「高田村志」について

「高田村志」は大正九年に書かれた高田の歴史、地理、人物等を記した地誌であり歴史書です。「続高田村志」など高田の歴史についての書籍はこの「高田村志」をもとにしており、「高田村志」は高田の歴史のバイブルです。
 この「高田村志」は臼杵市出身の考古学者、久多羅木儀一郎氏(鶴崎地区の多くの歴史書を書かれ郷土史研究に尽力された方です。)、中村壽徳氏小手川又吉氏(の三人で編纂され大正九年6月10日に完成しました。鶴崎地区の小さな村の一つに過ぎなかった高田でこれほどの村志が発刊されたのは県下でも驚くべきものだったのではないでしょうか。

なお、これまで四章までアップしたまま、他のことに気を取られそのままにしていたのですが、また、第五章から始めました。

・今回のアップについて
・「「高田村志」第五章神社」は原文のままアップします。読みにくいと思いますがゆっくりと味わってください。
・※旧字体は気づいた範囲のものは新字体に変えています。
・わかりにくい部分は( )で注釈をかいてみました。
・年号は紀元で書かれているため、西暦に変更しています。

第五章 神社 2・常行神社

常行字井樋ノ口に鎮座する無格社常行神社は、筑前太宰府神社の御分霊を斎(いつ)きまつり(身を清め神をまつる事)、往昔(おうせき 過ぎ去った昔)同所の住人仲摩五兵衛なる者之を勧請(かんじょう 神仏の分霊を請(しょう)じ迎えること)すと傅ふ(つたわる)。社殿は今を距(へだた)る約三百五十年前の元亀の頃(1570年ごろ 信長が戦っていた時代)には、現時字初穂田と称せらるる地にありて、社地一町有余歩(3000坪ほど)、神領十貫匁を有し、社坊(しゃぼう 神社の世話をするために、神社の中、または近くにつくられた寺のこと)として松林寺、 安照寺、 尊長院と称する眞言宗の三僧院ありたりといふ。現時字名権大と呼ばるる地は、当社坊の首腦者たりし権大僧都の邸宅ありしに由来すと伝へらるゝによりて見るも、其の盛観を想察するに足るべし。然るに天正丙戌の兵乱(豊薩合戦 天正14年(1586年)から天正15年(1587年)にかけて行なわれた豊後国の大友氏と、薩摩の島津氏とのあいだの戦争 高田ではほとんどの寺社仏閣が焼失した)によりて災禍を被りてより、爾後(じご その後)祠廟漸く荒廃に向ひたり。
萬治二年(1659年)六月、同所の住民首藤左衛門の所有地(現地の北方)にあり枯死せる一松樹(一本の松ノ木)の梢端(しょうたん 枝の端)に、毎夜星光の如く輝くものあり、杢左衛門怪みて之を檢せしに初穂田に奉祀せる菅公(菅原道真のこと)の尊像なりしかば、大いに恐懼(きょうく 驚きおそれること)して、現今の社地を寄進して社殿を営み、尊像こゝに遷祀したり。仍て(よりて)之より枯木天神と称せらる。
享保元年(1716年江戸中期)六月三日、不幸にして復回禄の災に罹りて(火災にあうこと)、縁起物等に至るまで悉く焼亡せしが、後四十餘年を経て、宝暦の頃(1760年前後)熊本地方の大旱(たいかん 大干ばつ)に際し、当社坊位乗院(「高田めぐり」の編者にして、墓は今首藤長次郎宅の前にあり)藩主の命を受けて雨を祈りしに霊験いやちこ(いやちこ 神仏による効果や御利益が明らかであること、著しいこと)にて直ちに威応(いおうお 影響、効果があること)ありしかば報賽(ほうさい 祈願が成就(じょうじゅ)したお礼)として藩侯より社殿を造営せられたり。
明治三年、常行神社と改称す。