平成9年のふるさと講座に紀行平の「鬼の井戸」について下記のように記されている。

行平が高田で仕事場としていたのは関門の矢熊という所。いまでも「鬼の井戸」と呼ばれるものが残るが、住宅建設予定地のような場所にあり、いつ消滅するかわからない状態にある。この井戸は行平が鍛冶に使用したもので、鬼が一夜のうちに掘ってくれたものだと伝えられている。行平はこの鬼に向こうヅチを打たせた。夜を徹し、一番鶏の鳴くまでに百振りの刀を打てば娘をやろうという約束だったそうだ。鍛冶系図二代の正恒というのは、鬼神の子だといわれている。
 鬼の井戸伝説に基づいて、ふるさと講座に「鬼の井戸」伝説が書かれている。

鬼の井戸伝説」[ 堂園 田中早苗氏 作]

発表時期等は不明であるが、平成9年4月6日の高田公民館で開かれたふるさと講座に載せられている。忘れ去られてしまうまでにここに復刻したいとおもう

鬼の井戸  伝説


むかしむかしのことじゃった。関門村の矢熊というところに、それはそれは有名な、刀造りの名人がおったそうじゃ。紀新太夫行平というお方で、関門村に来るまでは、都で、御番かじをつとめておったそうじゃ。御番かじというのは、帝の御刀を、日本中から集められた、二十四人の名人達が、順番に造るんじゃそうな。行平というお方は、それほどのえらいお方なんじゃ。

そのお方が、大友候が豊後の殿になられたときに、ついてこられたそうじゃ。最初のうちは、豊後の国の中を、あちこちと、住所を変えておったようじゃが、そのうち関門村に住むようになったんじゃそうな。その頃の髙田は、大野川から、質の良い砂鉄が、たくさん取れていたそうじゃ、その砂鉄のおかげで、刀造りが盛んじゃった。
 髙田かじと呼ばれ、この人達の造る刀は、豊後刀として名が通っており、優れたものじゃった。
その高田かじに仲間入りした、行平のもとには、噂を聞いて、弟子入りをするものが多かった。その弟子や刀かじの仲間達に、行平は、自分の知ってる限りのことは、全部教えてくれたそうじゃ。それで、高田かじの名は、ますます上がったそうじゃ。
 そんなある日のことじゃった。行平の家に、帝のお使いが、みえたんじゃ。
そして、「わたしは、帝の使いの者ですが、貴方に、刀を一振り造ってほしいのです。この刀は、帝の御愛刀となるものですから、心して打って下さい。 半年後に、頂きにまいります。」と言って、帰っていったんじゃと。
 このことは、たちまちのうちに、村中に知れわたり、村人達が、集まってきたそうじゃ。
「行平どん、あんたはえらい入じゃとは、聞いとったんじゃが、こんなにえらいお方とは知らんかった。」
「そうじゃ、そうじゃ、威張っちょらんし、なんでん、よう教えちくるんし、ありがてえこっちゃ。」
「行平どん、いい刀が出くんごと、みんなで折っちょんけん、がんばっちくんない。」
というと、帰っていったそうじゃ。
村人達にとっては、行平ほどの名人と、同じ村に住んでいることが、誇りじゃったようじゃ。
 それからは、なるべく仕事の邪魔をせんように、時どき来ては、明かり取りの窓から、そっと、行平の仕事ぶりを、見ていたようじゃった。
普段はおだやかな人柄の行平なんじゃが、刀を打ちはじめると、まるで人が変わったように、厳しいお人になるんじゃそうな。それが、今度の仕事では、いちだんと激しくなったんじゃそうな。
「これ、もっと強く打て、もっともっと、そんなことでは良い刀は出来んゾ」
トンカン、トンカンの音とともに、弟子達を叱る声が、日増しに激しくなってきたんじゃそうな。
 三カ月が過ぎても、いっこうに、刀は出来んかったんじゃ。いや、出来ることは出来るんじゃが、どれも、行平の気にいらんかったようじゃ。この頃になると、余りの厳しさに、弟子が一人減り二人減りして、ついには、たった一人しか残っていなかったんじゃと。さすがの村人達も、あきれはてて、あまり近かずかなくなったんじゃ。
それでも毎日、トンカン、トンカンと激しいおとが、続いておったそうじゃ。それを聞いて村人達は、たった一人残ってがんばっている弟子に、同情しておったんじゃ。
ある日のことじゃった。 久しぶりに、村人の一人が、行平の仕事場をのぞいて、驚いてしまった。なんとそこには、髪はぼうぼう、髭は伸び放題、目ばかりギョロギョロと痩せこけた二人が、刀を打っていたんじゃ、その姿はまるで鬼のようじゃったそうな。
それから、しばらくして、最後まで残って頑張っていた、弟子までが、居なくなってしもうたんじゃ。これには、行平もほとほと困ってしもうたんじゃ。いくら名人でも、一人では刀は造れんのじゃ、向こう槌を打ってくれる人がおらんことには、どうにもならんのじゃ。
 約束の期限は近いし、自分一人ではどうにもならんし、困りはてた行平は、ひたすら神様に祈り続けたんじゃそうな。
そんなある晩のことじゃった。
「行平、刀を打っんじゃ、向こう槌は、俺が打ってやる。」
行平は、びっくりしてしもうた。 それもそのはずじゃあ、そこには、鬼が立っていたんじやから、びっくりしている行平に、鬼がこう言ったそうじゃ。
「お前は、まさしく名人じゃ俺は、日頃の仕事振りに、感心しておったんじゃ。いくらお前が名人でも、一人じゃあ刀は打てん、今度だけは手伝ってやる。」
「行平、良い刀を打つには、まず良い水がいる。俺が、井戸を掘ってやるから、その水を使うがいい。」と言うと、一夜のうちに、こんこんと清水の湧きでる、井戸を掘りあげたんじゃと。
さっそくその水で身体を潔めた行平は、鬼を相手に刀を打ちはじめたんじゃ。トンガン、トンガン、その力強い槌音は、村中に響きわたったそうじゃ。
そして、瞬く間に、見事な刀が出来あがったんじゃそうな。
その刀のあまりの見事さに、行平は、しばらく、我を忘れて見入っていた。
しばらくして、ようやく我に返った行平が、お礼を言おうと振りかえると、いつのまにか鬼の姿は消えておったんじゃと。
 行平は、これは神様が、鬼の姿に身を変えて、助けてくれたんじゃと、思ったそうじゃ。翌日のことじゃった。 久びさに槌音を聞いた村人達がやってきた。
「さすがに名人じゃ、いつのまにか、こげんりっぱな刀が、でけちょんのじゃきい。
「まるで、神わざじゃのう。」 人びとが驚くのは、無理もねぇこつちゃつた。
村人達は、行平が、前のように、おだやかな人柄にもどったことが、嬉しくて、それ以上のことは、聞かなかったんじゃそうな。
 まもなく、帝のお使いが、みえたんじゃが、刀のすばらしさに、たいそう喜んで、たくさんの金銀を、お礼にと言って、置いて帰ったそうじゃ。
その刀は、後には、明治天皇の御愛刀となり、今も大切に保管されているそうじゃ。
 さて、その後の、行平のもとには、前にも増して、たくさんの弟子が集まって来たそうじゃ。その弟子や村人達にも慕われ、幸せな一生を送ったんじゃそうな。
それに、鬼が掘ってくれた井戸は、どんなに日照りが続いても、決して枯れることはなかったそうじゃ。こんこんとわきでる清水のおかげで、良い刀を造ることができ、たくさんの名刀が生まれたんじゃ。
高田かじは、ますます栄え、天下の名刀として、豊後刀の名は、広く知れわたったのじゃった。
 時移り、あれほど栄えた、刀造りの、高田かじも今はのうなってしもうたんじゃ。じゃが、鬼が一晩で掘っ たという井戸は、今も残っておるそうじゃ。

おわり

「鬼の井戸の伝説」をもとにして
 堂園 田中早苗氏 作