紀新太夫行平
今年の始めに宇佐市の県立歴史博物館で豊後刀の企画展、それも高田鍛冶 紀行平、平高田、藤原高田など、高田の銘刀を中心とした企画展でした。その様子を見てください。
👉 県立歴史博物館で豊後刀の企画展
<参考>
紀行平の「「高田村志」第二章人物 紀行平」に入る前に、紀行平を年表にまとめてみたいと思います。紀行平については詳細な記録は少なく、伝説に基づくものが多いような気がします。それらをもとに作成してみたいと思います。
1144年 | 駿河(するが)の国(現在の静岡県)に生まれる。 |
1184年まで | 全国を修行して回り、名工として知れ渡る。 |
1184年 (源義経 一の谷の戦いで平氏を破る) | 源平の争いに巻き込まれ、上野の国(現在の群馬県)に流される。(ここで16年近く暮らしたという) (行平は国東豊後六郷満山の執行を任されていたが、源平の戦い時の動静の読み違いで罪を問われる) |
1192年(源頼朝 鎌倉幕府を開く) | |
1196年 | 頼朝の側近・中原親能(なかはらのちかよし)が豊後国の守護職として入国するようになるが、その彼の養子が大友能直(おおとも・よしなお)<大友家初代>である。 行平も後、その大友能直従って大分にやってくる。 |
国東時代 良質な砂鉄がとれることで、国東の千燈 鬼神 鬼籠(きこ)等に 住んだと伝承されている。 | |
豊府時代 岩屋石仏辺りに移住してくる。 | |
高田時代 高田の地を与えられる。(当時、高田では刀つくりもしており鍛冶がいたことも影響か?) ここで後継の育成に努める。 | |
1208年 | 後鳥羽上皇の御番鍛冶(ごばんかじ)24名の一人となる。年12か月のうち、4月を担当したといわれる。御番鍛冶については別の説もある。 |
1221年(承久の乱) | 戦いに敗れた後鳥羽上皇は隠岐の島に流され、御番鍛冶も斬られたり追放されたりした。 行平も陸奥国とか、上野国に追放されたという説があるが定かではない。 |
1222年 | 承久の乱の翌年、行平没す。 |
1790年(江戸時代) | 570年後、地元有志により墓が建てられる。(関門仲間 庵寺地内) |
2019年10月22日 | 皇居・宮殿で行われた「即位礼正殿の儀」で秋篠宮さまが帯剣されていた太刀が「行平太刀 東宮相伝」です。 皇室の御物として「行平太刀 東宮相伝」と「行平太刀 昼御座御剣」の2振の行平の太刀が保存されている。 |
<産経新聞の記事より>
<参考>行平の刀の特徴
歴史博物館の解説によると
行平の現存作品は、一般的に細身の刀身を小鋒(こきっさき)に結び、腰反りが大きい優美な姿です。その最大の特徴は刀身彫刻にあり、行平は日本刀に刀身彫刻を施した最古の刀工ともいわれています。今回展示している太刀2振り、短刀2振りのいずれの作品にも、刀身には倶利迦羅竜王や梵字などの彫刻が見られます。
これより「高田村志」第二章 紀行平に入ります。
ただし、「高田村志」そのものより、かってアップした 紀行平 歴史散歩《5》のほうがわかりやすいのではないかと思います。
名作の太刀
紀新太夫行平は、我が高田鍛冶の元祖にして、古来から刀剣界有数の名匠である。その作の中一振は帝室(皇室)の御所蔵になり、粟田口吉光(鎌倉時代京都の粟田口で活躍した刀工)と刀工、明治天皇御遺愛(故人が生前愛していたもの)の御物であると聞いている。お話しするのも畏れ多いことであるが明治天皇は刀剣に対する御鑑識(見分ける能力)は非常にすぐれておられ、数多くの名作を愛されおり、特にこの二振を御賞玩(そのもののよさを楽しむこと。珍重すること。)されたのは、行平の作の卓絶非凡(抜きんでて優れていること)、真に稀有の殊珍(シュチン 特別に珍しい)ものであることを十分に知っておられたからである。 その他行平の名作として世に知られたるものには、開院宮家伝来の利目丸、赤松氏薫重代の桶丸、日光東照宮に所蔵されている者等がある。
このような天下の名匠が本村に居住し、遂には高田鍛冶の元をなすに至ったのは我々高田住民の大いに栄誉とし、また誇りとすべきことではないか。
家系
系譜が伝えるところによると、行平はもと駿河国の住人で従二位中納言 紀梶長からでて、かの土佐日記の作者紀貫之、及び
久方の光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらん
の歌をもって100人一首に名を連ねた紀友則等と、その祖を同じくする人である。
父を行定といい、官、出雲守たり。(一説に豊前山三千坊の学頭定秀の子であるとも、あるいは門人なりとも伝えられる。)その生年(年齢)は詳しくは残されてはいないが、一般の刀剣史から考えると、元暦(1184年)の頃、既に刀匠として一家をなしていたようである。 想うに元暦以降弘安に至る百年間は、我が国刀剣史上第三期と称せられ、空前絶後の発達を示したる時代で、行平はちょうどこの初期、即ち源平二氏の交戦によって、刀剣界は多大の活教訓を受け、ついで鎌倉幕府が建設されるに及んで、頼朝の奨武(武をすすめる)はますますこれに刺激を与え、各派は大いに之の革新に努めたので、天下の名匠がつぎつぎと輩出する時代に出会ったのである。
特に古来刀鍛治は普通の職業とは異なり、最も名誉のある神聖な業務と見なされていたので、仮に普通に名を天下に成したいと思うものは、武士でありながら、なおこれに身を投ずる者があるほどだったので、文筆の系統に生れたる行平も、このような時代の風潮に刺激され、途に刀鍛冶に志を立てたものなのだろう。こうして行平は鎌倉に召し出され、時の将軍頼朝に仕える身となったのである。
来村経過
建久七年(1196年)大友能直豊前豊後の守護職として、当国へ下向する際に、行平もこれに扈従(コジュウ おともして)来る、固東郡安岐郷千堂と称するところに住み、ここで鍛冶に従事した。時に千堂嶽に住むという鬼神が行平の精力に感じいり、日々出で来ては向槌(むこうづち)を取ったと伝えられている。是はもとより一つの伝説に過ぎないので、これにおいて是非を論ずる必要はないが、その住む所については、系譜の記載と国東地方に伝えられるものと、すこし異るところがあるが、一言これを説明するに、同地方においては行平の住んだところを、今の東国東郡上伊美村の鬼ヶ城であるとし、その附近には鬼籠及び紀新田なる遺跡が存在する。その子孫と言われるものが同郡竹田津村大字鬼籠に住むという。
今千堂なる地を舊記(きゅうき 昔のことを記した文書)でみると、安岐郷には全くそのような地名はなく、かえって伊美郷に千燈なる地があり、現に前記上伊美村の大字であることから見れば、千堂は乃ち千燈にして、当年行平の住んだところはこの地方なりと見ること、後文に照合してもよく地理に適合している。更に系譜の説くところによれば、行平はその後千堂から同郡都甲の辺り(今の西国東郡東都甲村か) 風器村(今の同郡田染村大字路なるべし)に移り、同所に風器堂(今田染にありて特別保護建造物に指定されている富貴堂をさしているものだろう) を建立したりとあるのはこじつけもはなはだしい、全然信ずるには足りない。
次で今の大分市大字豊府(当時ここには大友の居館があったことに注意を要する) しばらく住んだ後、更に封(ふう 与えられた土地)を我が高田に受けて、当所へ移り来たという。
おもうに本村には、康治仁平の頃(1142年~1153年) すでに刀匠国綱(当国に住んでいた筑後御井郡の刀匠三池利成の子) が出たほどで、鍛工が多く住み、お互いにつながり合った為だろう。
御番鍛治
(参考)
[本朝鍛冶考]は寛政八年に出版された刀剣書で古刀研究の集大成とされる専門書です。そのなかに「後鳥羽天皇御宇24人番鍛冶」のなかの4月に「豊後国紀新太夫行平」の名前が出ています。
<歴史博物館 企画展資料より>
これより「高田村志」
行平の伝記中最も光彩あるものは、承元二年(1208年) 後鳥羽上皇諸国より刀工の名手を召し、院内に上番せしめて(交代で業務に就くこと)多くの刀剣を作らせになるに当たり、召出されて二十四人御番鍛冶の一人に加えられたということが是である。
二十四人の御番鍛とは
24名の指名は省略
にして、行平は備前長船の一派である近房と共に、四月の当番であった。この一事は、実に行平の刀工としての技術をうかがうに足り、又その名の評判が非常によく、後世に伝えられるところである。しかし、後鳥羽上皇は承久の失敗によって、北條義時のために隠岐へ移されなったことで、御番鍛冶の中にも捕へられ、ある者は斬られ、ある者は流され、行平は陸奥の月山へ謫流(るたく 官位を落とされ遠くに流されること)される身となった。こうして配所にいること幾歳、時 の非運なることを憤慨するあまり、折にふれては鍛冶に憂さをはらすこともあったが、流石に竄流(ざんりゅう 島流し)の身で行平と銘を打つを憚りてか、土地の名をかりて月山と刻したという。
想うに行平が配流されたことは事実であるようだが、その配所においてはいろんな説があり、あるものはここに言うように羽前の月山なりといい、あるいは下野の利根荘なりといい、あるいは上野国なりといって一様ではない。
又行平は時に宗秀という秘銘を用いたが、配流中の刀銘には月山の外に有風、方土、日本一等の名、もしくは桜花を彫り付けたという。 後に赦免されて国に帰ると伝えられる。
行平作の特徴
行平が刀剣界古今の巨竜にして、古作中最も上位の名作家であることは、以前から識者の推奨するところではあるが。更に行平の特徴について、本邦刀剣鑑定の泰斗(たいと その道の大家)である本阿彌光遜の講述(学説などを説き明かすこと)ものは、最も詳細を極め、卓越した行平の技術を説述してあまりなきものであるから、下記にこれを記す。
※なお、これより1~5までの行平の作の特徴部分に当たっては本文のままに記載します。(旧漢字は変換しています。)
1・造込、恰好、装飾
太刀華表(かひょう) 反りにして、反り高く、最も上品にして、重ね厚く、ふんばり強く、身幅細く、平に肉最も多くつき、鎬(しのぎ)高く、鎬幅狭く、庵高く、真の棟も見る。小切先詰りて肉あり。 正しく豊かにして品位あり。 鎬造多く、腰に丈短き櫃の中に眞の倶利迦羅を彫る。 其の技他人の及ばざる趣ありて、殆ど比類なし。総倶利迦羅角張らず丸き心になりて、櫃の中最も深く彫り下る。時代古きものなれば大抵は研にかかり切物崩れたれども其の趣残れり、注意すべし。又腰麺櫃の内に、剣、梵字の類あり、 是亦非凡の技術現れたり。 又区際鎬平に掛り、櫻花深く彫りたるものあり。短小振りの物を見る。重ね厚く真の棟多し。 腰に同様の彫物あり(重ね非常に厚くなく全くの三角形をなし、棟に櫃の内に箕の倶利迦羅を彫りたる物を見しことあり) 技術真に歎賞の外なし。
2・刃文、働き
※「刃文」とは、「焼き入れ」(やきいれ)によって付けられた焼刃の形状のことです
此作自身にて再刃(焼直)せしもの多しといふ。 直刃乱心あるもの、又は、灣(湾)小乱交るもあり。
磨直刃乱心あるものもあり。総ててゆつたりとして匂ひ最も深く、悉く深く足入り、光深く少しく荒き沸十分に付き凝りて足入り、刃表に沸浮き出る様に付きて、金砂子を散布けるが如く、金筋、稲妻交り働き申し分なし。刃境静かにして見分け難き趣は定秀に似たり。 腰焼出一二寸の所に焼落しありて、一 層其処に働きを現す。 其の技術は他作に比類なし。殊に焼出の内に、足繁く沸匂凝りて足入る。
3・鋩子(帽子 刀の先)
沸(にえ 日本刀の刃に銀砂をふりかけたように輝いて見える細かい模様)崩れ、火焰(ほのお)、大九(何かわからず?)、焼詰等にして返り浅く、少しく荒き沸(にえ 日本刀の刃に銀砂をふりかけたように輝いて見える細かい模様)十分に付きて、匂深く足入り上品なり。 掃掛もあり。此作殊に返り一文字形になるもの多し。
4・地鐵(鉄)、肌
如何にも細かく梨子地(なしじ ナシの肌に似せて点々のある肌地)の如く光り、強き荒き心地沸総体に付て、むらむら
と浮き出て麗しき事賞賛の言葉なし。沸きうつり肌立つ。殊に焼落の処より弾きうつり現はれ見事なり。柾交る。
5・中心
氣品高く肉ありて細く、区両方共険しく高く長くして反り心あり。先肉ありて最も細き栗尻、棟角にして小肉あり。 鑢筋違、せんすき、 槌目もあり。 短刀最も細く肉ありて長く、先一層細る。
人
行平の門弟中世に聞いた者には、本村住有平、豊後住行真、同安則、肥前平戶
住家重等がいる。 その子定慶(本村に伝わる系譜には無し) また著名な刀匠である。
去
貞應元年(承久四年1222年)三月十七日行平歿没す。 法号を顯徳院鐵山玄禪定門という。(鶴崎町東巌寺過去帳による)墓は奮永珠庵の境内たりし、關門字仲間の田圃(たんぼ)の中に在る。ただし墓石は言うまでもなく後世に建てられたものである。しかしその子孫と言われるものは本村及び戸次、国東の地方におり、高田、藍澤、紀等の姓を名乗っている。
今、下記に当村高田家に存する行平の正系を掲げてこの伝記を終わることとする。
行平の系譜は省略します。
次回「高田村志」を読むは第2章 高田の人物 (毛利太玄の父 空桑の父)に移ります。
👉第2章高田の人物 (毛利太玄 空桑の父)