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👉高田の歴史 👉高田水害の歴史(昭和18年水害および高田水害に関心の方はこちらをご覧ください)

昭和18年の大水害は鶴崎地区では輪中地帯の高田のみにみまわれたような感覚があるが、判田の方から戸次、鶴崎に至るまでの広い範囲に及んでいる。高田地区も松岡地区の氾濫による内水が鶴瀬(鵜猟ガ瀬地区)の堤防を決壊させ高田地区の水害に及んでいる。その当時、氾濫した水位がどこまで上昇したか、各地にその水位標として残されている。
 今回、その各地の水位標を調査してみる。(戸次地区、川添地区、別保地区、鶴崎地区)
なお、この投稿内に使用している標高はGPSの値を利用しており、測量したものではありません。
また、後で書きますが、私の個人的な問題のため、現在、車も自転車も利用できない状態のため、判田地区や、松岡地区の水位標や他の水位標の確認の調査ができておりません。後日修正しアップしたいと思います。

高田の水位標

※参考サイト
👉昭和18年大水害その1(決壊時写真)   👉昭和18年大水害その2(決壊箇所と現在)

1・高田地区の水位標

高田地区では、江戸時代から現在まで過去400 年の間に60 回以上もの水害が起こっている。特に昭和18 年(1943年)9月20日の水害は、死者18 人、流失家屋32 戸、全壊6 戸、半壊300 戸、さらには家畜の馬・牛をも流失したほどの最大のものであった。
この水害は前日から降り続いた大雨によって鶴瀬地区の堤防が決壊したことによって発生した。丸亀地区では2.7m 浸かっており鶴瀬地区の10 数戸を一気に押し流した。(高田公民館資料2013)

その時の水位がどのようなものだったか今も残る関門と上徳丸の水害痕跡表示家屋を見てみよう。

関門地区

関門の標柱が設置されている標高は5.6mほどである。洪水時の水位はそれから3m以上上がっている。
※この水位標は現在撤去され移転を予定している。

上徳丸地区

水位標位置図

水位標設置個所の標高は約6.0mである。水位はそれから3.0mほど上がっているようである。

2・戸次の水位標

戸次地区には二か所(楠木生・戸次本町)の水位標が設置されています。戸次も高田と同じように昔から大きな水害にあってきたようです。

楠木生公民館横(楠木生神社入り口)水位標

私の目を引いたのは、昭和36年10月の水害です。その時にテレビ(もうあったか不明)、またはラジオで大きく災害を報じていました。
私も小学生で、何か不安を感じたことを覚えています。それは高崎山の仏崎で崖崩れがあり、たまたま通っていた電車が埋まってしまったことです。30人以上の人がなくなり、通学途中の中高校生がなくなったことが強烈に印象に残っています。

この水位表を見ると昭和18年の水位がいかに高かったかがよくわかります。

楠木生公民館の標高は約11.5mである。

中戸次水位標

この標識が立っている当たりの標高は12.8mである。昭和18年の水位はそれから約2m上がったところになり、水位高は14.8m前後か。
 楠木生公民館前の水位標の昭和18年の水位は14.3mであるので、上流ということを考慮すれば大きな誤差はないと考えられる。

3・川添の水位標

川添の水位標は宮河内方面と戸次方面の交差点の上にある金谷天満宮内に設置されている。この交差点は標高7.3m、小学校あたりからすると低く感じる。
川添橋を渡った交差点の標高は13.7m、川添小学校は、15.2mである。しかし、高田と比較すると、高田は平地で、ほぼ5m~6mの範囲内である。
やはり、高田は周囲から比較すれば低地だと言える。

「川添校区歴史マップ 」より


大水害水位標
昭和18年(1943)9月17日からの雨は集中豪雨となって3日3晩降り続き、20日の夜明け、堤防が決壊し、大きな被害が出ました。
この水害を教訓に、金谷天満社境内に水位標を設置しました。

4・別保の水位標

水位標はうるま葬祭場の旧道側からの入り口に設置されている。標高は4.7mであり、高田と同じか、低いぐらいでもある。以外である。
しかし、水位標から行くと、今も地盤から2mちょっと上がった感じである。高田より、バックグラウンドが広い分、水位の上昇が抑えられたのかもしれない。

5・鶴崎の水位標

大野川の流末である鶴崎にも水害の被害は同じように発生している。流末であることを考慮するともう少し水位は低いのではと考えていたが、あまり変わらない水位を記録している。
 水位標のある北川園の近くの標高は4.0mである。

北川園の水位標の下に説明文が掲示されていた。
その説明を書きだしてみたいと思う。

大洪水の記録

昭和18年(1943年)9月20日、鶴崎地区は大野川堤防の決壊により大水害におそわれました。その時の推定最高水位標高は6.62m
現在の市道標高(東鶴崎三丁目一番地先)よりも2.92mも高い濁流が押し寄せ多大な被害を受けました。また、その翌翌年の昭和20年にも大水害が発生しました。