👉鶴崎地区通信(旧鶴崎市・鶴崎地域) 
 
👉大分を歩く

👉大野川を下る第1回(源流祖母、傾 そして 荻町 白水の滝)
👉大野川を下る第2回(竹田から大野町・緒方町)
👉大野川を下る第3回(緒方から三重町へ)
👉大野川を下る第4回(三重町、犬飼町の河川港[細長港、吐合港、犬飼港]
👉大野川を下る第5回(ついに到着地 鶴崎(別府湾)へ)

〖<写真クリックで拡大>〗

犬飼を過ぎると大野川は次第に川幅は広くし水量も増しながら、竹中、戸次を通り、松岡にたどり着きます。そして大津留の越流提から大野川は乙津川と大野川二つに分かれていきます。高田はその二つの川に挟まれた輪中地帯で楽器の琵琶に似ていることから(びわの洲)と呼ばれています。これまで幾度となく水害にあってきた地域です。<この水害についてはこれまで当ホームページに記載しているので省略します>
乙津川は別れた後、高田と別保の間を通り、鶴﨑・三佐にたどり着き別府湾へと流れ込みます。大野川もまた高田と川添の間を流れ鶴崎、別府湾へと流れ込んでいきます。鶴崎は江戸時代にはいくつかの藩の港町でした。熊本藩の鶴崎港、岡藩の三佐港、臼杵藩の家島港、幕府領の乙津港と大阪や他藩への出発地でした。

 祖母山からのわずかな雨が大きな川を形成し、多くのコンビナートが連なる鶴崎の工業地帯・別府湾へと流れ込み、107㎞の大野川の長い旅は終わります。

最後のルート、犬飼港から鶴崎までを追ってみたいと思います。

写真で見る犬飼から白滝橋まで

犬飼と犬飼港

👉犬飼港から三佐港へ で書いたように犬飼は岡藩の港でした。右下の入り江が殿様専用(中川公)の船着き場です。
 これから大野川を下っていきます。

犬飼港と中川公の船着き場(右下の入り江)

大南大橋 豊薩戦争大野川(戸次川)合戦の地

大野川(戸次川)合戦場跡

天正14年(1586) に薩摩と大友宗麟の豊後が争った合戦の地として戸次川の舞台として有名です。詳細は下記の<戸次川合戦と鶴ヶ城 大野川合戦祭りに寄せて>を見てください。
👉戸次川合戦と鶴ヶ城 大野川合戦祭りに寄せて
👉第18回大野川合戦祭り

この辺りで戸次川の戦いが繰り広げられていたのかもしれません。戦いの後、大野川は赤く染まっていたといわれます。

<戸次川の戦いと鶴ヶ城 大野川合戦祭りに寄せて>より抜粋

 

鶴ヶ城・戸次川の戦い

戦国時代、大友は薩摩と九州を二分するほど (今では信じられないのですが) 巨大でした。しかし、薩摩との(宮崎)耳川の戦い(1578年)で大敗を帰し、そのことが引き金になり大友家の内部抗争や他の九州勢の反旗により危機的状況にまで陥っていきました 。そのすきを見て薩摩が豊後に攻めてきたのですが、その戦いの中で最大だったのがこの鶴ヶ城の戦い・戸次川の戦いです。佐伯の番匠川沿いに北上して栂牟礼城(佐伯の弥生にあった山城)を目指したのですが、島津軍は強い抵抗にあい、落とせず敗北しました。そこで島津軍は鶴ヶ城に兵を進めます。そこは大友宗麟のいる臼杵城と大友義統のいる府内城の中間地点でした。大友義統(よしむね、宗麟の息子)は、島津軍2万に包囲され籠城を続ける鶴賀城を救援に向かいます。大友軍には、豊臣秀吉の命で援軍に来た仙石秀久、長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)、信親(のぶちか)親子、十河存保(そごう・まさやす)の四国勢が加わります。これまでの戦いで窮地に陥っていた大友は秀吉に援軍を依頼していました。(秀吉はまだ日本全国の平定の前で薩摩との戦いを避けるように指示していました)。 この戦では長宗我部・十河・仙石三大名の連合軍に大友軍を加えた約6000人と島津軍25000人が衝突しました。しかし大友方は多勢に無勢であったことや、仙石秀久の無謀な作戦によりほとんど全滅状態となりました。戦いは4時間に及び、大友、四国連合軍は府内や鶴崎へ敗走します。この戦いで両軍合わせて3千名の死者を出し、長宗我部信親、十河存保、戸次統常(べっき・むねつね)らの武将が壮烈な死を遂げます。

次の年の3月には、秀吉が出陣してきて薩摩を破り九州を平定するのですが、かっては豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後と6か国を治めていた大友氏は豊後のみの所領となります。

大分の人間としては島津軍の攻略に落ちた 仙石秀久 ( 彼は豊臣秀吉の最古参の家臣でした)ではなく、長曾我部元親(彼は四国の統一寸前までいった名君だったといわれています。そして息子の信親も評判が良かったそうです)だったら歴史は豊後だけでなく高知土佐藩の運命もまた変わっていたのだろうか、など考えてしまいます。そして最後にはこの大友義統の代で大友氏は終わりを告げます。

戸次川合戦の跡 天正14年(1586) 435年前  (2021・11・11撮影)

当地には戦死した長宗我部信親や十河存保らの墓が残っており、今まで地元で供養が続けられてきました。その歴史的な出来事を後世に伝えようと大野川合戦祭りが毎年行われています。 

(2021・11・11撮影)

白滝橋 高田では水位測定や河川のライブ映像のポイントです

白滝橋と言えば、台風や豪雨のたびに出てくる河川の水位情報です。水害対策に取り組む高田地区としては目の離せないポイントです。

白滝橋

白滝橋は1902年(明治35年)頃に木造橋が完成しその後、国道10号の建設に伴い1952年(昭和27年)に旧橋が開通しました。現在の橋は、1980年(昭和55年)に下り線が増設され、2004年(平成16年)に上り線が架け替えられたものです。

白滝橋は全長は約295m、最大支間長は61mとなっています。
この白滝橋の名前の由来は、先に書いた戸次川の戦いで亡くなった長宗我部信親の愛馬の走っているときの鬣(たてがみ)の動きが滝のように見えた事からきているそうです。戦で亡くなったことを知らない白滝は川のほとりで主人を待ち続けたそうです。

白滝橋の水位標

船本・船本大橋 (船本の渡し・導水路)

大津留溢流堰への乙津川導水路

大津留溢流堰までの乙津川導水路 L=約3km

導水路の歴史

乙津川は常時水が流れている。それを可能にしているのがこの大野川乙津川分派<導水路>である。この水は大津留の溢流堤の下を通り乙津川にそそがれている。
では、どうして大野川乙津川分派<これからは導水路と表記する>が設けられたのか。
 それは、溢流堤を設けたことにより、乙津川の水量がなくなり、家庭排水や工業廃水により汚染されたことによる。洪水時以外は乙津川に周囲から流れ込む四つの支流の水のみであった。
そのため、常時水を取水できるよう、上流の船本から導水路をひき、昭和37年に完成した溢流堤の下に新たに排水路の工事を行い、乙津川に水を流せるようにしたのである。
 また、この溢流堤の下の暗渠部は、ふだんは暗渠部から導水路の水を流しているが、出水時は閉めて上の越流部を流すようになっている。
この導水路の工事は昭和51年から、11年の年月と30億円をかけて完成させたものである。
 船本から大津留までの導水路の横は立派にコンクリート舗装され、私が行っている間でも多くの人が犬の散歩や釣りに来ており、良い憩いの場になっているようである。

導水路の位置図

溢流堰へ流れ込む乙津川(導水路)

乙津川導水路導水路・船本の渡しは下記をご覧ください。

👉大野川・乙津川分派

大津留の溢流堰・鶴瀬の堤防

高田地区では大野川の流れが宝塔様のあるあたりで直角にカーブし堤防にその流れが衝突するため、鶴瀬地区等では堤防決壊の被害が大昔から多発していました。
その対策として江戸時代の加藤清正が鶴瀬の溢流堤の整備を行ったり、戦後は乙津川の整備や大津留の溢流堰、最近では丸亀地区の堤防の護岸工事が行われてきました。
👉高田水害の歴史

大津留の溢流堤丸亀地区の護岸工事を中心にアップしてみたいと思います。

大津留の溢流堰

先にアップした乙津川 分流提(溢流堰)から一部抜粋してみます。

👉乙津川 分流提(溢流堰)

大津留の溢流堤  昭和32年から建設され昭和37年に完成 

溢流堤部

この溢流堤は4か所の候補地から建設省が大規模モデル実験を行い、ここに決定した。しかし、これを建設するために、畑作地を掘り割って施行するようになったとともに、大津留の8戸ほどが立ち退きに会い、村が2つに分かれ反対運動の後に建設された。

導水路部

37年に大津留の溢流堤が完成したが、それにより乙津川の水量が減少し環境汚染の問題が発生した。そのため船本から導水路を引き、溢流堤の下に新たに導水路部を建設し常時水を流すようにした。
船本からの導水路部の工事から溢流堤まで、昭和52年から11年をかけて完成した。

大津留橋から鶴瀬側を望む

溢流堤ができるようになるまではこの地は畑が広がっていたという。

丸亀地区の堤防護岸工事

先に書いたように県の大津留浄水場から亀の井自動車学校あたりの堤防が昭和18年の台風で決壊し大惨事がありました。その大津留から鶴瀬にかけての本格的な国土交通省の護岸補強工事が令和3年から始められ現在も引き続き行われています。

👉高田水害の歴史

昭和18年9月20日の堤防決壊箇所(高田公民館・建設省資料)

上は現在の堤防の様子です。大津留側は進んでいますが高田側はまだこれからです。

これまでの工事の進捗を見てみましょう。

令和5年度鋼矢板打設  3月撮影
令和6年度対岸から望む
昨年 令和6年8月 台風10号時の大津留、鶴瀬地区

川添橋

川添橋は高田と川添を結ぶ橋です。昭和32年までは県営の金谷の渡しがあったのですが、昭和32年の旧川添橋(橋長274m、幅5.5m)がかけられ、平成元年9月に現在の川添橋(橋長280m)になります。

高田と川添を結んだ渡し

明治36年大分地図

渡しの一覧

川添橋

川添橋から望む

大野川防災センター

川添橋高田側の国土交通省の防災ステーションに大分市の大野川防災センターが建てられています。
詳細については下記をご覧ください。

👉大野川防災センター

大野川と花文字

川添橋と鶴崎橋の中間(堂園地区)の河川敷に自然共生会の人たちが花壇をつくっています。そしてそこには毎年、花文字が大野川を彩っています。
これまでの花文字を見てください。

2021年度

この花文字は「おーヤッホー」と読みます。2024年

鶴崎スポーツパーク

鶴崎と高田の境辺りにスポーツパークがあります。

ついに鶴崎の町 鶴崎橋に到着

 ついに鶴崎橋に到着。この橋は鶴崎と大在をつなぐ国道197号線として利用されています。現在の橋は建設中に見学に行きました。こんな大きな橋が架かるのかと感激した記憶があります。鶴崎橋は何度かかけられ流されてきた歴史もあるのではと思います。
明治以前はこの辺りは志村の渡し舟で往来をしていたと思うのですが、ここの渡しについては調べていないので後日過去の鶴崎橋と一緒に調査をしてみたいと思います。また、江戸時代には熊本藩の作業所跡(造船所)が鶴崎橋の鶴崎側オアシス病院前河川敷辺りにあったと言われています。

鶴崎橋を上流より望む 2025年6月撮影

※橋梁年鑑 鶴崎橋によると現在の橋は1969年(昭和44年)完工 橋長334.5m 主径間長95.5m 総鋼重984.0t
波奈之丸が建造された熊本藩鶴崎作業所跡

たどり着きました。終点大野川の河口です。


107㎞の大野川は終点別府湾に到着しました。これまで谷あり、山ありで大自然の中を流れてきましたが、この河口はこれまでの景観とは大きく違ってきます。河口の両端には九石、九電、LNG等の大きなコンビナートが広がり、高い赤白の煙突がそびえたっています。昭和30年代から40年代に建設されてきた新産都です。そして沖には大型タンカーの出入りがあります。かっては鶴崎が大阪への海の玄関だった頃が思い浮かべられます。そして遠くには国東半島や四国の佐多岬半島が見えてきます。

大野川堤防桜並木から眺める日豊本線鉄橋  2025-03-30
大野川河畔のコスモス祭り  2024-10-27撮影


大野川河口左岸側
大野川河口右岸側


前方は県道22号線(通称 40m道路)の大在大橋
その先に九六位山が見えています。
大野川河口のコンビナート群
九州電力新大分発電所  2024-9-26撮影
大野川河口でくつろぐ人々

ひとまず、祖母山から鶴崎まで大野川を下ってきました。
後日、乙津川を下ってみたいと思います