第251回大分ゆうゆうウォーク(犬飼町 参勤交代道路)が7月31日に行われる予定になっていたのですが、熱中症アラートが発令され中止になってしまいました。
以前から犬飼港については気になっており、これを機会に犬飼から三佐港へのルート、(今回は主に犬飼までのルート)についての参勤交代時のルートを調べてみました。
 なお、岡藩のルートは竹田から三佐までですが、今回は犬飼港を中心にアップしたいと思います。三佐港については後日に取り上げたいと思います。

犬飼港跡を望む

犬飼港付近
旧犬飼大橋から犬飼港を望む

岡藩参勤交代道路

肥後街道から萩原の港へ (1623年まで)

肥後街道 (野津原 今市の石畳街道)

肥後藩は肥後街道を利用して大津、阿蘇、久住、野津原を通り、鶴崎から江戸に向かっていました。その野津原の今市石畳がその跡を残しています。
そしてまた、竹田の岡藩(中川氏)も当初はこのルートを利用して萩原の今津留村の沖の浜港から大阪へ、そして陸路江戸に向かっていました。
しかし1623年、岡藩は幕府から萩原を三佐・海原村と領地替えされます。
 では、どうしてこういうことになったのでしょうか。
「大分県史」によれば越前国(福井県)北庄城主七十五万石松平忠直が領地を没収され、府内城主竹中重次にお預けときまり、忠直に与えられた厨料(くりや まかないの領地)のうちに萩原がふくまれていたためである。とあります。
[松平忠直]
ではどうして府内藩に流罪にされたのでしょうか。
松平家は名門で忠直は家康の孫にあたります。二代目徳川秀忠は忠直を気に入っていたのか、忠直は13歳で越前国67万石を与えられます。又、21歳の時には秀忠の娘、勝姫を正室に迎え順風満帆の時を迎えます。ところが1612年、家の勢力争い「越前騒動」(えちぜんそうどう)がおき、その収集のために家康や秀忠がかかわります。このことにより、忠直の評価は大きく失墜してしまいます。
また大坂夏の陣における論功行賞に対する不満を境に、目に見えて乱心がひどくなります。酒色に溺れ、徳川秀忠の娘・勝姫という正室がいながら多くの妾を囲うようになり、徐々に精神が乱れていったのです。家臣や住民を気の赴くままに殺害したりと乱心が続き、最後には正室の勝姫が邪魔になり殺害しようとする計画が露呈するまでになり、忠直は1623年隠居を命じられ、府内藩(大分)に配流(はいる 流罪)されます。しかし謹慎の身でありながらも5000石が与えられ、そのなかに萩原が入っていたのです。しかし、萩原は海に近く、船で逃亡する恐れがあるということですぐに津守に移され、そこで1650年56歳で亡くなっています。

岡藩、萩原から三佐に移転

船着き場が萩原から三佐に移ったことから、岡藩の交通路が大きく変わっていきます。
これまでは先に書いたように肥後街道を使って萩原の船着き場に向かっていましたが、三佐に船着き場が移ってからは城内から陸路で大野郡を通り犬飼まで向かい、犬飼からは三佐までを大野川を下っていきました。
岡藩中川氏は三佐港と同時に犬飼町の建設も行いました。
明暦年間(1655年~1660年)のころに岡藩によって犬飼から下流の大野川の整備が26㎞にわたって行われたとあります。犬飼から三佐までが25㎞ほどのため、犬飼から三佐までの船のルートの整備がされたということでしょう。
このことにより、多くの物資を三佐まで船で運べるようになりました。臼杵藩も三重の物資(煙草や年貢米)をこのルートを利用しています。
 犬飼の発着は当初、犬飼の上流の田原(鶴の瀬)でしたが、1656年に犬飼に岡藩の御蔵が建てられ、町屋ができ始め、船着き場も犬飼に移っていきます。又、1662年に御茶屋ができ、御蔵も増築されたころから犬飼、三佐間の大野川通船が本格的に盛んになっていきます。
この河川交通が最も盛んだったのが明治の初めごろで16の舟問屋と135の運船があったといわれています。
 しかし、大正六年(1917年)に豊肥線鉄道ができ、川舟交通は終わってしまいます。

犬飼港から三佐港へのルート
(大分市歴史資料館で見せていただいた豊後国志の付図に記入してみました )

豊後国志付図 文化元年(1804年作成) 絵師 田能村竹田  を引用

犬飼から戸次まで大野川を流れ、大津留の分流地点で乙津川を流れ三佐港にたどり着く。大野川では熊本藩の領地にたどり着くため、他藩の領地を避けたためと思われる。現在では乙津川は溢流堤ができ水量が少なくなっているが、当時は船が運航できるほどの水量があったと思われる。
 また、帰りは三佐から野津原を通る肥後街道を利用して竹田に戻っることが多かったようである。

岡藩の犬飼港、及び鶴の瀬港までのルート

鶴の瀬港の位置、犬飼港、までのルートを犬飼支所の職員、犬飼港の上にあった浄流寺の住職などに聞きながら二日間にわたり参勤交代時の通路を探してみました。

岡藩が萩原から三佐に替地された年1623年ごろから田原村の鶴の瀬港(現在はこの地名が残っておらず市の職員の話ではこの地図当たりだったのではないかと言われています)が三佐までの着舩場として使用されていました。
このルートは岡藩竹田から朝地、大野を通り、大迫地区で鶴の瀬ルートと犬飼ルートに分かれています。
替地された1623年からは鶴の瀬港を使用していましたが、その間に犬飼を開発し1656年、御蔵所、岡藩の役所を設けていきます。また、岡藩主の宿泊所であるお茶屋が1662年に建てられ、完全に鶴の瀬港から犬飼港に移っていったのです。1632年から30数年の利用に過ぎなかったためか、その跡らしきものも無く、また地元の人にもそういう歴史があったということがほとんど知られていないようです。



犬飼港ルート及び鶴の瀬ルート

鶴の瀬港周辺

犬飼・犬飼港周辺

史跡位置図

かまぼこ石・犬飼町並み

当時の参勤交代道路に名残として、犬飼の上町には石畳道があり、その肩には転落防止なのかかまぼこ型の縁石があります。
 このルートは犬飼の下町と山側の武家屋敷との間につくられています。どうして現在の犬飼の通りを外しているのかわかりませんが、もしかしたら下々のものに顔を見られないように殿様専用の道路だったのかもしれません。

また、犬飼の町中には当時を思わせる家屋が多く残っています。バイパスが大野川右岸に先にできたため、古い町並みが残っているのかもしれません。
                               犬飼の当時を思わせる街並み

犬飼漁港

犬飼漁港(荷上場石畳)

下記の写真の草の生えている部分が昔の荷上場の石畳です。

犬飼港 (殿様専用港)

ここは殿様(藩主)専用の港です。ここまでの道を火の道というそうですが、浄流寺の住職の話では火を焚いて石を割ってここまでの道を作ったことから火の道というのだそうです。


お茶屋跡