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👉高田の歴史


ー鶴崎の歴史と地理をアップするに当たりー

旧鶴崎市地区の小中学校でつくっている社会科の研究サークルが、移り変わる鶴崎地区の姿を残そうと郷土資料集をまとめていました。昭和38年は鶴崎臨海工業地帯に指定され鶴崎地区は大きく移り変わろうとしていた時代でした。その本が[鶴崎の歴史と地理    鶴崎市教育研究会社会科サークル編集 昭和38年3月発行]です。この本は非売品でしたが、手に入ったので主に高田関係の興味深い部分を抜粋してアップしてみたいと思います。このサークル同人17名は以下の通りです。残念ながら高田小学校の先生はいなかったようですが、高田出身者が3名、また、この代表者の安部 光五郎先生は高田小学校にも赴任されており、高田地区の歴史も調査されていたと記憶しています。

学 校 名氏    名備    考
明治小学校安部 光五郎
川添小学校河村 武夫
鶴崎中学佐藤 税
藤澤 忠旧姓(藍澤 忠)関門出身
酒井 勝義
関 邦雄
姫野 仁呂
大東中学香泉 道諦
岡松 整治上徳丸出身
鶴崎小学校利光 征男
別保小学校三浦 祐一
明治小学校佐藤 官吉
渡部 高博
鶴崎小学校宮本 博之
明治小学校工藤 俊子堂園出身
松岡小学校高田 信一関門出身
松岡小学校酒井 スミ子

鶴崎地区の歴史と地理

1・鶴崎地方は高田荘に属す

豊後国志に大分郡の郷を九とし、その中に高田の名があり、東大分、桃園、鶴崎、別保、明治、高田、川添、志村で高田郷とした。大化、大宝の制によって置かれたもので、50戸で一郷と定められていた。
はじめ里と言っていたが、後、郷に改められた。中世の初期に至りはじめて文献に高田荘の名が見える。
高田郡の後身であると考えられる。高田荘の領(りょうけ 領地をもっている人)は城興寺となっている。この寺は太宰府に残っている古い書物に「京都九条の北、鳥丸の西に城興寺あり この寺の領地………..」とあることから京都にあった寺と思われる。

2・高田鍛冶が有名となる

高田鍛冶は、友行、友光をはじめとする平姓長盛以下数十人。応安、康永頃より、天文、永禄、天正にかけて良刀が非常に多く、藤原姓の貞行、統行、実行などは天文、弘治、永禄の頃に良刀を打った。
高田鍛冶系図によると建武、文和の頃の初代友行と二世友行は高田鍛冶中において特に秀でた刀工であった。
高田鍛冶と称するのは、高田荘に住む鍛工を言い、今の高田村に居住の鍛工に限ったわけではない。
古刀  171名
新刀  102名
計   273名

3・鎌倉時代の鶴崎

大友氏の祖、大友能直が豊後国の守護を命ぜられて豊後に着いたのが1196年(建久7年)で 第22代 :大友義統が秀吉から領地を取りあげられた1593年(文禄2年)ま で400年間大友氏の領地であった。
大友能直が入国した時 これに従つてきた御家人の中で溝口左衛門尉長繁は高田荘を領し、猪野原に居住した。能直は横尾の八幡社や鶴崎の秋葉社、乙津のの永安寺など多くの神社寺院を創建した。,
紀行平を初め多くの刀鐙冶が出てその技術を進歩させた。ということとから この項よりだんだん鶴崎地方に人々が住みつくようになった。また高田荘の所属は東大分、 日岡、 桃園、 三佐、 鶴崎、:別保 、明治 高田及び川添 大在の1部 である。

4・若宮八幡社(高田)

祭神 仁徳天皇
(配祀 稲荷社 金毘羅神
例祭 10月24日

建久7年(1196年)大友能直が相模国鎌倉鶴ケ丘八幡宮を勧請し大分郡旧亀甲村(高 田)に 鎮座し奉ったのを創祀とする。後 天正14年(1586年)島津氏の乱入の際 戦火に羅 り社殿焼失したが 同15年(1587)再 興した。
寛永元年(1624)洪 水の為に社殿流失し 御神体は南村宇榎ヶ瀬に止まった。爾来藩主を始め地方民の崇敬は極めて厚いものがあつた。
明治8年(1375)4月 郷社に列せられた。

5・高田鍛冶の祖 紀行平

大友能直が豊後に入国後 紀新夫夫行平も豊後に来て高田荘に住んだと云う。行平は当時の有名な刀鍛冶で その名は全国にひびいていた。特に後鳥羽上皇が24人の御番鍛冶をおいた時その中に選ばれたほどである。
行平作の刀剣中有名なものは、皇太神宮神庫剣(豊後行平)。宇佐神宮神庫(豊後行平作)。 黒田候爵家(豊後国行平作)。 等々がある。
また行平の門弟に高田住有行、豊後住行真、同安則等がある。
尚、行平は土佐日記で有名な紀貫之、百人一首で有名は紀友則と祖先は同じだといわれている。

6・室町時代の鶴崎

大友も他国の領主と同じように、菊池氏や大内氏、島津氏と交戦し、内乱もたびたびあったので郷土の武士も参加することが多く戦乱の絶え間がなかった。
政治は高田政所(高田荘の政治事務をとる役所)でなされた。
鎌倉時代の末期から室町時代かけて禅宗が盛んになったが、この頃建てられた市内の禅寺で高田では興聖寺(こうしょうじ)がある。

7・徳丸惟貞

徳丸助右衛門惟貞は1500年4月、大友親治(18代目)から高田 徳丸名 扇の内 居屋敷 8貫分の知行を許された。
この時期に恐らく所有権の切り替え、継続が行われたものと思われる。惟貞はこの当時、高田での大地主であったと思われる。

8・加藤清正の領地となる

加藤清正が肥後一国を徳川家康からもらったのは、関ケ原の戦いの戦功によって小西行長の領地を得たものである。
1601年、天草島の替地として鶴崎をはじめ、大分県内の領地を得た。
関ケ原の戦いの時、清正は谷権大夫(ごんのだいぶ)を家康のもとへやって様子をみさせたが、その時、家康から[熊本は加藤と小西の領地であるが、小西の城をとれば清正に熊本全体(但し天草を除く)を与えよう」と言った。谷は「天草を除けば肥後全体とはいえないから、近いところにその替地をいただきたい」と申し上げ、家康もこれを許可し関ケ原の戦いの後、1601年、天草の替地として鶴崎を希望しこれをt領地とした。

9・江戸時代の鶴崎

秀吉のあとをうけた徳川家康も、秀吉と同じように小さな藩にわけ、徳川氏に早くから従っていた大名には重要なところを与えた。また、乙津のような重要なところは、幕府領としておいて、ほかの大名をかんとくするようにした。
市内の諸藩は次の通り。

肥後領(熊本藩)加藤氏 (1601年~1632年)細川氏1632年以降
岡領(竹田藩)中川氏 (1594年以降)
臼杵領(臼杵藩)福原氏 (1594年~1597年) 太田氏(1597年~1600年) 稲葉氏(1600年以降)
延岡領(延岡藩)内藤氏 (1647年以降)
幕府領(乙津・真萱・松岡) (1623年以降)

10・加藤清正亡くなる

加藤清正は鶴崎の領主として満10年、1611年6月24日53歳(一説では50歳)で亡くなる。
この年の3月28日京都二条城で家康、秀頼の会見の折、清正は秀頼について無事役目を果たし帰途についたが、「船中で熱病にかかり次第に弱り6月24日に死ぬ」と清正記に書かれている。
一説には清正発病後京都から名医を鶴崎に呼びよせたが、清正は死んでいたのでそのままかえったと言っている。
また一説は清正毒殺説もあるようだが、やはり清正は5月下旬熊本に帰り、6月24日に死んだとみるのがよいようである。

11・毛利空桑

毛利空桑は1797年1月15日高田 常行に生まれた。脇蘭室、帆足万里に教えを受けた。後に大城霞坪や亀井昭陽について勉学のほかに武道を修得した。
1824年郷土高田に帰って「知来館」を開いて教育をした後、判の命令によって鶴崎に移転した。全国から来て学ぶ生徒が数千人に及んだという。
空桑は 剛毅。不屈、気節をもって任じ、実践躬行(じっせんきゅうこう   実際に自分でやること)の人であった。
特に勤王の志が厚く、国事多難の際に尽力し、功労が多かったので特旨(君主の思し召し)をもって従六位に叙せられた程である。
誠に破格の恩典である。1884年明治17年12月22日89歳の長寿を全うした。

12・高田小学校の沿革

高田小学校の沿革
1873明治6.8.15明倫堂を村立の明倫学校として開校
1876明治9年秋高田小学校と改称する。
1879明治12年8.01校舎を改築する。
1893明治26年10.14大洪水のため生徒8人が溺死する。
1901明治34年3.31校舎を730坪に拡張し、2階建6教室一棟を新設する。
1909明治42年9.92階建て校舎を増築する。
1931昭和6年5.30校舎2棟が焼失する。
1932昭和7年4.23新築校舎が落成する。
1943昭和18年9.20大洪水のため児童4名が溺死する。
1951昭和26年9.20講堂の落成式をする。
1953昭和28年4創立80周年記念事業をする(図書館・植樹)
1957昭和32年11.15給食室ができる

13・大東中学校の沿革

1947昭和22年4月23日新学制により明治、高田、松岡中学校として発足する。
1950昭和25年12月統合して東部組合立大東中学校を設立する。
1951昭和26年3月12日大東中学校の校舎ができる
1951昭和26年4月4日現在(S38年時点)の校舎で授業を開始する。
1953昭和28年4月6日運動場の埋め立て工事が竣工する。
1956昭和31年1月23日創立5周年学校祭をする、
1958昭和33年3月19日学校林を宮河内につくる
1958昭和33年9月1日川添中学校を統合する。
1958昭和33年10月16日2階建て4教室ができる。
1961昭和36年2月16日2階建て廊下ができる。
1962昭和37年3月31日普通4教室ができる。
1962昭和37年9月13日運動場ができる。

14・鶴崎高等学校の沿革

1906明治39年7月10日私立工業従弟養成所を設置する。
1923大正12年4月1日大分県立工業学校の分校となる。
1932昭和7年4月1日大分県立鶴崎工業学校となる。
1948昭和23年4月1日鶴崎工業学校、中学校、女学校3校を統合して大分県立鶴崎高等学校を設立する。
1950昭和25年4月1日大分県立東豊高等学校となる。坂ノ市校舎、佐賀関校舎は東豊高校となる。
1953昭和28年4月1日大分県立鶴崎高等学校となる。
1961昭和36年4月1日大分県立鶴崎高等学校を設立し、工業科を独立校とする。

15・鶴崎工業高等学校の沿革

1906明治39年7月10日私立工業従弟養成所を設置する。
1923大正12年4月1日大分県立工業学校の分校となる。
1932昭和7年4月1日大分県立鶴崎工業学校となる。
1948昭和23年4月1日鶴崎工業学校、中学校、女学校3校を統合して大分県立鶴崎高等学校を設立する。
1950昭和25年4月1日大分県立東豊高等学校となる。坂ノ市校舎、佐賀関校舎は東豊高校となる。
1953昭和28年4月1日大分県立鶴崎高等学校となる。
1961昭和36年4月1日大分県立鶴崎工業高等学校を設置し独立校と茄子。
(機械・電気・建築・化学工学・産業デザインの5科を置く)
1961昭和36年4月1日新校舎の起工式を大字葛木字向の現地で行う。

16・昭和時代の鶴崎

1・1935年(昭和10年)頃は1町7ヵ村
鶴崎町  三佐村(昭和13年合併)  別保村(昭和13年合併)  桃園村(昭和19年合併) (三ツ川、千歳は大分市に合併)
明治村 高田村  川添村 松岡村

1・1945年(昭和20年)頃は1町4ヵ村
鶴崎町(鶴崎・三佐・別保・乙津)
明治村 高田村  川添村 松岡村

1・1954年(昭和29年)合併
鶴崎市となる。

1・1963年(昭和38年)合併
6市町村が合併して大分s市となる。

鶴崎駅(昭和37年調査)

1・鶴崎駅の開業       1914年(大正3年)  4月1日
2・住友専用線引き込み    1938年(昭和13年) 3月5日
3・駅舎新築         1950年(昭和25年) 3月26日
4・乗車人員       (昭和36年度平均一日)   1769人
5・降車人員             〃       1767人
6・貨物発送             〃         82トン
7・貨物到着             〃        352トン
8・発送貨物の主なもの        〃  紙・パルプ・薬等
9・到着貨物の主なもの        〃  パルプ材料・セメント等
10・職員               〃  20人

まだ、続きますが、ちょっと休憩

17・昭和34年 鶴崎市の気温

18・住友化学工業株式会社 鶴崎工場  (昭和34年時点)

19・鶴崎パルプ株式会社 鶴崎工場  (昭和34年時点)

鶴崎パルプ(現・王子マテリア大分工場 1987年鶴崎パルプから営業権を譲り受け大分工場とする)

20・富士製鉄株式会社 大分製鉄所

昭和36年2月24日 大分県、大分市、鶴崎市と富士製鉄との間に、大分進出が正式に決定され、鉄鋼業に歴史的な第一歩をふみ出した。
富士製鉄は八幡製鉄や日本鋼管と並んで、日本の三大鉄鋼メーカーであり、資本金330億円(近く500億円に増資する)で従業員28,000人をもち、工場は北海道室蘭、釜石、川崎、広畑にあり、現在名古屋に東海製鉄所を建設中である。
富士製鉄の大分製鉄所は3号、4号地及びそれに付属する土地を含めて567万㎡の広大な敷地に建設される計画である。埋立地は昭和37年度から行われ昭和41年度頃に工場建設に着手し45年頃には完成する見込みである。
年間製鉄360万トン、鋼塊390万トンを製造しようとしている。
従業員も1万~1.5万人が必要で家族を含めて5.6万人が来住し10年後には「製鉄の町」大分が実現するであろう。