👉大分を歩く

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三重から犬飼に向かって大野川は流れていきます。そして犬飼に近づくといくつかの河川港があったと言われています。ではどうして集中していたのでしょうか。
一つにはそこまでは船が通行するには困難な場所が多かったが犬飼あたりから川幅が広くなり、大きな船も接岸できたということでしょうか。
また、陸路で通行するにも山中の悪路が多く、川を通行する方が楽であったと思われます。
二つ目は三重、野津、犬飼、竹田は江戸時代所属の藩が違っていたことがあります。そのため、その藩の領土内の河川港を利用したと思われます。

臼杵藩……………… 野津(吐合港)、三重(細長港) ………… →家島(臼杵藩)    
岡藩(竹田) …… 竹田、犬飼 (鶴の瀬・犬飼港)………  →三佐(岡藩)

只これらの河川港も大正6年の豊肥線の開通により港としての姿は消えていきます。

大野川と野津川の合流点近くにあった臼杵藩の吐合(はきあい)港

※資料によっては吐合を(はくあい はくおい はけあい はきあい)とありますが、ここに架かっている橋がはきあい橋とかかれているため、吐合をはきあいで統一します。

箸より下側が野津川、上側が大野川 かかっている橋がはきあい橋です。

はきあい) 吐合港


吐合港は今は犬飼ですが、かっては三重、野津をおさめていた臼杵藩(5万石)の領地でした。三重(1万石)や野津(8千石)方面の年貢米を集積し同じ臼杵藩領の鶴崎の家島に通船していました。そしてそこから、臼杵や大阪へ回漕されていました。
大野川の川幅もこの辺りからは広くまた水深も深くなっており、二十石船が自由に往来していたようです。
 吐合港の「吐合」の名称は、大野川の本流に支流の野津川が合流する地点にあり、河水が吐き合う所から「吐合」の地名になったようです。
しかし、三重からの運搬は主に陸路で運ばれましたが、道は悪く遠路(24㎞)だったため百姓たちに大変な苦労を与えたとも伝えられています。
地元の人(90歳近くの女性)二人にあって吐合港の位置等たずねたのですが、吐合港も明治初期までのため記憶はなく、また、国道10号線が当時の道より上の方を通るようになり、合流地点にあった家や建物は別の場所に移転してしまったそうです。少しでも昔の面影をと探したのですが発見はできませんでした。

合流点を大野川側から望む

吐合から大野川下流を望む

吐合橋の歴史

吐合橋の資料を求め犬飼公民館に行くと、これがいいでしょうと「犬飼町史」を見せていただきました。その「犬飼町史」から抜粋してみました。

  • 大野川と野津川の合流点である吐合には往時、吐合港として大いに繁盛した河港と、租税徴収代官所並びに雑穀等抜け荷(密貿易)の監視やそれらの流通に税をかけるための御番所があった。
吐合代官所のあった跡付近
  • 臼杵商人のほか、鶴崎の乙津、高田、松岡、戸次などの商人に買われた産物はこの吐合に集められ税をかけられて積み出された。
  • 吐合には臼杵藩の三重や野津だけでなく、大野川東部にあたる岡藩の清川や緒方、重岡あたりからも物資が集まっていた。
  • 吐合港の浮沈 (自分なりに解釈)
    三重や野津からの物資が鶴崎方面へ、またそこから大阪に出した方が利益が大きく吐合は繁栄していた。
    臼杵藩としては物資が臼杵にではなく吐合港から他藩に出ていくため臼杵の商人には渡りにくく商人は衰微し、商人が不満を持っていた。
    そのため、享保16年(1731年)年貢以外の物資を吐合港から出すことが禁じられた。しかし、吐合の運送業者の生活が困窮したため、3年ほどして取りやめになっている。
    そして元に戻るが、このような禁止とその禁止の取りやめが何度か繰り返されたようだが、幕末まで詳しい資料がないので吐合のようすもわからない。
    ただ、吐合は臼杵藩の裏玄関として大きな役割を担っていたといえる。
  • 吐合港には積み出し港が二か所あったようである。一か所は野津川の川口、もう1か所は蔵所下より100mほど上流にあったという。

大野川と三重川の合流点近くにあった細長港

三重町宮野にも細長港と呼ばれる河川港がありました。その近くに「細長繁栄記」という石碑が立てられています。この石碑は明治11年に建てられたものですが、細長港から三重や野津の年貢米を吐合港へ船で運んで繁栄していたことが伝えられています。吐合港への中継地として繁栄したということでしょうか。
探しに行ったところ、このような所にあったのかと信じられないような山間の木々の中に記念碑があり、そのあたりに港があったと思われます。
しかし、この辺りにはかって大野川の左岸を旧326号線が通っており、細長橋を渡り三重に通じていました。
その細長橋ですが、大野川と三重川の合流地点から200mほど上流にあります。かっては326号線として賑わっていたのかもしれませんが、今は古くなり通行止めになっています。
川近くまで下りて行こうとしたのですが、マムシが出るかも、といわれ大のヘビ嫌いの私としては断念するしかありませんでした。
※細長橋 1931年(昭和6年)に開通し、全長115.1メートル、幅員4.9メートルの道路橋でした。

大野川と三重川の合流点

細長港 「大分県 三重町誌より」

臼杵領三重郷一万石と同野津郷八千石の上納米は、牛馬の背によって吐合、野津川合流点に集められ、ここで二十石帆船に積んで鶴崎の家島に送られ、海運船に積みかえられ大阪、臼杵へ回送された。しかし、吐合河岸までの距離、勾配等の自然的条件や臼杵藩の財政難からの課税や物価政策(買い上げは安く、必需品は高く)などから、文化八年(1811年)には一揆が起こり、その結果、吐合納めが細長納めにかわり、細長は三重一万石の集荷地となり、上納米は牛馬で転送され、雑穀、竹木材、薪炭等は小舟で吐合に運ばれるようになった。かくして細長は三重郷の玄関として繁栄した。

細長港の位置と記念碑(細長繁栄記)

三重町につながる
細長港へ
山間を下る
記念碑(細長繁栄記)

この「細長繁栄記」によると、明治6年に旧臼杵藩領深野村の山内甚平・三浦歌吉・藤田円平らが、細長から犬飼までの大野川浚疏工事を発起。同7年には工事に着手、同9年3月に完成。この工事の完成により、細長には三重郷から多くの物資が集まり、人々が移住し繁栄したと言われています。その後、大正6年の犬飼駅開通や細長橋の建設に伴い、交通体系が変わったことから大野川通船は徐々に衰退していったと言われています。

細長港付近
細長港付近
細長港上流200mにある細長橋 旧326号線に使用されていた。

犬飼港ができるまでの鶴の瀬の港

鶴の瀬港は現在の大野川発電所より700mほど上流にあったと思われます。
当初は中川氏が岡藩に入ったころはここ鶴の瀬を船着き場としていましたが、参勤交代等で交通が頻繁となり物資の集散が盛んになると、それに対応できなくなり、新しく犬飼港を開港しそちらに移していきました。

ではどうして鶴の瀬港ができたのでしょうか。以前アップした<👉犬飼港から三佐港へ>にそのいきさつを書きましたが、そこから一部引用してみようと思います。

<肥後藩は肥後街道を利用して大津、阿蘇、久住、野津原を通り、鶴崎から江戸に向かっていました。その野津原の今市石畳がその跡を残しています。
そしてまた、竹田の岡藩(中川氏)も当初はこのルートを利用して萩原の今津留村の沖の浜港から大阪へ、そして陸路江戸に向かっていました。
しかし1623年、岡藩は幕府から萩原を三佐・海原村と領地替えされます。> その理由は<犬飼港から三佐港へ>をお読みください。

鶴の瀬港の位置、犬飼港、までのルートを犬飼支所の職員、犬飼港の上にあった浄流寺の住職などに聞きながら二日間にわたり参勤交代時の通路を探してみました。

岡藩が萩原から三佐に替地された年1623年ごろから田原村の鶴の瀬港(現在はこの地名が残っておらず市の職員の話ではこの地図当たりだったのではないかと言われています)が三佐までの着舩場として使用されていました。
このルートは岡藩竹田から朝地、大野を通り、大迫地区で鶴の瀬ルートと犬飼ルートに分かれています。
替地された1623年からは鶴の瀬港を使用していましたが、その間に犬飼を開発し1656年、御蔵所、岡藩の役所を設けていきます。また、岡藩主の宿泊所であるお茶屋が1662年に建てられ、完全に鶴の瀬港から犬飼港に移っていったのです。1632年から30数年の利用に過ぎなかったためか、その跡らしきものも無く、また地元の人にもそういう歴史があったということがほとんど知られていないようです。

大野川発電所より700mほど上流に鶴の瀬港があったという
鶴の瀬港付近

犬飼にあった岡藩(中川家)の犬飼港

岡藩、萩原から三佐に移転 <犬飼港から三佐港へ から抜粋>

先に書いたように、岡藩は鶴の瀬港から犬飼港へ船着き場を移動していきました。そして犬飼港から参勤交代の船が出ていきました。岡藩の藩船は30艇ほどあり、下りのみに使用したようです。下りは簡単ですが、上りは大変だったため、参勤交代の帰りは肥後街道を通り陸路で竹田に戻っていました。
また、藩船のほか、炭や蒔、米穀を運ぶ民間の船(20隻)もあり三佐や鶴崎、乙津港へ運んでいました。

犬飼漁港

犬飼漁港(荷上場石畳)

下記の写真の草の生えている部分が昔の荷上場の石畳です。

<船着き場が萩原から三佐に移ったことから、岡藩の交通路が大きく変わっていきます。
これまでは先に書いたように肥後街道を使って萩原の船着き場に向かっていましたが、三佐に船着き場が移ってからは城内から陸路で大野郡を通り犬飼まで向かい、犬飼からは三佐までを大野川を下っていきました。
岡藩中川氏は三佐港と同時に犬飼町の建設も行いました。
明暦年間(1655年~1660年)のころに岡藩によって犬飼から下流の大野川の整備が26㎞にわたって行われたとあります。犬飼から三佐までが25㎞ほどのため、犬飼から三佐までの船のルートの整備がされたということでしょう。
このことにより、多くの物資を三佐まで船で運べるようになりました。臼杵藩も三重の物資(煙草や年貢米)をこのルートを利用しています。
 犬飼の発着は当初、犬飼の上流の田原(鶴の瀬)でしたが、1656年に犬飼に岡藩の御蔵が建てられ、町屋ができ始め、船着き場も犬飼に移っていきます。又、1662年に御茶屋ができ、御蔵も増築されたころから犬飼、三佐間の大野川通船が本格的に盛んになっていきます。
この河川交通が最も盛んだったのが明治の初めごろで16の舟問屋と135の運船があったといわれています。
 しかし、大正六年(1917年)に豊肥線鉄道ができ、川舟交通は終わってしまいます。>

犬飼港については先にアップした<犬飼港から三佐港へ>をご覧ください。

<👉犬飼港から三佐港へ

次回は 第5回 最終章になります。やっと別府湾、鶴﨑に大野川はたどり着きます。