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5月30日 宇佐市役所からスタートして宇佐を歩く大分県ふるさと百選ウォークに参加しました。
今日のウォークの楽しみは、宇佐平和資料館にある零式戦闘機(ゼロ戦)と以前から興味があった特攻兵器「人間爆弾 桜花」の見学ができることでした。

零式戦闘機(ゼロ戦)
人間爆弾「桜花」

今回は他のことは無視して人間爆弾「桜花」を中心に書いてみたいと思います。

人間爆弾「桜花」

特攻専用の人間爆弾「桜花」の存在は知っていたのですが、実物(原寸大の模型)を見たのは初めてです。
爆弾の中に操縦席があり、ミサイルのような簡単な翼がついているだけ。
以前、人間魚雷「回天」を見ましたが、「桜花」はもろに爆弾、ミサイルそのものです。
👉人間魚雷「回天」大神訓練基地跡
これを見るとさすがに強い衝撃を受けました。これに乗るということは死んでいくということ、そのための訓練をまたここの宇佐海軍航空隊で行われていたのです。
 桜花は1.2トンの爆弾を積み、母機「一式陸上攻撃機」に吊られ敵艦隊近くで切り離され、ロケットエンジンで急加速し 敵艦に体当たり攻撃を行うというものでした。


「桜花」開発の背景

ではどうして開発されたのでしょうか。
1944年頃、日本は制空権・制海権を失いつつあり、通常の航空攻撃で大きな戦果を上げることが難しくなっていました。
その中で、「確実に敵艦へ命中させる手段」として特攻兵器の開発が進められ、桜花もその一つとして誕生しました。


では実戦はどうだったか
「一式陸上攻撃機」に吊られて敵艦に向かっていったのですが、「一式陸上攻撃機」(大型であり低速)の最大搭載能力は800㎏だったのに、「桜花」は1.2tあったため、動きがより鈍くアメリカ軍の標的になり多くが撃墜されたといいます。敵艦の数隻に攻撃はできましたが、実際に沈没させたのは1艦だけだったといわれています。
そして桜花だけではなく、母機、援護機などの飛行機、その搭乗員と成果に比べ多くの人(800人近く)が亡くなっています。
 桜花は終戦間近な悪化した戦争の特攻作戦と言う悲劇の象徴ではないでしょうか。


零式艦上戦闘機

桜花・一式陸上攻撃機を護衛していたのがこの零式艦上戦闘機です。私達には零(ゼロ)戦の方が有名かもしれません。零戦は当時としては驚異的な性能を持っており、太平洋戦争の緒戦(真珠湾攻撃やラバウル航空戦など)では、連合国軍の戦闘機を圧倒し「ゼロファイター」として恐れられました。後にその性能や特徴がしらべあげられ、その対応した飛行機が出てきたことにより次第に苦境に陥っていきます。
ゼロ戦の名前の由来は紀元2600年の00からゼロをつけたと言われています。

このゼロ戦が桜花の護衛に使われ、桜花、一式陸上攻撃機と共に編成訓令を行っていました。


宇佐市にある 宇佐市平和資料館 に展示されている零戦は、実機ではなく「零式艦上戦闘機二一型」の実物大模型(フルスケールモデル)です。

この機体は、映画「 永遠の0」 の撮影用として製作されたもので、撮影終了後、映画の製作委員会から宇佐市へ譲渡(または貸与)され、資料館の開館(2013年)に合わせて目玉として資料館では当時の戦闘機の大きさや形状を体感できるとして公開されています。


零式艦上戦闘機二十一型

これは、映画「永遠の0」で主人公が特攻に出撃するシーンなどに使用された「零式艦上戦闘機21型」 の実物大模型です。尾翼の数字は第721海軍航空隊を示しています。
この隊は通称「神雷部隊」と呼ばれ、人間爆弾 「桜花」とそれを吊り下げて投下する「一式陸上攻撃機」や護衛戦闘機で編成されていました。 宇佐海軍航空隊には、昭和20年2月に宮崎基地から「神雷部隊」の一部が転戦してきました。
戦闘機として前例のない3,000kmを超える航続距離と時速500km以上の高速と軽快な運動性、さらに20mm機銃を備えており、真珠湾攻撃をはじめとする緒戦において海軍の作戦を支えました。
(全長9.05m、幅12m、高さ3.51m、重さ約2t)

宇佐海軍航空隊と「桜花」のつながりは

宇佐にあった航空隊は、もともとは艦上爆撃機や艦上攻撃機の搭乗員を育てる「練習航空隊」として昭和14年(1939年)10月1日に開隊しました。真珠湾攻撃のための練習もここでも行われていました。
当時の 宇佐海軍航空隊 は大規模な飛行場を持ち、九州各地の航空基地と連携できる位置にありました。しかし戦争末期になると、宇佐海軍航空隊は実戦部隊の基地となり、桜花を運用する専門部隊である「第七二一海軍航空隊(通称:神雷部隊)」の一部が昭和20年2月11日、宮崎からこの宇佐へと移動・配備されます。


「参考 「第七二一海軍航空隊(通称:神雷部隊)」 」

第七二一海軍航空隊(721空) は、太平洋戦争末期に日本海軍が編成した特殊航空部隊で、通称は 「神雷部隊(じんらいぶたい)」 といわれます。
1944年になると、日本軍は通常の航空攻撃で米艦隊に接近することが非常に困難になっていました。そこで海軍は、

  • 人が操縦して命中率を高める
  • 高速で突入する
  • 大型艦に致命傷を与える

という目的で桜花を実戦化し、その専用運用部隊として721空を編成しました。1944年10月、茨城県の百里原で発足しています。

721部隊は桜花搭乗員だけの部隊ではありませんでした。桜花1機を出撃させるためには、

  • 桜花搭乗員
  • 母機の 一式陸上攻撃機 乗員
  • 護衛の 零式艦上戦闘機 パイロット
  • 整備員や地上要員

が必要でした。実際には大規模な航空部隊だったのです。茨城県の神之池基地などで訓練が行われています。
1945年になると沖縄方面への米軍侵攻が迫り、九州方面への展開がされていきます。

・鹿屋(鹿児島)・宮崎 ・宇佐(大分)などへ進出しました。

この流れの中で、 宇佐海軍航空隊 にも神雷部隊の一部が展開しています。



宇佐市の資料によると、宇佐には桜花の機体や運用部隊が配備されていましたが、宇佐から実際に桜花が戦闘出撃した記録はありません。
1945年3月18日、初出撃準備中に米軍艦載機による大規模空襲があり、桜花を搭載する母機の 一式陸上攻撃機 が大きな被害を受けました。その結果、計画されていた出撃は中止となりました。宇佐市教育委員会の資料でも、宇佐から桜花の出撃の準備が進められていたものの、幸いにも宇佐からの実戦出撃がないまま終戦を迎えることになったとされています。
終戦時には桜花も35機ほどが本土決戦用に残っていたと言われていますが、最終的には処分されたり、研究用にアメリカに渡ったとも言われています。

戦後、宇佐海軍航空隊はどうなっていったのでしょうか?

宇佐空の郷〈うさくうのさと〉

〈宇 佐 市 公 式 観 光 サ イ トより〉
市内に残る戦争遺構めぐりの拠点施設として平成29年4月21日に開館しました。施設名称は「うさくうのさと」、昭和14年10月1日から昭和20年までこの地に存在した宇佐海軍航空隊の略称として使われていた「うさくう」が由来となっています。建物は宇佐海軍航空隊の司令部庁舎をモチーフに建設されており、敷地内には、正門門柱の復元モニュメントが設置されています。また、施設内には、この場所にあった宇佐海軍航空隊正門門柱の1基が実物展示されています。門柱は戦後引き倒されて埋められていましたが、平成4年に行われた工事の際に発見されました。

宇佐空の郷  正面には宇佐海軍航空隊の正面門柱(モチーフ)が建てられています。展示場内には平成4年に発見された門柱が置かれています。
門柱周りのコンクリートは、かっての飛行場のコンクリートをはいだ時にでたものです。 〈2020-01-19 撮影〉

飛行場跡

かっての飛行場はコンクリートがはがされ、元の地主に戻され水田に復旧しています。
この画面の端あたりの県道が急飛行場の滑走路と思われます。

〈2020-01-19 撮影〉

城井1号掩体壕 (じょういいちごうえんたいごう)

※城井は宇佐の地名です。
 掩(えん)とは隠す、覆うといういみです。
 掩体(えんたい) 身を隠して敵から守るための構造物全般を意味し軍事用語です。

掩体壕は大戦中に軍用機(零戦など)を空襲から守るために造られたコンクリート製の格納庫(シェルター)です。
昭和18年(1943年)7月9日、勤労奉仕隊により掩体壕が作られ始めます。
カモフラージュするために、掩体壕の上には土が盛られて草を生やしています。しかし、米軍の撮影した当時の航空写真には掩体壕がはっきり写っており、その効果はあまりなかったといいます。
 市内には市内には11か所の掩体壕が残っており、写真でも見えますが、掩体壕内部には、国東沖で引き揚げられたゼロ戦のエンジンが展示されています

〈2020-01-19 撮影〉



1945年8月の終戦で宇佐海軍航空隊は廃止されました。
当時の飛行場は、南北約1.8km・幅約80m級の滑走路・格納庫・掩体壕(航空機シェルター)・兵舎や司令部施設を持つ大規模基地でした。また、終戦時の隊員数は約6100名でした。(航空隊開隊時は800名)

終戦後は他の多くの軍事基地と同様に解体され、広大な飛行場は徐々に民間へ返還されていきました。特に宇佐海隅航空隊の場合は、もともと水田地帯を造成して造られた基地だったため、戦後、滑走路のコンクリートは多くが剥がされ、元の水田地帯に戻っていきます。
上記の写真のように宇佐飛行場があった場所は現在見ると広大な田園地帯です。
ここに宇佐海軍航空隊があり、飛行場があったと聞いてもどこにあったのだろうとおもうような風景になっています。

コンクリート製で解体が難しかった施設の一部が残っています。
代表的なのが、電信室跡・城井一号掩体壕・高居地下壕・爆弾池・落下傘整備所跡です。
以前見学に行ったときに、田園の中にある小さな遺跡に特別な価値を見出せず、写真を撮らずに終わってしまったのが悔やまれます。
その時の数枚の写真をアップしておきます。

そして現在では、宇佐空の郷宇佐市平和資料館が整備され、宇佐海軍航空隊や特攻隊、桜花部隊、空襲の歴史を学べるようになっています。

宇佐空の郷
宇佐平和資料館