<2026-09-05>

佐賀関は鶴崎、高田の者にとっては、同じ熊本藩(細川領)だったことから愛着のある兄弟のような町です。
台風24号の影響で前日は激しい雨となり、明日からも再び雨の予報が出ていましたが、今日は奇跡的に雨も上がり、一時晴れ間ものぞく絶好のウォーキング日和となりました。

今回は「大分ゆうゆうウォーク」の下見に参加。昨年11月に大火災があった佐賀関の「今」の様子を確かめ、復興への現状を見てみたいという気持ちもあり、現地へ向かいました。

第276回ゆうゆうウオーク [佐賀関まちかど散策ウォーク]

  • 集合場所: 大分市佐賀関支所(8:30集合 / 9:00出発)
  • コース: 5kmコース・10kmコース
  • 参加状況: 私はゆっくり景色や街並みを楽しみたかったため、5kmコースを選択。20名ほどのグループで一緒に歩きました。

今回のウォーキングルート(約1時間30分)

  • 大分市佐賀関支所(スタート)
  • 早吸日姫神社(はやすひめじんじゃ)      歴史ある境内の雰囲気を味わいながら参拝しました。佐賀関の人には申し訳ありません
                           が、こんな立派な神社があるとは思いませんでした。
                           
  • 徳応寺                    今回は立ち寄りませんでしたが、坂本龍馬と勝海舟が長崎へ向かう際に宿泊したことで
                           知られる由緒あるお寺です。
  • 火災現場                   現場内は立ち入り禁止のため、邪魔にならないところから撮影をさせてもらいました。
  • 佐賀関小学校上の道路(絶景ポイント)     高台から佐賀関の街並みと海を一望できる素晴らしい眺めでした。
  • 大分市佐賀関支所(ゴール)11:30に無事到着。

1時間30分ほどかけて、佐賀関の歴史ある町並みを歩きましたが、今回は特に火災のその後を知りたいと思っていた願いがかなっただけでも今日のウォーキングの価値はありました。

① スタート地点 大分市佐賀関支所・日鉱佐賀関(旧名)の港

大分市佐賀関支所

大分市内のいくつかある支所の一つが佐賀関支所です。2005年(平成17年)1月1日、大分市に編入。これにより自治体としての「佐賀関町」は消滅しましたが、地域名「佐賀関」は残っています。

ここを佐賀関と呼ぶのはなぜだろうと調べてみると、
佐賀関という地名は、古くからの地域名である「佐加(さか)」(坂道が多い事からきたのでしょうか?)と、海上通行を取り締まる「関(関所)」が組み合わさってできたそうです。

また、佐賀関は関アジ、関サバが有名ですが、1980年代になってから有名になり、1996年、水産品としては全国で初めての商標登録が認められ、関アジ関サバがブランド化してきたようです。その品質は知られていたのですが、それほど昔から有名だったわけではなさそうです。確かに豊後水道の荒波の中で一本釣りされたアジ、サバは美味しいのでしょう。いつかは私の口で純粋なる関アジ、サバを食べてみたいものです。

JX金属製錬 佐賀関製錬所 支所側から日鉱佐賀関(旧名で呼ばせてもらいます)の湾と工場を望む

今日、日鉱の煙突の話をしていると、「あの煙突は私が建てたんだ。」という意外なウォーキング仲間に出会いました。
 話を聞くと、彼が20代のころに鹿島建設が元請けで煙突を建てたという、その時は下でブロックごとに組み立て、それを上にスライドしていったそうです。もう50年以上前になるそうです。
この場でこういう話を聞けるとは思わず、感激してしまいました。
 帰ってネットで調べてみると、東洋の大煙突と言われた「第一大煙突」(高さ167・6メートル)は煙害を防ぐために、1916年に建設されました。然し100年近く休みなく稼働してきましたが、老朽化し倒壊の恐れが生じ、1972年に「第二大煙突」が建設されました。彼が言っていたように54年前になります。そして2012年に「第一大煙突」の解体が10月から始まります。

中央にそびえたつ日鉱佐賀関の煙突

② 早吸日姫神社(はやすひめじんじゃ) 佐賀関の守り神

大分市佐賀関支所を出発し、最初に訪れたのは早吸日姫神社です。
一口で言うと、早吸日女神社は「佐賀関という漁師町そのものを守ってきた神社」といえます。
※漁師の読み方は?
漁師の字をパソコンで打つときに、「ぎょうし」と打っても出てきません。家族に聞くと、「ぎょうし」ではなく「りょうし」なのだそうです。家族に笑われてしまいました。言われてみると、大漁、漁場は「りょう」とよんでいたな、と我ながら新しい発見をしたなと思いましたが、家族に言わせるとこれは常識なのだそうです。

神社の縁起》によれば、紀元前667年に、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと、後の神武天皇)が東征の途中で速吸の瀬戸(豊予海峡)を通りかかった折りに、海女の姉妹の黒砂(いさご)・真砂(まさご)の二神が、潮の流れを静めるために海底から(たこ)[このタコは後で神社の中に現れます]が護っていた神剣を取り上げて神日本磐余彦尊に奉献したところ、神日本磐余彦尊自らがこの剣を御神体として、祓戸(はらへど)の神(速吸日女)を奉り、建国を請願したのが始まりであるとされる。

   さがのせき潮騒物語

     御幸(みゆき)
速吸の瀬戸において海黒砂・砂の
姉妹が海底から神剣を取り上げて奉献
したものを御神体として奉っているの
が、ここ早吸日女神社です。
この神社は、速吸の瀬戸の安全祈願の
神様でもあります。

昨年の火災時には、この神社は火災現場近くの椎根津彦(しいねつひこ)神社の宮司も兼務しており、氏子たちと共に神体をここに移し被災を免れたそうです。

ここには多くの県や市の有形文化財があります。これは江戸時代に佐賀関は熊本藩(肥後藩)で細川氏がおさめていました。その当時に細川氏がいろいろ建立をしています。

 神社に入っていくと、いろいろな社殿があるので、入り口からの順番でアップしたいと思います。

境内の社殿 

1・ 総門

  • 有形文化財(県指定) 平成16年3月30日
  • 建造 元禄10(1697)年
       肥後藩三代藩主細川綱利
  • 他の社殿に比べ、拝殿は素朴で、彫刻物が多く、他とはやや異なる建物。
  • また、かつて総門内にあった仁王は、明治元年9月神仏分離の際に法心寺(鶴崎)に移され、仁王門内に現存

2・ 石鳥居とその周り

  • 有形文化財(市指定) 平成17年9月27日
  • 刻銘から寛永17(1640)年6月に肥後藩初代藩主細川忠利(ただとし)の寄進

3・伊邪那岐神社及び周辺

石門正面に見えるのが伊邪那岐神社ですが、撮ったつもりの写真がなかったため、アップしていません。後日撮って追加の予定です。
その周辺の写真だけを載せておきます。

4・神楽殿

  • 有形文化財(市指定) 平成17年9月27日
  • 神楽殿は、慶長9(1604)年に木鳥居と共に加藤清正によって建立

     神楽殿(衛士所)
形状、切妻造り本瓦葺。
寸法、正面三間、側面二間。
慶長九年(一六〇四) 肥後藩主加藤清正が建立したものと伝えられてきたが、慶安三年(一六五〇)肥後藩主細川綱利が改修し、その後変遷を経て衛士所にも使用されてきた。
平成十七年九月二十七日大分市指定有形文化財の指定を受ける。

       関の大蛸

      御神剣を守る大蛸

神武天皇が東征の際に、海の底でイザナギノミコ
落としたといわれる御神剣を大蛸が守護しているのがわかり、 海女の黒砂・ 真砂に大蛸から御神剣を譲り受けるよう命じ、 神武天皇がその剣を早吸日女神社に祀ったという言い伝えがあります。
そのため、早吸日女神社とタコは深い結びつきがあります。

この蛸は佐賀関氏子青年会が主に段ボール箱で製作。
デザイン・製作      佐賀関氏子青年会
橋本 康聖
2025年12月26日 奉納

5・拝 殿

  • 有形文化財(市指定) 平成17年9月27日
  • 金物に嘉永3(1850)年の銘があり、この時建立されたものとみられます

 6・本殿

時間がなく、詳細の写真は撮れていません。後日アップします。

拝殿の後ろにある朱塗りの社殿が本殿です。

 7・その他

その他ひとくくりにしましたが、ただこれが何なのか聞いていなかっただけです。でも気持ちの落ち着く景観でした。

③・ 徳応寺 (坂本龍馬・勝海舟ゆかりの地)

文久4年(1864年)2月15日、幕末の志士である坂本龍馬や勝海舟らが長崎へ向かう航路の途中で佐賀関に上陸した際、徳応寺に宿泊しました。坂本龍馬が初めて九州の地に足を踏み入れた場所としても知られています。
 寺院には、当時の住職が記した宿泊者名簿や、一行が乗っていた船の絵入りの記録などが保管されています。

今回のウォーキングではお寺の前を通っただけで、徳応寺は訪れていないのでお寺の門だけでもアップしておきます。(数年前に訪れた時の写真があるので探してみます。)


    德応寺

    海舟・龍馬止宿の寺
浄土真宗本願寺派の寺。 江戸時代末期(1864年)に、勝海舟と坂本龍馬一行が来関した折に宿した寺です。 往きは2月15日に還りは4月10日に止宿しました。
近年、この寺から当時の10代住職であった「龍潭」が記した、 絵日記風の書き物 「日本人物誌」が発見され現存しています

竜馬の道を歩く

竜馬の道を8年ほど前(2018年10月14日)にウォーキングで歩いています。しかし、今のようにHPをしていなかったので多くの写真は撮っていません。あった写真だけでも載せたいと思います。

半島である佐賀関では、海岸沿いの舗装された道が出来るまで、人々は険しい山道を歩いて峠越えをしていました。下記の文書に依れば3つの峠があったと言います。
文久4年(1864)、勝海舟や坂本龍馬も、この佐賀関街道の峠を超え、肥後街道を通り、長崎まで往復しました。この古い街道をウォーキングで歩きました。

龍馬街道入り口
この先に有屋峠の入口になる所があります。その後、虎御前峰・篠生峠と続いております。
明治三年に海岸沿いの道ができるまで、村人達はこの峠越えをしていました。有屋峠は緩やかな峠ですが虎御前味や篠生峠はかなり起伏が厳しくて、大人の足でも三つの峠を越えるのに一時間程かかります。
勝海舟や坂本龍馬が佐賀関に来竹にも、この三つの峠を越えて、鶴崎に向かいました。

唐揚げ屋

1、2週間前に佐賀関がテレビにでており、その時にこの唐揚げ屋が出ていましたが、ちょうどこの寺の近所だったのでアップしておきます。ミーハーですが。  (歳がばれる言葉です。)

④火災現場

佐賀関支所から佐賀関の町中、徳応寺前を抜けると、目の前に佐賀関港が広がります。

漁港につながる中心街の道(竜馬の道?)

前方が佐賀関の町。支所方向です。そして黄色の看板のところを右に行くと、住宅街がありますが、その住宅街と後方に見える山との間が今回の被災地です。

佐賀関漁港

高い山の麓の方が被災地になります。

被災地

<写真クリックで拡大>パソコン

国土交通省 「消防防災対策のあり方に関する検討会報告書」より

大分市の火災基本情報から (令和8年3月4日現在)

1.日時

(1)覚知 令和7年11月18日(火曜日) 午後5時45分
(2)鎮圧 半島部分 令和7年11月20日(木曜日) 午前11時、蔦島 令和7年11月28日(金曜日) 午後1時30分
  ※蔦島は1.5km先の無人島です。
   強風にあおられ約1.5キロ沖にある無人島「蔦(つた)島」へ飛び火し延焼しましたが、12月4日に完全鎮火しました。 
(3)鎮火 半島部分 令和7年11月28日(金曜日) 午後1時30分、蔦島 令和7年12月 4日(木曜日) 午後2時

2.焼損棟数

196棟(住家 96棟、空き家 75棟、その他 25棟)

3.焼損範囲

約6.39ha(63,937.97平方メートル) うち住宅エリア23,321平方メートル※焼損床面積は12,563.27平方メートル

.死傷者

死亡1人(76歳男性)、負傷者1人(50代女性・頭痛悪寒・搬送済)

現場を見る

左が漁港、右の宅地の裏側が被災地
現場内には入れないが、近くから見ることができました
この奥が解体現場です。
ポイントで回転し撮影してみました
後ろに見える白い大きな建物が旧佐賀関高校の体育館です。

被災地を海から見る

紅い輪あたりが被災地です。その上に見える白い大きな建造物が旧佐賀関高校体育館です。現在は田中の運動場やグラウンドになっています。
今回の火災ではその前あたりまで迫っていました。

蔦島
佐賀関漁港沖に見える島がこの大火災によく名前を聞いた蔦島(つたじま 無人島)です。写真の左に見えるのが佐賀関の町です。そのまちから1.5km離れていたのですが、北風に流れてきた火の粉から火災になり、12月4日に鎮火しました。

⑤佐賀関小学校より佐賀関の町を望む

国道217号線から被災地を望む

国道217号線から佐賀関小学校、佐賀関の町を望む

佐賀関のシンボル、日鉱の大煙突。佐賀関のどこからも見えてくる。日本の富士山のようなもの。

最後に  佐賀関を歩く

佐賀関の名前にふさわしく坂道の多い町です。目の前は海が、振り返れば山が迫っています。

9月12日(日)佐賀関鯛つり踊り大会

2026年9月12日(土曜日)に佐賀関鯛つり踊り大会が開催されます。佐賀関に興味を持たれた方は行ってみてはどうでしょうか。

・1.第8回関の鯛つり唄日本一大会:午前9時30分~
・2.第32回WOC大漁おし初め大会:午前11時~
・3.第43回関の鯛つりおどり大会:午後5時~