松岡、川添、高田地区の渡しの概略図

※渡しや旧道路を赤線で表示していますが、正確なものではなく推定で表示しています。
  草木の枯れた冬に川添地区の詳しい方とルートの確認を計画しています。

なお、これらの渡しは大野川を渡った後は(特に堂園の渡し、百堂の渡し、金谷の渡し)すべて川添側の尾根(志村から宮河内)を結ぶ道につながっているようです。

松岡、川添、高田地区の渡し

鶴崎地区にも多くの渡しがあったようです。松岡の船本地区には①船本の渡しが、また、明治、松岡、川添とつながる渡しとして②船場の渡しが、また、高田、川添をつなぐ渡しとして③川添の渡し、➃旧百堂の渡し、⑤新百堂の渡し⑥堂園の渡しと接近して4つの渡しがありました。この四つが同時にあったわけではなく歴史の中でその役目により順次廃止されていったようです。(なお、鶴崎方面の渡しは除いています。)

①船本の渡し

船本の渡し 👉船本の渡しの詳細

船本の渡しは現在の船本大橋の上流300mほどのところになります。
この渡しは戸次への買い出しや文化の交流等に、船本の人が船頭になり必要に応じて渡しをしていたようです。しかし、車社会になり利用者が減り昭和49年(1974年)に廃止になりました。

②船場の渡し

舩場の渡し
松岡の毛井と川添の杵河内を結ぶ渡しです。ソニーセミコンダクターの大野川あたりです。
(詳細な位置はわかりません)
毛井と杵河内で協働運営をしていたようですが、昭和45年に廃止になりました。

※明治の横尾、猪野、葛城、松岡の毛井、川添はかって臼杵藩だったことを考えると、臼杵藩の交通網として府内、臼杵をつなぐ場合、臼杵領をつないだルートだったのではないかと考えます。
 江戸時代臼杵藩は猪野、横尾、毛井を経由して、舩場の渡しを渡り、杵河内、浄土寺 (今の宮河内ハイランド) を経由して広内、広内峠方面に行き、臼杵へ向かったと思われます。

③金谷の渡し  ⑤百堂の渡し 

金谷の渡し、百堂の渡しは次をご覧ください。 👉金谷の渡し、百堂の渡し

③金谷の渡し

大正14年(1925年)県費による県の渡し(無料)となります。
昭和32年3月川添橋が開通するまでの33年間県営の渡しとして活躍します。
また、昭和27年仮桟橋完成のため百堂の渡しは廃止されます。

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➃旧百堂の渡し

旧百堂の渡しは大分(府内)から臼杵藩の横尾村にある岩船の渡しを渡り、南、下徳丸の鍛冶屋小路、東陽中学横を通り、大野川の堤防に進みます。そこから、川添の現在ある石鎚神社前あたりの大野川を渡る渡しです。渡ったのち、正面の山を上がり広内を通り臼杵、佐伯に通じる本街道でした。
川添地区では「殿様道路」と呼んでいます。

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⑤新百堂の渡し

関門の交差点から大野川に向かって直進し、そこから、川添の百堂側にわたる渡しです。
百堂は川添の臼杵藩ではなく、熊本藩であったため関門に属し、関門が管理していました。
 川を渡り、山側を進み、上がりついたあたりを坂ノ市側(佐野方面)と宮河内方面への分かれ道になります。
主に坂ノ市(志村)方面に利用されていたようです。

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⑥堂園の渡し

高田側
和初期から昭和10年代にかけて堤防工事が行われ堂園の渡しは昭和6年に廃止になりました。なお、川添側は種具の郵便局のすぐ北側にある道を山側に上がっていき、上の志村から宮河内を結ぶ線につながっています。

川添側

<高田を歩く 高田の渡しより>
鶴崎から上徳丸への街道が現在の大野川堤防側(橙色の道路)に通っていましたが、鶴崎側の堤防(黄緑)時期ははっきりしませんが昭和初期から昭和10年代にかけて堤防工事が行われました。鶴崎から堂園まで伸びている堤防 △a と関門の端まで伸びている堤防△bを結ぶ堤防工事が昭和の10年代ごろに行われたため、既設の街道は埋められ堂園の渡しは昭和6年に廃止になりました。

渡しと殿様道路(渡し~宮河内ハイランド周辺まで)

現在では県道21号線が大分市内と臼杵をつないでいますが、江戸時代以降も府内藩と臼杵藩をつなぐ道路があり、川添では殿様道路と言われています。大分から乙津川の岩舟の渡し、大野川の百堂の渡しを渡ってそのまま山の方へ進み、宮河内・広内をとおり臼杵に到着します。
また、杵河内の方にも、船場の渡しがあり、こちらは明治の横尾、松岡の毛井から船場の渡しにつき、宮河内・広内を経由して臼杵につきます。

渡しから殿様道路


※渡しや旧道路を赤線で表示していますが、正確なものではなく推定で記入しています。

広内の幕府巡見使御宿と殿様道路

巡見使は将軍の代替わりごとに諸藩に派遣した使節で、広内には3つの御宿が設けられていました。
 現在は建て替えられその面影はなくなっていますが、今でも殿様御宿跡として残っています。
また、川添の歴史マップによると、臼杵藩主の稲葉の殿様が狩りが好きでよく利用されていたとも言われています。

九六位山登り口より広内部落を望む
殿様道路と御宿跡位置図

幕府巡見使御宿跡(一の宿・二の宿・三の宿)

「ふるさとの史跡・文化財」川添公民館 平成8年9月発行 によると
巡見使は、 将軍の代替りごとに幕府が諸藩に派遣した使節で、その職柄は現在の行政監察官のようなものである。 これに補せられた者は、目付または目付級のところであったから、 諸藩に対しては大いに押しのきくところがあった。
 豊後諸藩を巡見するのは三組 (一組 約三十五名 総勢百名から百二十名)で、一ヶ月を要していた。
 臼杵藩では、巡見使派遣の知らせを受けると、 宿泊する城下の豪商宅三軒や昼食休憩する広内村小庄屋宅ほか二軒の民家を御宿と決め、 家の造作にかからせたり、 道路をよくしたりして上使巡国には無礼の無いよう、 細心の心遣いをしていた。 その様子が詳細に庄屋文書に残されている。
一の宿 二の宿、三の宿とも建替えられ当時の面影はないが、 現在も「殿様御宿」と呼ばれている。


第一の宿跡

第二の宿跡・第三の宿跡
第二の宿跡
第3の宿跡

(広内の文化財・史跡) 火伏地蔵

この火伏地蔵は高さ2m半程もあり、八角面に入っの仏像が刻まれているいわゆる八大菩薩 文殊・観世音・ 勢至無尽意・宝壇華・薬王・薬上弥勒菩薩である。
 その昔臼杵の人が鶴崎の石工に注文、出来あがったものを、広内経由で運んでいたがここまで来ると持ち上げることができず、 「お地蔵様はきっとここに居たいに違い無い」 ということになり、ここに安置したという。
その後安政年間に大火があり、僅か三戸しか残らなかった。 そこで村人は「たとえ三軒になろうとも地蔵まつりをし、供養おどりは絶やさないから、村を火災から守り給え」とご願を掛け、爾来毎年八月二十四日の「地「蔵盆」には踊りが受け継がれている。
「ふるさとの史跡・文化財」川添公民館より

火伏地蔵

(広内の文化財・史跡)広内公民館(広内分校)

明治8年金谷小学校の分校に属す。 校舎の設備なきため民家を借りて校舍にあてる。明治10年借地して校舎を新築。 同12年公立広内小学校と改称。 同22年の生徒一年生7人、二年生7人、3年生3人計17人とある。 (単級)
明治25年七月宮河內尋常小学校内教場。明治43年川添尋常小学校広内分教場、 大正3年川添尋常高等小学校広内分校。 昭和10年在籍36人 (4年生まで 単級) 昭和47年3月在籍減少により廃校。「ふるさとの史跡・文化財」川添公民館より