👉大分市東部(旧鶴崎市・鶴崎地区を中心に)

👉大分を歩く

GWを利用して豊後街道(肥後街道)を歩いてみようと計画をしました。この街道は熊本から見れば肥後街道ですが大分から見れば豊後街道です。熊本からみると豊後の鶴崎に向かうので豊後街道、鶴﨑から見ると肥後に向かうので肥後街道とするそうなので今回は肥後街道とします。
肥後街道は加藤清正が天正16年(1588年)に初めて肥後国に入国した際に通った道とされ、後に清正によって拡張され肥後国と豊後国との間の主要な街道となりました。
肥後街道は熊本から鶴崎までの124km(31里)の街道です。当時この街道を熊本藩の飛び地(久住、野津原、鶴崎)を通り4泊5日かかったそうです。また鶴崎港からは海路で瀬戸内海を通って大坂に向かい、それからは陸路で東海道を江戸に向かいました。熊本から江戸までの所要日数は早くて27日、悪天候になると55日かかったといわれています。
 

1・参勤交代路としての肥後街道
TURUSAKI hisutory guide board (大分市教育委員会 鶴崎公小学校南側の説明看板)より 

鶴崎高校と鶴崎小学校の間に「肥後街道 海舟・竜馬思索の道」という
看板が立っており、その近くに、肥後街道や御茶屋の説明看板もあります。
参勤交代行列絵図(剣八幡宮所蔵)
新堀公園の参勤交代時船着き場の説明看板より


ふるさとの歴史教室 第12集 参勤交代と波奈之丸」
大分にいると熊本藩は参勤交代時、鶴崎港からのみ江戸に向かったと思われますが、「ふるさとの歴史教室 第12集 参勤交代と波奈之丸」によると、実際は熊本から熊本の山鹿を経由し小倉から船で出るコースと、鶴崎港から出る二つのコースがありました。しかし、その場合でも鶴崎からの波奈之丸など数十隻が小倉に回送したそうです。
また、参勤交代時陸路の場合700人から800人、多い時には1000人を超すこともあったそうです。また、海路の場合は御座船波奈之丸ほかに70艘前後の船団がいっしょに行動したそうです。

2・参勤交代大阪からの帰途 鶴崎港へ入港

江戸を出た熊本藩の参勤交代は東海道を通り大阪へ、それから瀬戸内海を経て鶴崎港に入港します。

2-1【波奈之丸】御座船

👉波奈之丸と首藤家

熊本博物館に展示された波奈之丸 博物館案内より

波奈之丸は熊本藩の領主が乗っていた御座船です。
波奈之丸は明治維新後、細川家から買い上げ首藤家の南側の土地の一部におかれていたのですが、維持管理もあり細川家へ戻しました。
そして熊本城に展示されていたのですが、熊本地震の後熊本博物館に展示されています。

「熊本博物館 案内」〈国指定重要文化財 細川家舟屋形〉

御座船「波奈之丸」は、肥後54万石藩主細川家の参勤交代のために造られた船です。この舟屋形は波奈之丸の中央部にあたる所で、藩主の居間である「御座の間」と「次の間」「御茶風呂」の三室及び二階をもっています。この船は波奈之丸7代目にあたり、1840年建造、明治4年(1871年)廃船となりました。鶴崎の首藤家の尽力で舟屋形が保存され、大正10年(1921年)細川家に移されたものです。その後、熊本の細川邸内に置かれていましたが、昭和38年(1963年)ここに移されました。室内は藩の絵師福田太華の手になる襖絵にかこまれ、天井は171種もの草花や果実の絵で飾られた格天井(ごうてんじょう)で、ことのほか豪華です。7日から10日に及ぶ船旅を慰めたことでしょう

2-2 入港の様子

鶴崎の劔八幡宮.には熊本藩の参勤交代の専用船 「波奈之丸」が鶴崎入港する様子が描かれた「熊本藩船鶴崎入港船絵馬」が奉納されています。

鶴崎ー剣八幡宮  〈絵馬が境内に掲示されている 右〉

劔八幡社は加藤家のあとに肥後藩主となった細川公による創建で、社紋も細川家の九曜紋を使用しています。

      熊本藩船鶴崎入港. 船絵馬 大分市剣八幡宮所蔵
 細川氏御座船鶴崎入港絵図 
                                〈大分市歴史資料館所蔵〉

2-2 入港の場所は 〈熊本藩主参勤交代時船着場〉

新堀公園の参勤交代時の船着場跡


船着場と鶴崎川(前川)との位置図

新堀公園には参勤交代時舟着場跡の石碑とその説明の看板が設置されていました。その図をもとに現在の地図に落としてみました。

鶴崎川は



参勤交代時船着場周辺図

維新前鶴崎町全景図〈鶴崎 得丸家所蔵〉


船着き場周辺と現在地図の比較

空色に薄く塗った部分が鶴崎川(前川)の予想位置です。

鶴崎川の推定経路

鶴崎の新堀公園の一角に、船着場跡の石碑が立てられています。加藤清正は大野川から水を引き旧名に堀川という地名がありますがそこに堀川港を造り船着き場としました。今の東消防署、鶴崎支所辺りになります。
 日豊本線と大野川が交差している辺りに堰を設け、そこから今の鶴崎公園、鶴崎大神宮の北側をとおり、日豊本線と家島方面へ向かう道路との交差点をとおり、住友化学大分工場の方へ進みます。なお、この辺りは、住友化学の工場ができるときに埋められました。そして鶴崎公園辺りも埋められ鶴﨑川は埋められてしまいます。
 

河川の推移状況

この図は新堀公園の船着場跡にあった説明掲示板の図面です。80年の間に大きく変わっています。海側は埋め立てられ河川は幅も大きくなり統合されています。1915年(大正5年)には日豊本線が通っていますが、鶴崎駅は前年の1914年に開通しています。また、住友化学は1937年(昭和12年)に建設着手しているため、1915年時点では住友化学付近は埋められ、鶴崎川(前川)は埋められてしまっているようです。下記に明治36年の地図を参考にのせていますが、その時点ではまた残っていたようです。



新堀公園内船着場説明絵図を参照

鶴崎町の地図(明治36年) 
 
 
                                                                   参照:日本図誌体系(朝倉書店)

熊本藩鶴崎作業所跡と熊本藩御蔵跡

波奈之丸が建造された熊本藩鶴崎作業所跡

👉首藤家と波奈之丸

なお、波奈之丸は始めは中津、そののち熊本の川尻で造られましたが、のちには、熊本藩鶴崎作業所でつくられました。そこでは船の修理や造船が行われ、波菜之丸もここで造られました。その作業所跡の記念碑が鶴崎橋の西側堤防上に建立されています。(下記写真参照) 

熊本藩鶴崎作業所跡
熊本藩の痕跡 熊本藩鶴﨑御倉跡

大分県信用組合鶴崎支店(けんしん)の横に、熊本藩鶴崎御蔵跡があります。集めた年貢がここに蓄えられ船で大阪の方に送られていたのかもしれません。

お茶屋で休憩、宿泊です

熊本(熊本城)から鶴崎まで31里(124km)の終点であった鶴崎は加藤清正によって港町として整備され、また藩主の参勤交代の宿泊所となる御茶屋を建設しました。肥後藩の御茶屋は鶴崎の他に佐賀関、野津原、久住にも設けられ、藩主の宿泊所として使用されました。特に鶴崎は海運や大坂や江戸への参勤交代の往復などに利用されました。また、加藤清正は御茶屋の近くに法心寺(日蓮宗)も建立しました。

※鶴崎小学校の横にお茶屋の説明看板があります。その説明をアップします。

   江戸時代の「鶴崎町」 〈説明看板より〉 
鶴崎町は、江戸時代を通して肥後藩
領で、 参勤交代の経由地となり、藩の
用務船が行き交う港湾都市に発展
しました。 堀川を含む藩の港が設けら
れ、船方根拠地として多くの船を保
有し、船手の武士も多数居住していま
した。町は中心部を東西に縦断する
街道と、これに直交する南北の小路
とで規則的に形づくられていました。
御茶屋を中心とした諸役所や武家屋
敷が置かれた 「鶴崎小路」 と呼ばれる
地域と、その外側に広がる町人町から
なる、 城下町的な景観が見て取れま
す。 宝暦6年(1756) 以降は、 肥後
藩に公認されていた五ヵ町(熊本・八
代・高瀬川尻・高橋) に準ずる 「准町」に
位置づけられました。


旧藩時代御茶屋見取図〈安部光五郎氏所蔵〉

御茶屋の周りは堀で囲れ、一辺は1町(109m)四方あったと言われています。
鶴崎の御旅所は他の熊本藩の久住や野津原とは違って豊後領内の政治・経済・軍事の中心としての重要な役割を担っていました。
明治4年の廃藩置県後は御茶屋の役目は終わり、明治5年御茶屋の中にあった成美館が鶴崎学校へ、そしてのちに鶴崎小学校となります。
また、明治39年には小学校の隣に、私立工業徒弟養成所がたてられ、後に工業学校、中学校、女学校が統合され今大分県立鶴崎高校高校になります。
御茶屋の周囲にある堀は長いこと残っていたようですが、次第に埋められ今日はその姿は見られません。

御茶屋があった鶴崎小学校鶴崎高校

現在の大分県立鶴崎高校、大分市立鶴崎小学校の敷地に御茶屋があったと言われます。
なお、鶴崎城の跡に建てたとも言われていましたが、過去に小学校建て替え時に発掘操作を行った結果、それらしきものが発見されていません。鶴崎城がどこにあったのか、これからの調査が気になるところです。

[鶴崎城について]
現在の大分市立鶴崎小学校・大分県立鶴崎高校の場所には、かつて鶴崎城(つるさきじょう)があったという。
この鶴崎城の城主は吉岡鑑興(よしおかあきおき)妙林尼の夫である。この吉岡家は、当時、豊後一帯を統治していた大友氏の側近の一族で、もともとは父である吉岡長増(よしおかながます)が鶴崎城を築城したといわれている。
(※鶴崎城についてはこれまでは上記の意見が支配的であったが、この地の遺跡調査によりこの地ではなかったのではないかという考えも出ている。)

加藤清正を祀る法心寺

御茶屋の近くには加藤清正が建立した日蓮宗の「雲鶴山 法心寺」があります。加藤清正は日蓮宗を信仰していました。慶長十六年(1611)旧暦6月24日に53歳で亡くなった加藤清正の遺徳を偲んで、毎年新暦の7月23日の夕方から「清正公大祭二十三夜祭」が行われます。加藤清正の跡は加藤忠弘が継ぎます。
なお、加藤氏を引き継いだ細川氏は54万石の熊本藩の領主として、明治4年の廃藩置県まで12代240年続きます。そして鶴崎の御茶屋も続きます。また、多くの偉業を残した加藤清正ですが今形として残るはこの法心寺だけではないでしょうか。

このあたりは大友家から加藤清正へ、そして、加藤家から細川家への流れを書いた「大友氏から熊本藩まで」を読まれると良いと思います。

👉大友氏から熊本藩まで
👉法心寺の二十三夜

さあ、歩き始めます。 御茶屋から出発です。(御茶屋~乙津川渡しまで) L≒1.4km

江戸時代の後期の地図

鶴崎文化研究会が作成した鶴崎町江戸時代後期地図に御茶屋から乙津川渡しまでのルートを入れてみました。
赤の太線 肥後街道推定ルートです。

鶴崎町江戸後期地図 鶴崎文化研究会





現在の地図(御茶屋~乙津川渡しまで) 

点線は推定線です。

国道197号線沿い

御茶屋から出て北進し国道197号線に出ます。それからは国道197号線沿いを歩きます。
少し歩くと、鶴崎校区公民館前に鶴崎の守り神として𠮷岡妙林尼の像が立てられています。

島津の勢いを止めることのできなかった大友軍は、高崎城(高崎山には土塁の跡が残っています)や、宇佐方面に後退していきます。大友宗麟は臼杵に移動していました。しかし、豊臣秀吉が大軍で九州に進出してきたことにより、島津は薩摩に戻っていきました。そして間もなく秀吉に降伏しました。この戦いの後、大友氏は豊後の国のみの支配を許されます。大友宗麟は次の年、隠居先の津久見で58歳の生涯を終えます。
なお、先の府内の戦いのときには、鶴崎地区も戦いに臨んでいます。鶴崎城では大友氏の家来、吉岡氏の妻、妙林尼(みょうりんに  吉岡氏は先に述べた耳川の戦いで戦死し、夫をともらうために出家していた)が、島津氏の16度の攻撃、三カ月間にも及ぶ攻防に耐え、最後は島津との和睦に応じ、全員の生命を保証するということを条件に開城しました。その時には、薩摩と酒を酌み交わしたともいわれています。 (薩摩側も先へ進めないこと、吉岡側も食料が尽きていたことが和睦を勧めたといえる)また、ここには、多くの高田の人が登場してきます。当時、高田は鶴崎城主吉岡氏の配下にあり、徳丸氏、中村氏、向氏等一族の者が多く参加し手柄を立てています。
しかし、妙林尼の戦いは和睦後に続きます。それは………。あとの「寺司地蔵尊」に書いています。

 

          妙林尼像(鶴崎校区公民館前)

乙津川渡し付近

乙津川堤防の近くにある寺司公民館の横に、寺司地蔵尊と乙津川(寺司浜)古戦場跡の石碑が立てられています。

寺司地蔵尊

天正十五年、豊後に侵入した島津軍に対し鶴崎城で篭城した吉岡妙林尼は十六回の攻撃に耐えた末和睦、開城した 。豊臣秀吉が九州征伐にのりだすとの情報に島津軍は撤退を決定、ここで計略をめぐらせた妙林尼は自分も薩摩についていくと見せかけ出発前夜に酒宴を開き、翌朝薩摩に向けて出発した島津軍をここ寺司浜で待ち伏せ散々に打ち負かし白浜重政、伊集院久宣ら大勢を討ち取った。その際の戦死者を千人塚を築いて弔ったが、その後この地に行き倒れや無縁仏が相次ぎ、大火事や疫病まで発生するにいたり、千人塚の上に地蔵尊を奉って供養したところ災厄が収まったと伝えられている。

乙津川(寺司浜)古戦場跡

乙津川の渡しへ

乙津川の渡しはその正確な位置はわかりませんが、一般用の渡しと、参勤交代等のための渡しのあり街道が2つに分かれていたといいます。

手前が乙津川の堤防・前方は鶴崎駅方面   右上が国道197号線

次回(参勤交代路 第二回)は三川から進みます。