1・乙津川になぜ渡しが必要だったのか
輪中の高田を挟む両河川に正式な橋が架かったのは昭和30年代になってからです。(それまでにも高田橋については沈み橋や短い橋はあったようです。
川添橋完成 昭和32年(1957年) ……幅5.5m 延長274m
高田橋完成 昭和33年(1958年) ……幅5.5m 延長192m
軌をいつにするかのように昭和34年(1959年) 乙津川分岐の溢流提が完成しています。
また高田橋より下流には堤防がなかったと言われていますが、それらの工事に合わせ高田橋付近までしかなかった堤防を下流に建設していきます。
当時(昭和30年ごろ)を知っている人の話では、高田橋上流や神社の御旅所あたりには土砂が高く積み上げられ、その土砂をトロッコで運び堤防を盛っていたそうです。
これらの工事の発端になったのも昭和18年の大水害(もちろんこれまでの度重なる水害もあると思いますが)を機に本格的に水害対策を考えるようになり、大津留に大野川の溢流提を建設するようになり、それに伴い、堤防のかさ上げ、堤防の延長、そして、橋の建設と続いてていったのではないでしょうか。
では、橋ができるまでの状況はどうだったのでしょうか。
よく、乙津川は全体が河原で別保には歩いて渡れていたと言います。ところが江戸時代初期には大野川は乙津川(西川)が本流だったとも言われています。それについて先にこのホームページでアップしている「高田村志」 《高田村志を読む》 第一章 総説 2・を読んでいただければと思います。
また、高田風土記(南村)には乙津川の渡しについても書かれています。
👉《高田村志を読む》 第一章 総説 (総説 4ー2地勢 2・大野川の今昔)
👉《高田の歴史》「高田風土記」を読む(その5) 南村 街道
・大野川の今昔〈「高田村志」を読む 第一章総説 2・大野川の今昔〉 から抜粋
高田村の東を流れる大野川、西を流れる乙津川はいうまでもなく東が本流にして、旧藩時代にはこれを本川または白嵩川と称し、西はこの川の支流なれば、裏川または西川と称した。しかし口碑(言い伝え)によれば、今をさかのぼることに284年前、すなわち寛永(1622年~1644年 江戸時代初期)以前においては、この本流支流の関係は今日と全く相違し、東が支流、西が本流だったため、船運の便は、一に西川によって営まれていた。(乙津川(西川)が本流であった)
尤もこれより50年さかのぼる天正(1573年から1592年)以前においては、その水利は今日とは一層趣を異にしていたと伝えられている。このことは当高田村と関係深いことである。
現時点で西川が本流だった時代の名残りとして伝えられるものが2,3ある。その一つは大字南に貫通する堀にして、この堀は今日では僅(わずか)に排水の用をなすに過ぎないが、その時代では幅員も広く船舫(ふなもやい 船の係留)の出入りもできたのである。
それで本川を上下する河船で本村に寄泊するものはいずれもこの堀を遡行(そこう 流れをさかのぼっていくこと)して、今の首藤寶吉の裏あたりまで入り来てここに茂っていた大榎(この榎は近年まで生存していたが89年前までに切り倒されたという)に纜(ともづな)を係留することを常としていた。
またこのような堀だったので上には橋の架設もあって、人馬の通行の便になっていた。今日この付近を「橋の本」と称するは実にこれに基づくものという。
次は同じくこの南に「舟戸」という所がある。これは昔高田村より明治村の岩船を経て、大分方面へ至る往復の渡し場だった地で、船戸は船渡たるより出て、私を業とするもの、多く住んでいたことから起きた名であると。(渡しについて)
今一つは大字常行に、俗に「ハヅウダ」と称する小字があった。「ハヅウダ」は初穂田が訛ったもので、初めは常行天神の鎮座があったところだと伝えられている。
當時西川は夏秋の変わり目時期において、氾濫するのが殆んど恒例となり、常行村は常にその被害を免がれることができなかったが、或る年殊に甚しき災害を蒙る(こうむる)ことがあった。よって村民は、何とかしてこの年の水害を免がれんものと、一村協議の末、初穂田の地に鎮座せる天神社を、西川通り字井樋ノ口にうつして、水害除災の鎮守とし、旧地は之を初穂用地として同社に寄進し、以てひたすら神處の加護を祈願する。ところが翌年より水理が一変し、従来常行方面を通っていた西川の流れが、対岸中島方面を流れるようになったという。
以上説くところの諸説は何れも口伝えに過ぎないが、全くこじつけともいえないようだ。即ちこれら橋の本、船戸、初穂田等の、水量多かるべき本川に關係を有する地名が、今日水流満々たる大野川筋に無くて、かえって水涸れの乙津川筋に有ることは、その昔のその時において本流だったことを暗に説明しているとは言えないだろうか。記して後進の学者に供するものである。
《高田の歴史》〈「高田風土記」を読む(その5) 南村 〉から抜粋
街道
鶴崎御茶屋から南にあたり、関門を通って三十丁程隔たっている。
この村から臼杵領横尾の岩船と云うところに、舟渡しがある。それを「榎ヶ瀬」の渡しと云う(川幅は凡そ、三十間程ある。)
馬船は一艘あって、船守三人で往来の人や馬を渡している。船は村でお金を出し合って作っている。村の西側畑の中
を通る、鶴崎から犬飼への街道が通っている。また榎ヶ瀬から百堂の渡し場へ通る街道が通っている。 〔この街道は府内
から臼杵への街道でもある。]
上記の件から乙津川、及び大野川には渡しが利用されていた。
そうすると、昭和2,30年代初めを知っている人は乙津川を別保に歩いて渡っていたということと矛盾があるのではないか、と疑問も感じる。
それについていろんな人の話を聞くうちに、昭和18年の大水害のときには今の高田橋付近から神社の御旅所あたりが洪水の土砂で高く埋まっていたという。(お旅社あたりは低地であったがその水害で土地が高くなったという)
私の推測であるが、今の高田橋までは堤防があり、一定の勢いで水が流れていたが、高田橋から下流には堤防がなかったため、水が拡散され全体に広がり、水流が遅くなったことで、一気に土砂が溜まり始めたのではないだろうか。そのことで高田橋下流は土砂が溜まり、歩いて渡れるようになっていたのではないだろうか。
そののち、洪水対策で川底の浚渫がされ今の状態になっていったのだろう。
《参考》鶴崎周辺の「渡し舟」と「橋」について ふるさとの歴史教室 「研究小報」第35集より 安部光太郎先生
※安部光太郎氏について
安部光五郎氏、及び安部光太郎氏については高田と因縁の深い方であり、多くの郷土史を執筆されていました。
二人のプロフィールを下記に記していたのでご覧ください。
👉ふるさとの民俗 徳丸地区の民俗資料調査
【 高田橋】
*この付近に古くから「榎(えの)ヶ瀬の渡し(南村→臼杵領岩舟)」 があった。 高田風土記に 「川幅凡そ三十間ほどなり、 馬船一艘ありて船守三人にて往来の人馬を渡す、船は在中出銀にて作る」 とある。
「大正十三年九月高田橋の開通式があった」 (高田ふるさと講座年表)*当時の高田村長、岡松準平氏 (1865-1933) の尽力による。
■この当時、高田橋のほかにも、渡しや、板橋、 沈み橋が利用された。
*(昭和初期の状況について回想) (高田ふるさと講座仲摩富美さん )
「裏川にも船戸の渡しがありましたが、 森村に行くのには主に関戸の下の橋と橋本の橋を利用しました。 関戸の下の板橋は増水時には流れぬよう外して保管し、水位が下がるとまた仮設されました。
また、現代の高田橋より少し下流に架けた橋本橋は石橋(沈み橋)で、十八年の洪水で前の高田橋(大正末期頃架橋) はコンクリートで流失しましたが、 石橋は流されずに残っていました」
■昭和三十三年 (1958) 五月十五日竣工、上部鉄板下部井筒橋 (続高田村志)。これが現在の橋。 昭和三十一年竣工という説もある。
■昭和五十一年二月高田橋歩道橋ができる。
【 川添橋】
高田より川添への渡しは [堂園] [百堂] [金谷] の渡しが古くからあった。
※参考 👉高田の渡し
1・[堂園の渡し]
昭和6年堤防工事のため廃止となった。
2・[百堂の渡し]
👉《高田の歴史》「高田風土記」を読む(その4) 関門村 [舟及び街道]
*(大正期の百堂の渡しについての回想) (高田ふるさと 藍澤亮一さん )
(大正期の百堂の渡しについて回想)
百堂渡し船の権利は関門村が持っていたが、 百堂村の人に権利を委任していた。関門村の人は何回渡船しても無料であった。 ただし、関門区から年二斗の荒麦を中時に百堂の船頭に渡していた。 船頭の収入は、 関門区民以外の人から渡船料として大人二銭、 小人一銭 (大正時代)を徴収していた。
昭和二十七年、百堂の渡しは仮設橋完成の
ため廃止された。
3・[金谷の渡し]
大正十四年県営となって渡し料は無料。 これは高田村長 岡松準平氏の尽力による。 昭和三十二年川添橋完成により廃止となる。
■昭和三十二年三月。 鋼板合成桁橋竣工開通。
■平成元年九月、新川添橋竣工。 これが現在の橋である。
2・肥後街道を歩く (岩舟(舟戸)の渡し から 金谷の渡しへ)
(岩舟(船戸)の渡し
明治村から高田村への渡しは旧岩舟八幡宮あたりから河川側に下っていき高田若宮八幡社の対岸あたりに渡しがあったと言われています。横尾側は岩舟、南側には船戸とそれぞれ、船に関する名前がついていることは渡し舟の運行箇所だったことの現れでしょう。
岩舟の渡しは、旧岩舟八幡宮あたりから川側におり、この茂っている個所あたりにあった道を渡し場まで歩いていたようです。
[※ 旧岩舟八幡宮]
大分市大字横尾字岩舟にあって岩舟八幡宮と称していましたが、乙津川の河川改修に伴い、昭和40年森町の若宮八幡宮と一緒になったそうです。なお、岩舟樋管の横の高台にある旧岩舟八幡宮の跡地には今も石塔などが残っています。
渡し付近
岩船の渡し位置は河川改修工事等により正確な位置は今のところ把握できていません。高田若宮八幡社の対岸あたりだったようです。
高田若宮八幡社周り
高田若宮八幡社の南側を歩きます。ここで参拝したり休憩をしたのでしょう。
第一の道標
この道標で臼杵街道と熊本方面との分岐点、今の道標は明治初期にできたと言われています。
農地の方に進みます(川崎氏宅南側)
鶴瀬の集落に入る手前の川崎氏宅南側を左折し、またすぐに右折します。そうするとビニールハウスの一群が現れます。ここを東に向かって丸亀まで進みます。
東へ進みます
温室が立ち並ぶ中を東へ進みます。下徳丸・大津留線を横断し、下徳丸から丸亀・閼伽池への道路と交差します。そこを閼伽池方面に進み中村漬物店の北側の道へ入ります。
亀甲から上徳丸へ
中村漬物店の北側の道を東側に進み、能仁寺と上徳丸公民館・上徳丸天満社の間を通り、突き当りの会所跡を右折します。
上徳丸道標
上徳丸の道標を左に曲がり大野川の渡しに向かいます。
金谷の渡し
金谷の渡しは金谷の七輪のまちづくりが金谷の渡しの標柱を立て堤防上から下までがコンクリート舗装されています。
渡しについては過去アップした高田の渡しがあるのでそれを参考にしてください。
岩舟渡しから金谷渡しまでの臼杵街道のルートを記しましたが、時がたっていること、宅造や農地の区画整理等で変わっていると思います。一つの参考ルートとしてみていただきたいと思います。
また、当時の主要道路はこの臼杵街道とともに、常行側と関門側の鶴崎方面への2つのルートがありました。後日アップしたいと思います。
(堂園から下徳丸の直線ルートは後につくられたものだとおもわれます。)