施工の推移
水利権
ルートは決定したが水利権が問題になる。その時水利権は昭和井路と共に九州水力電気株式会社(現九電)、及び大野川発電(現県企業局)、の三者競願であった。
しかし、最終的には新沈堕発電所、大野川発電所、昭和井路とそれぞれが使用するようになる。
昭和25年頃の昭和井路工事状況
[写真で見る大分百年]より
事業経過
昭和6年8月 昭和井路の工事があまりにも規模が膨大であったため、国営事業請願を行う。
昭和9年4月 農林省と県が協力し昭和十三年まで五ヵ年に亘り細密調査をする。
昭和14年11月 昭和井路国営開墾事業予算案が帝国議会を通過する。
昭和15年10月
受益面積を2,000haに減少する条件で昭和3年に申請していた昭和井路耕地整理組合設立の認可がおりる。総面積2012ha 組合員数7.142人
昭和16年12月 大野川河水統制事業で施工決定。
百枝取水堰堤から野津川戸上水路橋までを大野川河水統制事業で施工し、下流部を昭和井路開墾事業で施工決定する。
昭和17年10月 昭和井路の起工式が行われる。(鶴崎町大神宮で開催される。)
昭和20年8月 昭和16年に始まった大東亜戦争(太平洋戦争)が終わる。その間、材料や作業員、予算の不足などで悩まされるが工事を中断することなく工事を進めたそうである。
昭和21年3月 国営開墾事業が戦後の混乱の中打ち切られる。
昭和21年5月 緊急開拓事業として県営、組合営での施工決定。
昭和22年4月 農地開発事業として大分県代行建設工事となる。
代行工事とは
*農林省で、事業費の全額、一部を国が負担して開墾、干拓等国営土地改良事業の一部を代行工事として都道府県に実施させるもの
昭和27年8月 昭和井路土地改良区に組織変更 面積2.031ha 組合員数6.500人
昭和28年6月 第一回通水試験 (主要幹線)
昭和29年7月 第二回通水試験 (川添線・大在線)
昭和30年7月 第三回通水試験 (大野川サイフォン・第二幹線・判田・松岡線)
昭和32年6月 全線通水
昭和33年3月 農地開発事業大分県代行昭和井路建設工事が終了する。
昭和33年11月 11月24日県立鶴崎高校体育館で竣工式が挙行される。これを機に県から昭和井路土地改良区に全体の維持管理が移管される。。
事業量 81km
(隧道 42.6km 開渠 30.2km 工作物 8.1km)
事業費総額 9億2000万円
(国費 78.143万円 県費 9.907万円 地権者 4.550万円)
受益計画面積 1,938ha
工事期間 14年余
*この歴史についてはまた機会があれば調査していきたいと思います。