要に応じて行っていたようであるが、世の中が車社会になったことにより、昭和49年ごろ(1974年ごろ)廃止された。
 

船本の集落と洪水

平成9年の洪水で、船本の渡しのあたりは低いのでごみ収集ボックスの上まで水が使ったと聞いて驚きはしなかったが、上の家の一階まで水につかったと聞いて驚いた。
ちょっと小高い丘らしいところに集落があり、水の心配はなさそうに見えたのだが。昭和18年の水害についても聞いたが、こんなものではなく彼の家の床まで使ってしまったという。ただ、彼の家はわからずじまい。

大野川乙津川分派

乙津川は常時水が流れている。それを可能にしているのがこの大野川乙津川分派<導水路>である。この水は大津留の溢流堤の下を通り乙津川にそそがれている。
では、どうして大野川乙津川分派<これからは導水路と表記する>が設けられたのか。
 それは、溢流堤を設けたことにより、乙津川の水量がなくなり、家庭排水や工業廃水により汚染されたことによる。洪水時以外は乙津川に周囲から流れ込む四つの支流の水のみであった。
そのため、常時水を取水できるよう、上流の船本から導水路をひき、昭和37年に完成した溢流堤の下に新たに排水路の工事を行い、乙津川に水を流せるようにしたのである。
 また、この溢流堤の下の暗渠部は、ふだんは暗渠部から導水路の水を流しているが、出水時は閉めて上の越流部を流すようになっている。
この導水路の工事は昭和51年から、11年の年月と30億円をかけて完成させたものである。
 船本から大津留までの導水路の横は立派にコンクリート舗装され、私が行っている間でも多くの人が犬の散歩や釣りに来ており、良い憩いの場になっているようである。

大野川乙津川の分流地点

右手が大野川、手前が乙津川とここから分かれている。

ここで大野川側と乙津川へ水がわかれている。
分派は船本から大津留溢流堤に続く

3km以上ある導水路、景観豊かな散歩コースである。最初は遊歩道化か、と思ったが、大津留の溢流堤まで水を引くという立派な目的があったのである。

<18年水害と大津留溢流堤> 

  後日アップ予定