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参考サイト 👉高田歴史散歩17番〈能仁寺〉   👉高田の歴史

高田びわのす通信に以前能仁寺《歴史散歩17番》をアップしましたが、今回そこを訪れると寺の由緒書き看板には詳しく高田のことが書かれていました。下記に能仁寺の中で書いた勝光寺についての部分を下記に添付します。寺の説明については下記の部分を読んでいただきたいと思います。
 なお、今回、寺を訪問した際に由緒書きにはっきりと高田の字が書かれているのを見て、いかに高田が勝光寺の復興に力を尽くしたかを感じ取りました。

高田びわのす通信 〈能仁寺より勝光寺部分を引用〉

勝光寺〈大分を歩く〉南こうせつの清家南こうせつは竹中のお寺の息子だということは知っていると思います。南陽山 勝光寺(しょうこうじ)です。そしてその本寺の復興に尽力したのがわが高田の能仁寺なのです。
 勝光寺は由緒ある歴史のあるお寺なのです。寺伝によりますと、源頼朝の豊前と豊後を治めるため、大友能直(よしなお)を初代鎮西守護職に命じました。そして初代能直が建久7年(1196年)に建立したと伝えられています。お寺には大友能直公や大友宗麟の部下の名武将「戸次道雪」の版木が残されている大変歴史のあるお寺です。大友能直は初代大友氏初代当主になり、九州で勢力を広げていきます。
寺伝では天正十四年(一五八六)の豊薩合戦で(近くでは戸次川の戦いがあっています)裏山の鏡城が兵火で焼かれ、その余燼で延焼した精舎は悉く焼土と化したという。
荒廃した寺にあって、この観音の智光が地元住民の心の拠りどころとなっていたことを、徳川期に肥後藩高田郷(上徳丸)の曹洞宗能仁寺の雲歩禅師の知るところとなり、師が勝光寺往古の由来を肥後藩主細川綱利に言上する。寛文九年(一六六九)、綱利の命により能仁寺の末寺として、勝光寺は再建され今日に至っている。」との由来である。
高田住民としてはなんとなく鼻の高くなる話ですね。

勝光寺と高田.能仁寺のつながりを示す由来書

勝光寺

勝光寺は大分市竹中の旧道沿いにあります。竹中中心部のお寺で竹中の住民の多くに慕われている感じがします。

勝光寺の写真

寺の位置図