ふるさとの民俗 徳丸地区の民俗資料調査 昭和38年
昭和38年に大分教育委員会が全国民俗資料緊急調査の一環として大分県下の30か所の調査を行うが、その一つに高田の徳丸地区が選ばれ調査が実施された。
その調査に当られたのが安部光五郎氏である。高田小学校の校長をされ多くの高田の協力者がおられた。また、長子の奥さんは徳丸出身である。
内容の70%ほどは記憶があるが、残りに関してはそんなことがあったのか、という感覚である。年代によって懐かしさも変わってくるだろう。
この書に関し長子光太郎氏の奥さんの同意を得てアップするものです。
安部光五郎氏のプロフィール(郷土史家)
明治41年鶴崎に生まれる。
昭和4年3月 大分師範学校を卒業
昭和41年まで小中学校教諭及び校長
昭和42年~昭和45年 鶴崎公民館長
その後も郷土史家として多くの執筆をされる傍ら「ふるさとの歴史教室」(大分市鶴崎地区文化財研究会)の会長をされる。
高田とのつながり
昭和30年代に高田小学校の校長をされる。また、長子の安部光太郎氏も高校の教師をされ光五郎氏と同じく歴史教室の会長をされる。(令和元年に亡くなる)
奥さんは徳丸の出身である。
目 次
1・ 民俗資料調査のいきさつ
2・ 調査地
3・ 調査期間
4・ 調査項目
5・ 調査員
6・ 協力者
7・ 民俗資料調査記録(記録者 安部光五郎)
(1)総観(地区の地理、歴史、農業等の概要 付地図)
(2)生産暦(麦・ごぼう、さといも、大根)
(3)生産と用具(麦作、ごぼう堀、粉ひき、山の下刈、入鎌業)
(4)仕事着 (男女別に顔・頭、手、上体、下体、足、その他)
(5)染・織(絹織物、木綿織物、クチナシやアイ染、コーヤ(紺屋))
(6)毎日の食事 (この地方に米のないことを、同じ地方内にある寺
院の名にかけて風刺した歌あり。高田スアワメシこぼうの葉
の風刺のことばあり。主食は粟、小麦、裸麦。副食物は野菜・漬物?
(7)赤飯・餅・だんご(オコワ、アズキメシ、アズキ、ガユ、あん 入餅、正月餅、
粟飯、ぼた餅、草餅、イモダンゴ、彼岸ダンゴ、お盆ダンゴ)
(8)住居 (典型的な民家の図、部屋の名称、建築儀式)
(9)かまど・いろり(カマヤ、クド、ナガシ、水ガメ、タナ、荒神さま)
(10)社会生活 (若連中、若いもん組、青年会、消防組)
(11)組・講の用具(講組、葬式組の膳椀、頼母子講、永楽講、宮総代、宗教関係の講)
(12)運搬(ロ クシヤク、オウコウ、馬、リヤカー、船、渡し船、背負い)
(13)交易(野菜の小売、野菜の出荷、入鎌商、金物の行商、時候物の行商、門田の市、
万弘寺の市)
(14)一生の儀礼(帯祝い、産日の祝い、七夜、お宮参り、初節旬、誕生祝い、婚姻関係、
年祝い関係、葬送、周忌等)
(15)別火・ 墓制(お産の時、死亡の時、土葬、死葬)
(16)年中行事
(17)祭 、道祖神など.
(18)山車、舞台など(人形ヤマ、太鼓ヤマ、小屋がけの芝居)
(19)その他の重要なもの(箱膳)、一生の儀礼(詳細)、年中
(20)補充(一生の儀礼、年中行事)
8・ 写真
9・参考文献
1・ 民俗資料調査のいきさつ
昭和38年度(1963)に 大分県教育委員会では、全国民俗資料緊急調査の一環として、県下30か所を指定して民俗資料を実施した。
衣食住・生 業・信卸・年中行事等に関する風俗慣習及びこれに用いられる衣服、器具、家屋その他の物件で、住民の生活の推移を理解するためには欠くことのできない貴重な文化財である。
ふるさと鶴崎地区は新産都建設の中核として大きく変ぼうし、徳丸地区住民の生活様相も他地区と同じように急激に変遷しつつある。
ふるさとの先人たちが営々として日常生活の中で築きあげた文化財が、今や消滅しようとしている。
この時に当り、この調査記録を残すことは必ずや後世に役立つことと思うし、ふるさとを見直し、ふるさとをよりよくしようとする「ふるさとづくり運動」の一助にもなるものと信じている。
本資料調査は粗雑なものであるが、後記の調査員が多くの方々の協力を得て、およそ半年間現地での実態調査、古老からの聞き取り調査、古者による風俗・慣習の再現、文献による研究、写真撮影などを重ねて、調査結果をまとめたものである。
2・調査地
大分市大字下徳丸及び大字丸亀の内上徳丸地区
(旧 熊本藩時代、上徳丸、下徳丸村に属していた地区)
3・調査期間
昭和38年(1963)6月1日~ 11月
4・調査項目
(1)総観(2)生産暦(3)仕事と用具(4)仕事着(5)染・織(6)毎日の食事(7)赤飯・餅・ だんご(8)住居(9)かまど・いろり(10)社会生活(11)組 ・講の用具(12)運搬(13)交易 (14)一 生の儀礼(15)別火・ 墓制(16)年中行事(17)祭・道祖神など(18)山車,舞台など(19)その他重要なもの(20)補 充
5・調査員
(1)安部光五郎(男) 55歳 鶴崎小学校校長
(2)植木初男(男) 55歳 大分市社会教育主事兼鶴崎地区中央公民館主事
6・・ 協力者
(1)森 賀寿 (女) 79歳 興聖寺居住
(2)岩尾則吉 (男) 76歳 有識者
(3)中村寿徳 (男) 73歳 元小学校校長
(4)筒井 始 (男) 72歳 市議会議員
(5)岩尾亀雄 (男) 70歳 元高田村村長
(6)小手川又吉 (男) 68歳 元小学校訓導
(7)高嬌耕雲 (男) 59歳 興聖寺住職
(8)杉本智勝 (男) 53歳 高田公民館主事
(3)そ の他多数の方々
7・民俗資料調査記録
1・ 総 観
地理
1・位置
本地区は大野川の本流と分流乙津川に囲まれたデルタ地帯の一部で、東南は大野川をへだてて川添地区に対し、西は南、鶴瀬の部落をへだてて乙津川に面し、北は関園・常行部落に接している平担地で交通は四囲に通じ、いたって便利である。
2・洪水
大野川は荒れる方の川であるからこの地区も度々の洪水で大きな被害をうけている。 (明治初年から大正4年まで48年間に18回もの洪水による被害をうけている)そのため洪水に対する工夫がいろいろとなされているのも本地区の特殊性である。
歴史
1・本地区生成の伝説
(イ)藤島の伝説
鶴崎地区一帯の称で藤が上流から流されてきて三角州に根をおろし、島となり陸地となった。
(ロ)須賀在(すがざい)の伝説
高田地区一帯の称で「洲が在 すがざい」の意味であろうという。
2・徳 丸の名称の起源について
徳丸氏が住んでいたのでこの名称 がつけられたのであろう。徳丸氏が繁栄するに従つて本家、新宅の別が生じ、上徳丸、下徳丸とよぶようになったという。
3・町村合併
(イ)旧藩時代(細川氏) 上徳丸村、下徳丸村
(口)明治11年 丸亀村、下徳丸村
(ハ) 明治22年4月1日 高田村
(二)昭和29年3月31日 鶴崎市
(ホ)昭和38年3月10日 大分市
年次 | 人口 | 戸数 | 備考 |
---|---|---|---|
明治5年 | 2500(推定) | 590 | 篠田九万太氏調査 |
大正5年 | 2,540 | 415 | 高田村志による |
昭和35年 | 2453 | 443 | 昭和35年10月1日国勢調査による |
*《参考》令和3年1月現在 (戸数) 2,859戸 (人口) 6510人
種別・沿革
農業・ 酪農業
主なる生産
旧藩時代より明治、大正時代にかけては、ほとんどが畑作で大麦、小麦、大豆、こぼう、大根、里いも等の産出が多く、特にごぼうは多産である。
(イ)促成栽培
昭和27年頃よりビニールハウスによるトマト、キュウリ、スイカ等の促成栽培が盛んになった。
(ロ)水田
昭和33年頃より水田が開発された。
(ハ)酪農
近年酪農が急速に発達した。
(二)鎌鍛冶
明治中期頃有名であった。
規模・資源等
1・野菜
度々の沌濫で土地は肥沃となり野菜の栽培に適している。特にごぼうは「高田ごぼう」として、味とかおりがよく、やわらかさがすぐれているので、遠く北九州、阪神方面まで出荷されている。 近年ビニールハウスによる野菜(上 記のもの)の促成栽培が普及している。
2・水 田
昭和井路の開道によって昭和33年 頃より水田が開発され、畑作だけであった本地区に大きな変化をきたした。
3・.酪農
1914年 (大正3)千葉県より種蓄を入れて以来年々改良を加え、今日の隆盛をみるに至った。
副業・兼業
金物、蚊帳、農具等の行商
その他の仕事
季節的な仕事
冬期は薪にするため料金を出して、官有林(川添)の下狩りを行った。
夜なべ
機織、ものすり(粉 すりのこと) ものつき(麦や粟つき)。
出稼ぎ
金物、蚊帳、農具の行商に出かけた。
2・ 生産暦
3・仕事と用具
主にどのような仕事をして暮らしていたか。その仕事にはどのような道具を、どのように用いていたか。
1・ 麦作
10月 頃、鋤、ふづくいで掘る時マヤゴエを入れて 整理したあと、ウネをつくり、種をひねって(播いて)足や鍬で土をかける。
芽が伸びるに従って2~ 3回 鍬で中打(中 耕)をし、土よせをする。追肥にはマヤゴエや人糞をやる。寒い時に麦ふみをする。5,6月 頃鎌で麦刈をしてほす。センバ(千 歯)で 穂を落し、ニワにひろげてほす。かわいたらメグリ棒で打おとす。フルイまたはトーミーにかけて精撰し、すぐ俵に入れて保存した。
2・.ごぼう掘
整地、種まき、間引き、草取り、施肥など他の野菜とづくりと大差はないが、違うのはごぼう堀である。
長さ1メ ートルもあるごぼうを、きずをつけないように、折れないように丁撃に掘りあげるのであるから、その掘り方も特殊な方法である。ごほうの一方の土地を大人の腰のあたりまで掘り上げて、丁寧にごぼうを取り、次のウネまでまた深く掘る。こうして一ウネーウネ堀っていく。掘ったごぼうは丁寧にワラ包をして出荷する。
3・ものすり(粉 ひきのこと)
小菱やそば等をひき臼ですって、フルイにかけて粉にする。雨の日や夜なべの仕事である。ひき臼は 一人用の小さいものから2、3人用のの大きなもの等があった。若い男子が若い女子の家にものすり加勢に行 って夜おそくまで話し合いをするこ とが多かった。
4・山の下刈り
冬の農閑期には川添の山の持主と特約して薪をとるため山の下刈りに行った。シガキガマ(刃の厚い謙)を持って行った。数把または数十把の薪を取っていた。
5・入鎌業
現在ではなくなったが、明治中期の頃は盛んで、この地区独特の仕事であった。入鎌師は初冬の頃、鎌鍛冶に鉄と鋼を渡して、鎌の製作を注文し、翌春できた鎌を持って、得意先(近郷はもちろん、遠く宮崎県、熊本県まで出かけた)に 配って置いてくる。その年の秋から年の暮れにかけて代金を取りにいく。時には米・椎茸等と交換してくることもある。その後、金物類、時候物(ふとん、 蚊帳、農具等)を売る行商人が多くなった。
4・仕事着
どのような服装で仕事に出かけたか。
部位 性別 | 男 | 女 |
---|---|---|
頭・顔 | テノゴイ(手拭)で、ほおかぶりをする。 アミガサをかぶる。 | テノゴイ(手拭)を髪に巻く。(あねさんかぶり) アミガサやスゲガサをかぶる。 |
手 | 手コウをつける。(若い者は浅黄) | 手コウをつける。 (紐がついていて腕に巻き付ける) |
上体 | 長き着物(木綿もの)を着て尻をからげる(後の中程のすそをあげて帯にはさむ)。ツツポ(筒袖) のウワバリ(上張)を着る人もある。 ハダギ又はシヤツを着る。 | 長い善物(本綿)を着尻をからげる(すそ全部を折りかえして前を帯にはさむ)。下にハダギ(肌着)を着る。 |
下体 | モヒキ(股引)をはく。冬はパッチ(長くてアド(か かと)まであるもの 下着はサラシの六尺べこをあてる(相撲取りのふんどしのように巻く)。 | マイカケ(前掛)をかける。(帯 のかわりにもなる)冬はネルのイモジ(湯もじ)を 、夏は木綿であてる(腰全体に巻く)。 |
足 | キヤハン(脚絆)をはく。(普通黒色の物) タビ(足 袋)をはく。( 平常ははかないで何か行事がある時だけはく。自家で作つたもので紐がついていて巻きつける) ワラジをはく(時にはミズカケタビ)を下にはく。 | キャハン(脚絆)をはく。(普通黒色のもの) タビ(足袋)をはく。(男と同じ) ワラジをはく。(男 と同じ) |
その他 | 行商に行くときはワラジを3足ぐらい持って行った。 |
*以上は明治中期の頃の仕事着である。
5・染・織
*麻、藤、楮(こうぞ)などの繊維で布を織ったことがあるか
1・絹織物
特別な家では養蚕をし、繭から絹糸をつむぎ、絹織物をつくり、自家用(主として儀礼用)の被服をつくった。普通一 般の家は木綿物で絹物は少なかった。 絹糸をつむぐのは、繭を鍋で普通の煮物をする通りに水炊きする。度々網杓子(あみじゃくし)でまぜる。小さなワラボウキで繭の糸口をとり、ユミガラス?の上をダグリ?を廻して巻きつける。(? 調査中)
絹織物
絹糸をタカハタ(高機 手織り機のひとつ)にかけ、杼(ひ 織物で縦糸に横糸を通す道具)を左右に通し、筬(おさ 織物での道具のひとつ)でチョンチョンと打ちながら、これを繰り返して織る。
2・木綿織物
自家で綿を作る家は僅少で、綿から紡ぐのではなく、木綿糸を隣村の森林などで買ってきて織った。織り方は上記の絹織物の場合と大体同じである。木綿物は多くの家で日常使用した。縫うのは女の大事な仕事であった。
以上は,大体明治20年頃のことでタカハタ、糸引車が現存している。
○タカハタ・〇糸引車 (大分市大字下徳丸宇屋敷興聖寺内 森 賀寿)
*草木の類を染料に使ったことがあるか。
1・ クチナシで染める
クチナンの実をすりつぶして、その汁で煎じて橙色に染める人もあったが、それは自家用の手芸程度で ほんの一部の人であった。
2・藍(アイ)で 染める
自家用にアイを作った人もあるがそれはほんの僅かで、大部分はこうや(紺屋)に頼んで染めてもらった。
3・こうや(紺 屋)
関園に佐々木さんという紺屋があったので、大抵の家はここに頼んだ。森村・皆春村(別保)にも紺屋があって頼んだそうである。染める糸は森村(別保)の竹屋で買って来て、紺屋に頼んだ。色は大抵紺であった。原料のアイは四国から来るものが多かった。乙津港に日野さんというアイ商人がいて、仲買をしていた。
紺屋では毎朝、大きな染料がめをまぜるのが大変であったそうだ。力をよせるのがむずかしく、なかなか一人前になれなかった。大がめで染めては、しぼって干すことを何回も繰り返して染めた。
6・毎日の食事
*どのような食物を、どのように毎日とっているか
ものすり歌の一部に「嫁にやるなら高田にやるな、高田スアワメシ(素粟飯)ごぼうの菜」 、この地区では粟が主食の一であって、日頃は米飯は食わなかったので、こんな歌が歌われるようになったのであろう。
また、こんな歌もある。
「高田で米はのうねんじ能仁寺、無いの意味)。めしびつたたきの、いちじょうじ(一乗寺、まずしいこと)。ふだんじ(補陀寺 ふだん・平常の意)あっつてもくわせんじようせんじ(常仙寺、大切にする)粟をくうしょうじ(興聖寺、食うているの意)」
この地区に米のないことを、この地区にある寺院の名にかけて風刺したもので、その意味は「高田には米がないから、ご飯がないので、めしびつをたたく。ふだん(日常)には粟飯を食うて、米があってもなかなか食はせない」ということであろう。
昭和の初期までこの地区の主食は、粟、小麦、裸麦、さつまいも等であった。粟飯はスアワメシといって粟だけの飯とコザネメンといって裸麦を小つぶにひきわつたものを混ぜたものがあった。
小麦は粉にしてダンゴ汁で毎日食べた。また手打うどんやほうちょう(小麦粉に塩を少量まぜ、水を少し入れてこねる。しばらくねかして、うどんのように細長く伸ばばしたもので、上達しないと伸びない。)にして食べた。
普通一般の家で米飯を食べるのは冠婚葬祭や盆、正月、節旬そのた特別な祝儀などのある時のみで、日常は上記のものが主食であった。屈指の物持の家では地区外に水田を所育しているので、その田からあがる年具米を食べていた。
副食物にはこばう、大根、里甘等の野菜を煮て食べた。大根を丸のまま干して千大根にしたり、キリボシ、センキリなどにして貯えた。
漬物はコーコ(たくあん漬)が主で、味噌漬けにもした。タカナ、アサ漬け(キュウリ、ナス)等であった。
魚は日頃はあまり買わなかった。何事か行事のある時か、余程安い時にジヤコ(雑魚)かイワシを買う位であった。
7・赤飯・餅・だんご
赤飯・餅・だんごはどのような時に作つたか。
1・赤飯
・オコワ(強飯)
もち米とうるし米をまぜ、小豆を入れてセイロでふかしてつくる。
・アズキメシ(小豆飯)
うるし米に小豆を入れて釜で炊く。お祝いの時に家内で食べ、また親類や知人の家に配る。
・アズキガユ(小豆)
正月15日に米に小豆を入れて粥にして食べる。
2・餅
・あん入り餅
もち米、もち粟、小きびなどをよくとき、一晩位水に浸したのち、水をきってセイロで蒸し、臼に入れ杵でつく。これを適宜の形にし、あんこを入れて食べる。お祭りや家で何事かあるとき、忙しかった後などに作った。ヨモギ餅も作った。
・正月餅
正月の近づく12月の下旬の頃、なるべく寒い日に正月餅をつく。寒餅ともいう。普通のあん入り餅とつき方は同じであるが、あんこを入れないで乾燥させ、いつまでも保存する。
・鏡餅
「おかがみ」とも言った。普通の餅より大きく作る。正月に床の間に飾り、家の神様(荒神様、水神様など)や、子供、農具にまで供える家もある。
・粟餅
原料は餅であるが、もちだけのもの、もち米を入れるものとがある。
・ぼた餅
もち米とうるしまいをまぜ、普通の通りに釜で炊いて、すりこぎでつき、まわりにあんこやきなこをつける。
・節句餅
3月3日や5月5日などの節句の時に、子供の成長と健康を祈願してつくる餅のことである。親類、知人の家にも配る。
・草餅
よもぎ餅ともいう。よもぎを取ってきて、よく洗い、ゆでて、すりつぶしたものを餅につきこむ。餅に草色をつけ、栄養上からも大変良い。
・誕生餅
子どもの誕生日にその成長を祝ってつくる。餅を平たくのして、その上を子ともに踏ませる。その餅を親類、知人の家に配る。
3・だんご
・米のだんご
米の粉に水を少し入れて、こね、適宣の形にして釜などに入れてゆでる。きな粉などをつけて食べる。
・イモダンゴ
トウイモ(さつまいも)を薄く切って干し、粉にした,ものを材料にしてつくる。色は黒くなる。
・彼岸だんご
お彼岸の時にだんごをつくって先祖の霊前に供え、みんなで食べる。
・お盆だんご
お盆には必ずだんごを作つて仏前に供える。
8・住 居
どのような場所に、どのような家を建てて住まっていたか。
1・環境
この地区は総観の項で述べたように大野川のデルタ地帯で、洪水による被害を度々うけているので、古くから洪水に供えて、屋敷には石垣を築き、盛上をして、その上に家を建てている,また、屋敷の周囲には「クネ_|といって防水林をつくっている。防水林はムク、エノキまた、竹藪で囲った。
2・屋敷の構え
上述のように屋敷の周囲に「クネ」があり、南には未戸口がろる。木戸口を入った所がツボで、農作業場、または乾燥場である。北側に居家があり、ツボの西側にナヤ(納屋)ウマヤ(馬屋)、トヤ(鶏屋)などがある。ツボの端には井戸と菜園がある。
3・典里的な民家の例 (図参照)
所在地 大分市大字下徳丸東小路
所有者 E氏
建築年代 不詳であるが、明治時代のままである。
・オリヤ(居屋)
入り口よりニワになって、その先がカマヤである。ニワに棚が作ってあって、 ここには農器具や農作物な どを置く。ニワから中央の広場ザ(8畳)にあがるよう|こ フミダン(踏板)がある。ザのツボに面した所に格子窓がある。明治時代には 大ていの家にはあったそうだが、普のままの格子窓は今日では珍しい。
ザの北側にナンド(納戸、6畳)がある。薄暗い部屋である。ザの東、南のツボに面した4畳の間がある。その奥、北側にコツボ(庭園)がある。
・ナヤ (納 屋)
ツポの両側にある。農務具や作物のからなどいろいろなものが置いている。ナヤに続いてトヤ(鶏小屋)がある。チョウズバ(便 所がナヤとオリヤの間にある。土足のまま行けるようにしてある。
・イノコ(井戸)
ツボの東側にカマヤから遠く離れたところにある。
・サエ.ン(菜園)
南東陽にあ る。屋根はクサブキ (ム ッカラブキ)である。
4・建築儀式
金神除け(よけ)― ― ―新築の時は必ず金神除けをする。
三りんほう― ―一仏減の日には家を建てない。
ヤートコセーー近所の人々が加勢に来る。
チョウナゥダテーー大工の 仕事始めを祝って一杯飲む。
ムネアゲーーー御祝にお神酒をあげる。
ヒトギ------ヒトギより大きい餅を一重ね、その家の主人に投げる。そのあと集まっている近所の人々にヒトギをまく。(ヒ トギを焼いて食べると火事になるといわれている)
それからお祝いの宴会をする。
9・ かまど、いろり
かまど・いろりはどこに設けたか。
1・ かまど
カマヤにはクド、ナガシ、水ガメ、戸棚、タナ等がある。クドは一般にオクドとよんでいた。一般の民家では一年に一回造り直すことが習慣となっていた。作り方も割合に簡単で、ねった土で適宣にかためた。炊き口をつくり、上に金の輪をおいて室釜やなべをかけられるようにする。
明治30年頃からロストルを使用するようになつた。燃料はムッカラ(麦の茎を干したもの)や 大豆ガラ、桑ガラ等でいちいちさしくべるので大変であった。川添の官有林の下刈りをして、それを薪にする家もあった。
荒神さま---オクドの付近には必ずオクドの神さま(荒神さま、三宝荒神)を祭ってあつた。神棚をつくってある家もあれば、ただお札を貼ってあるだけの家もある。
オクドをけがすと荒神さまが荒れて不幸をもたらすので、非常におそれ、清らかにするよう努力した。オクドの四隅に塩をひとつまみずつのせて、けがれを清めた。
オクドの上に切れ物(刀物)を置くと、口の切れた子ができる。妊娠中にオクドのつくろい修繕)を すると、イグチの子ができる。またオクドの上に下覆や土足であがると腹が痛くなる。など火の神に不浄の及ぶのを恐れるからであり、オクドが生活上非常に大切なものであるから、このようなことがいわれたのであろう。
2・いろり
この地区では「いろり」はつくらなかったようである。
10・社会生活
地域社会の秩序と安寧を保つためには、どのような方法や組織があったか。
・お庄屋
旧藩時代の村治は主に庄屋によってなされた。高田地区はいわゆる須賀在8か村に分かれていたが、高田手水、御代官兼御惣庄屋の支配下にあった。
各村に庄屋、辨差(べんざし)、山の口などの村役人があった。
その他御別当、見締役という役人が2人あって常に村内を巡視し、村民の風俗を検察して華奢を戒めた。また■■(ともがた?)見締という役人がいて土手、山林、藪等の見締をなした。
・若者組
各部落に若者組(若連中、若いもん組ともいった)が あった。若者頭がこれを統率した。年行事という中老が後見役であった。その行事の主なものは、氏神さまの神幸祭の折り、山車引きの神事をする。また、部落ごとに祭りの余興、旗立て等をする。あるいは盂蘭盆(うらぼん)のときに盆踊りの世話をする。毎年旧正月に初寄りがあって、総集会を開き入退の披露、規約の協議、連中の懇親会などをし た。(15歳で組に入る)
明治30年ごろ各大字とも若連中という名称をやめて青年会と改称した。同時に組織も改善して会長、副会長、幹事、評議員等の役員を置いた。
明治42年頃各大学の青年会を統一して、高田村青年会を組織した。15歳以上30歳未満の青年で役員には会長、副会長、支部長、評議員、会計、書記があった。
行事として総会、役員会、講演会、巡回文庫、夜学、運動会、柔道の講習会、入退者の送迎、祭典の世話、道路標作り、農事視察会等であった。
.
・消防組
旧藩時代からあったもので、各庄屋に鳶口(とびぐち)、マトイ等のわずかな消防具が備え付けてあって、火災の際はこれらの道具を持ち、その他の者は各自鎌等をもって行き、庄屋の指揮によって活動した。また年の暮れには交替に出て毎晩夜警をするのが例になっていた。
明治27年各大字毎に消防組を組織した。各組に組頭、小頭、機械掛長、火消掛長、用水掛長、各1名 があった。消防手は各組共50名内外で器械係、火消係、用水係に分れた。機械係はポンプを取り扱い、火消係は屋上等で防火につとめ、用水係は水の運搬に当った。
ポンプは当初籠水または雲龍といって箱製のものであったが、明治35年下徳丸消防組が初めて新式のポンプを新調した。火災の際の号報は初め太鼓またはラッパであつたが、後には火の見につるした半鐘を打つようになった。
*竜吐水(りゅうどすい)とは、江戸時代から明治時代にかけて用いられた消火道具(火消しの道具)である。名称は、竜が水を吐く様に見えたことからとされる。
11・組・講の用具
《第7回》
講組(葬式組)
死人が出た時に、その葬式をする準備や後始末などを隣近所の者で世話をした。葬式に使う用具は講組の者の中、主に男子が集まって急いで製作した。女子は主に炊事をした。米を持ち寄るのが普通である。一時的な用具はその都度新しく作ったが、膳、枕(枕飾りか?)など、半永久的な道具は班や部落でつくるようになった。
頼母子講
民間の相互的な金融組織で、近所の同意の者を誘いあって、頼母子講を組織した。普通月に一回講員の家に順次集まり掛け金を持ち寄る。金銭をもらう者のきめ方は入札する方法やくじにする方法等があった。
集金の内の一部で共同のための費用にあてた。頼母子講に集まって世間話をし、時に飲食を共にすることは楽しいことの一つであった。
永楽講
金玉(かなたま)という物持が民間に融資し、毎年正月16日に金利を持って集まるようにした講であった。初め、融資をうけて永く楽しむことができるといった気持であったが、時がたつにつれて、金利を持って行くのに困るような人が次第に多くなって永楽講が苦しみ講になったという。
宮総代
氏神さまの祭や、お宮の維持、経営などに関して神主と共に世話をする氏子の代表者である。村の各組から選出さ れ、その中から総代をきめる。祭典には特別に参列し、祭りの準備や後始末などの世話をする。 また、祭礼に必要な費用の調達などにあたる。神社の修理その他いろいろの行事の世話をした。
宗教関係の講
お日待講 ーーー ー年中行事の項で説明
二十三夜講ーーーーー 旧暦6月23日(加藤清正公の命日の前夜にあたる)
だるま講ーーーーーーー 1日 暦10月 5日
お命講――一ー ー -旧暦10月112日
12・ 運 搬
物資の運搬にはどのような方法があり、またどのような道具を用いたか。
ロクシャク(六尺)
入力による運搬では天秤棒が あったが、一般にはロクシヤクといつた。ロクシャク棒の両端にヒモをつけた籠かザルをつるし、麦、稲、野菜、肥料などを入れてかついだ。
オウユウ
直径5~6㎝、長さ2mぐらいの竹の両端をとがらせ、麦ワラ、豆ガラなどを両端に突きさしてかついだ。
シャリキ(車力)
ニグルマ(荷車)ともいう。二輪車のことで大きさによって呼び方が違う。最も大きいのをダイハチ(大八車のこと)といっていた。これはお宮にあったが一般の家庭にはなかった。一般の家では小車力、大車力が使われた。主に麦、稲、野菜、肥料などの運搬に使った。明治20~30年頃から車の使用が多くなった。
馬
馬はあまり多くはないが一部の人が利用していた。野津原、大分、犬飼等に行き来するには馬を利用した。
リヤカー
大正9、10年 頃より、リヤカーが使.用 されるようになって、野菜の出荷には大部分の家が利用した。
船
本地区の東側を大野川が 流れているので、明治時代まではこれを利用して、船で運ぶことが多かつた。大野川の川口から鶴崎との境の一本木という所までは、100石船が、犬飼までは20石船がとおっていたとのことである。大正の頃まで、この付近を帆掛船が上がり下りしていた。
渡し船
川に囲まれた本地区には次のような渡し船があって、渡し船を利用した。
川添との間にはーーーー金谷渡し、百堂渡し、種具渡し
別保との間にはーーーー船戸渡し
背負い
金物類、蚊帳等の行商をしたり、少量の野菜、穀物等を運ぶときは背負って行くこともあった。金物行商用にはかつぐ箱に入れて2,30貫もかついだ。
13・交易
物の交易には、どのような方法があり、またどのような道具を用いたのか。
野菜の小売
特産物であるごぼう、大根、里芋などをよく洗って、(里芋は皮をむいて洗う)、ザルに入れロクシャク(天秤棒)でかついで、明治の猪野、松栄山を超えて、大分(昔は府内といった)まで小売りに行った。町々で売って歩いたそうである。帰りには日用の雑貨品を買ってきた。
野菜の出荷
大口に出荷する家は運搬の項で説明したように車力や船で大量に出荷した。出荷する主なものはごばう、大根、里芋などが主である。購入するものは米、肥料、日用雑貨品、衣料などである。ごぼうはわらコモに包んだ。
入鎌商
仕事と用具の項で説明したように、明治時代まで入鎌業が盛んであったが現在では全然行なわれていない。
門前の市
別保の門前の位置(5月14・15・16日)では主に農機具(メグリ棒、肥タゴ、ミノ、ザルなど)や日用品(オケなど)を買った。
万弘寺の市
坂ノ市の万弘寺の市の時は、万弘寺もん〔万弘寺に持って行って代えてくるものという意味)といって、、シュロガワ、ホシダイコン、ズイキなどを持って行き、海産物(ワカメ、ヒジキなど)やイモの粉(サツマイモの干して粉にしたもの)等と交換したり、買ったりしてきた。
金物の行商
ホウチョウ、ハサミ等の金物の小道具を主に行商をするものが少数ではあるが、県内はもちろん隣県まで出かけた。
時候物の行商
蚊帳、フトン、センバ(麦や稲をこぐ器械)衣料等その時その時の事項に必要なものを行商した。
14・ ―生の儀礼
人の一生に関する儀礼には、どのようなものがあったのか。
誕生
妊娠5カ月の最初の戌(いぬ)にサラシ木綿を腹に巻き、赤飯を炊いて「帯祝い」をする。安産祈願のため大分市高城の観音様に参拝する人が多い。胎教に関し次のようなことがいわれた。
・火事や死人をみるとホヤケができるから見ないようにせよ。
・袋から袋へものを移すと袋子ができる。
お産部屋は大てい薄暗いナンド(納戸)であった。トリアゲバアサン(産婦)を呼んでお産の処置をしてもらう。あと産は墓地に埋める。
産後の食事は「子産みダンゴであった。米の粉でダンゴをつくり、里芋のズイキ(芋茎)をいれた味噌汁である。産後の休養は一週間ぐらいで長く休養しなかった。
養育
七夜--出生時の名前を紙に墨で書いたものを床の間にはりつけた。
赤飯を炊き、親類、縁故者等を招待して祝宴を開いた。また、赤飯を配った。
お宮参り
男児は32日目、女児は33日目に生後初めて氏神に参拝する。姑が子を抱き、嫁を連れて参拝する。お産見舞をもらった親類、縁者に赤飯を配り、あいさつまわりをする。
乳もらい
乳の出ない嫁のために九六位山の観音さんに乳もらいに参拝し、境内にある大銀杏の皮を少し削って持ち帰り、これを産婦に飲ませた。
虫封じ
子どものカン虫を封ずるために春分・秋分の日には宇曽山に参詣し御礼をいただいて帰った。この日だけは女の登山が許された。子どもを負って参詣したが、病気等のため子どもがいっしょに参られぬ時は子どもの着物を持って参った。
初節句
3月3日は女の節句、5月5日は男の節句として、生後最初の節句には初節句として祝った。その方法は年中行事で説明した。
誕生祝
初の誕生日には「誕生餅」をついて、子供に踏ませアン入り餅と共に親類、縁者に配って祝った。
七五三の祝
晴着を着て氏神に参詣する。
成人
若者組は社会生活の項で説明したとおり。女子には特別、組はなかったが、「月のもの」があれば一人前としてあつかわれた。
男女の交際
正月、盆、祭、蚕かい、もみすり、糸引、粉ひき等に男子が出かけて行って、加勢しながら話し合った。
婚姻
上記のことで相愛の仲となつた者は若者頭が仲に立つて両者の親を説き、結婚へ進めた。一般にはは村の世話役が仲人となって結婚させた。
三三九度、 披露宴
式は真夜中で、宴が夜明になった。
初あるき、初泊り
ミツメ(三日目)に夫婦で嫁の里に初あるきに行く。また他の日に初泊りに行く。
葬送、葬式、四十九日
死人があった晩は親類、縁者で通夜をする。葬式は??寺の住職によってなされた。葬式の世話は講組でした。
忌の生活が終わる忌明けには親類が集まって法事をした。一年目を一周忌、2年目を三回忌、以下七周忌、十三年忌、十七年忌、三十三年忌、五十年忌等。(今では3回忌等といいますが原文のままにしています)
*びわのす通信から高田びわのす通信の移行で残りの記載が遅れていましたが、9月から再開します。
15・別火・墓制
お産、月経、死亡の時に別火の風習があったか。の
別火(べっか)とは
神職などが日常用いる火による穢 (けが) れを忌んで、神事・祭事に際して炊事の火を別にすること。また、服喪にある者などが穢れを他にうつさないように炊事の火を別にすること。べつび。
1・お産の時
初子の時は里方に帰って産む人が多い。いずれもオリヤ(居屋)のナンド(納戸)が産部屋として使われた。お産の「赤不浄」を忌みきらって、このような部屋にしたのであろう。
食物
産婦の食物は別火で炊いた。忌と産婦に栄養をとる保健上から、これらが守られていたのであろう。気丈夫な人や家の手がない時には2・3日で仕事をしたという人もいるが、それはきらわれたそうである。産部屋を早く出ても炊事することは許されなかった。
2・死亡の時
通夜は親戚、知人、近隣の者で行われた。煮炊き、料理等は死亡のあった家の人々は一切手出しをしないで講組の主に女の人が受け持った。このように死者の家族が食物の調理をとめて、講組にまかせることは死の穢れにふれた遺族が、その穢れや死霊のわざわいを他の人に及ばさないよう、守り防ごうとした考え方の名残であろう。葬式に使った道具や供え物にしても永久的な器具は別として棺と共に焼きすてた。次のような俗言がある。
- 友引の日の葬式はよくない。
- 死体にさわると穢れる(けがれる)。
- 四十九日までお宮の鳥居をくぐらない。
- 葬式の帰りに他の家によってはいけない。
- 葬式から帰った時は門口で塩をふりかける。
墓には埋め墓と拝み墓の別があったか。
この地区では両墓制のはっきりしたものはないようである。明治時代まで土葬が主で、大正の初期に火葬場ができたので一般に火葬するようになったのは大正初期以降のことである。
土葬するための墓穴を掘るのは講組の中でも大切な役目であった。穴掘りは力を要する仕事であり、よごれる仕事なので老人、女子などには無理であった。時には土かけが夕暮れとなり薄気味悪いことがあったという。この人たちには穴掘り酒などといって酒を一本出すのがしきたりであった。
16・年中行事
年中の主な行事にはどのようなものがあったか。
元日
一月一日の朝早く氏神様に詣る(まいる)。帰ってお神酒を飲み、朝食には正月餅を入れたゼンザイを食べる。(雑煮を食べる家もある)
元旦は寝正月といって、一日中家で静かに暮らす。福の神を掃き出してはいけないというので、一日中掃除をしない。
名寄せ
麦植えがすんだ頃、部落ごとに戸主が全員集まる。旧藩時代には庄屋が招集して戸籍を調べ(キリスト教も調べたのではないか と老人は言う)一年間の行事、会計等について話をする。現在では親睦のため、簡単な和合講をするのが主となっている。
お日侍
旧の正月、5月、9月の15日の夕方から夜明けまで行われる。米とお金を持ち寄り、ザマエ(座前、当番の家)の家でご馳走をつくる。酒を飲み、御馳走をたべながら、よもやまの世間話をして翌朝、日の出を拝んで解散する。
モモテサマ(百手さま)
旧正月の20日頃組のザマエに米とお金を持って集まる。みんなで膳部(膳にのせる料理)の準備をする。 酒を飲み、御馳走をたべながら 歓談した。新年宴会を兼ねるようになった。
お彼岸
ヒガンダンゴやアンコ入り餅等をつくる。お寺では彼岸会が行われるので、老人はお寺に参ってお説教を聞くのを楽しみにしている。春分、秋分の日は「地獄の釜のフタもあく」といって、地獄でさえこの日は責め苦をしないほどだから、この世にいる人間は休養して楽しむべきであるとして、1日ゆっくり休む。
ひな祭り
旧3月3日は「ひな節句」をした。良家では土人形などを飾ったが一般の家ではあまり人形は飾らなかった。掛物をかける家もあった。長女の時は土人形を贈ってくれるが、二女から下は簡単であった。赤飯、ひし餅、あん入餅をつくって祝ってくれた家に配った。一般の家ではあん入餅をつくっていわうだけであった。
端午の節句
旧5月5日は男の節句、4日は宵節句といってかしわ餅、ちまき、あん入餅をつくった。フツ(よもぎ)とショウブ(菖蒲)を軒にさした。初節句の家では武者人形を飾り、旗、吹き流しをたてて祝った。
精霊流し
旧盆の16・17日の晩、芯盆の精霊を供養する。芯盆の家では麦わらで精霊をつくって流した。船は小麦からつくったが、立派な船をつくることが競争になった。御殿作りや二階造りをつくり、龍をとりつけるものもあった。多くの費用をかけたそうである。土手で提灯の「くりあげ」をした。高い竹に四角錘形のワクをつくり、それに提灯を数十つけた。一番上に細長い旗をつける。その高さや多さを競った。
フイゴ祭
旧10月8日に近所の者または鍛冶屋に縁故のあるものが集まって、フイゴにお酒をあげ、お酒を飲み、御馳走を食べながら鍛冶に関する思い出話をした。
17・ 祭・道祖神など
とうや、とうもとが中心になって行う祭りの組織があったか。
とうや、とうもとが中心になって行う祭りの組織はなかったようである。「カギ預り」といって本地区では重藤氏が代々お宮の鍵を預かっていて、お祭り等の時は重藤氏が扉をあけた。
道祖神、こうじんとう庚申塔(幸甚等)[中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔]などがあったか。
下徳丸字鍛冶屋小路(かじやしゅうじ) [この小路は旧藩時代には川添に通ずる主要な道路であった]に庚申塚とよんでいる小高い塚がある。草にうずもれた塔があるがはっきりわからない。たぶん庚申塔であろう。
[わたしごとであるが、小さい時に家の者が仕事に行く際にこうしんまつに行くと出かけていたが、この庚申塚当たりであった。 そこに昔松があり庚申塚の松で更新松という地名になっていたのかもしれない。私の推測であるが。]
18・ 山車・舞台など
・山車、屋台、だんじりの類があったか。
氏神様、若宮八幡社さまの祭(旧は夏、最近は春)には人形山車や太鼓山車が出てにぎやかであった。
・神楽、能、人形芝居、村芝居などはどこでおこなったか。
上徳丸神社の式年祭や御開帳の時には、小屋がけをして芝居が行われた。地方巡業の芝居役者を雇ったものである。
19・ その他重要なもの
箱
縦、横、高さおおよそ30㎝前後の箱でフタがついている。引き出しのついているものもある。箱の中には日常使う茶碗、箸、小皿(オテショともいう)などを入れておき、食事の時はふせてある。
フタを上方にむけ、その上に茶碗、小皿、箸などを置いて食事台とする。引き出しには日常使う小間物などを入れておく。箱膳は家族の一人一人が一個ずつ持っていて食事の時に出して上記のように使い食事が終われば各自しまっておく。茶碗などを洗うのは一日一回ぐらいであった。
20・ 補充 一生の儀礼
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