「高田村志」について
「高田村志」は大正九年に書かれた高田の歴史、地理、人物等を記した地誌であり歴史書です。「続高田村志」など高田の歴史についての書籍はこの「高田村志」をもとにしており、「高田村志」は高田の歴史のバイブルです。
この「高田村志」は臼杵市出身の考古学者、久多羅木儀一郎氏(鶴崎地区の多くの歴史書を書かれ郷土史研究に尽力された方です。)、中村壽徳氏、小手川又吉氏(後に公民館長、若葉幼稚園の初代園長、初代高田昭和井路組合長等をされる)の三人で編纂され大正九年6月10日に完成しました。鶴崎地区の小さな村の一つに過ぎなかった高田でこれほどの村志が発刊されたのは県下でも驚くべきものだったのではないでしょうか。
なお、これまで四章までアップしたまま、他のことに気を取られそのままにしていたのですが、また、第五章 神社 から始めようと思います。
・今回のアップについて
・「「高田村志」第五章神社」は原文のままアップします。正月休み、読みにくいと思いますがゆっくりと味わってください。
・※旧字体は気づいた範囲のものは新字体に変えています。
・わかりにくい部分は( )で注釈をかいてみました。
・年号は紀元で書かれているため、西暦に変更しています。
第五章 神社 1・若宮八幡社
郷社宮八幡社は当村の氏神にして、 大字南字鵜ノ鶴に鎮座す。祭神は人皇第十六代仁徳天皇にして、また大物主命、豊受姫命、 水波能賣命の三柱を配祀す(はいし 主祭神のほかに、同じ神社の中に他の神を祭ること )。
当社は相州[相模 (さがみ) 国の異称]鎌倉鶴岡八幡宮の御分霊を勧請 (かんじょう 本祀(し)の社に祀られている神の分霊を迎えて、新しく設けた分祀の社殿に迎え入れて祀ること)せしものにして、建久年中(1190年~1199年)国主大友能直(大友家初代)創建により、当初.は大字丸亀字亀甲に鎮座せり。 建仁元年(1201年 )能直始めて社領(注しゃりょう 神社が所有する領地 )として八百九十七歩(2,965㎡)を寄進せしが、 後應永元年 (1394年 室町南北朝時代) 大友第十一代親世は広く 高田莊全部を以て当社の社領に充てたりといふ。 されば社地社殿等も規模広大にして、現時同所にて馬場と呼ばるる字の如きは、当年若宮社の馬場たりしに由来すと伝えられる。然る(しかる)に大友氏の季世(きせい 末期)薩軍(薩摩軍)当国に乱入するに及び、天正十四年(1584年)にてその兵燹(へいせん 戦争による火災)にかかりて鳥有(うゆう なにも無くなる事)に帰せしが、幸いに神体及び書物及び宝物の一部は燃焼を免るるを得たり。翌十五年小祀を営みしが固(もと)より昔日の観を見るべくもあらず。しかもこの社殿は寛永二年(1624年)九月に至りて大洪水のため流失し、 神体また漂流して大字南字榎ヶ瀬の古木に懸萦す(木などにかかる)。依て同所に仮社殿を営みて暫く(しばらく)奉祀(ほうし おまつり申すこと)することとなりしが、是れ実に亀甲より南に遷座(せんざ 神体や仏像などを別の場所に移すこと)するに至りし始めなり。
寛永六年(1629年) 領主肥後候加藤忠廣(ただひろ)、神殿を現社地鵜ノ鶴に営みてここに遷祀(せんし 神体や仏像などを別の場所に移すこと)し、稍(やや やっと)旧観(きゅうかん もとの姿)に復するを得たり。此の頃にありては、当社は高田手永の宗廟として尊崇せられしが、のち漸漸(ぜんぜん だんだんと)範域縮小して琵琶洲一円の氏神となり、更に正保二年(1645年)に剣八幡社の創建さるるに及び、遂に当村のみの氏神たるに至れり。 正徳三年(1713年)社僧頼鏡坊鉄真 神殿を改築せしが、 社地未だ低して此年洪水の侵害を免れざりしかば、天保十一年(1840年)常行の庄屋首藤理左衛門率先社地築上げを企画し、自ら奔走斡旋大いに力むる(努力する)ところあり。
かくて東西八間南北十八間余りに亘る地域を、高さ一間二合に盛上げ、其の周壁は割石垣を以て畳みし(積み重ねる)が、この工事に要せし人夫総員二千七百余人に及びたりといふ。之と同時に建造物の大拡張をも併せて行い、先づ神殿を改築して新に東向に営み、葺く(ふく 屋根工事)に銅を以てし其の他拝殿、神楽殿、弁財天社、稲荷社、観音堂、鐘樓(しょうろう)、四脚門、玉垣、庫裡等を新築或は修復し、又馬場先参道の曲折せしを直通する等、各方面の工事悉く(ことごとく)竣成して、 神域の面目全く一新せり。
馬塙先櫻樹 詠人不知
咲きみつる花の色香をそのままに
たむけ のぬさも神や見るらむ
かく輪奐(りんかん 宮殿や社寺などの建物が広大で壮麗であること)を呈したる社殿も爾後(じご その後)わずかに.十有五年を経るに過ぎずして、安政元年の大地震に際会して頽敗(たいはい 崩れ荒れること)せし以来、修理漸く懈怠(けたい 怠る事)し、加ふるに明治新維後神仏混淆を禁ぜられるに及び
※神仏混淆(しんぶつこんこう) 神道と仏教の信仰を融合・調和させ、神と仏を同一視する思想や宗教現象を指す
するに及び、佛寺に属する堂舎は移転或は毀却(ききゃく こわしやぶること)せしを見て、復昔日の観を見るに由なきに至る。而して現今の神は明治二十三年六月に、拝殿は同四十年三月に新築せしものにて、その神楽殿、社務所等よく整備さり。
当社の祭日は、もと旧暦二月十五日、六月二十八日、九月十二日の年三度なりしが、現今は秋二季即ち二月十五日と十月十二日の両度とせり。 春季の祭礼は所謂(いわゆる)神幸祭(じんこうさい)にして、例年山車引きの神事あり。神幸場は、草創当時は鶴瀬字鐙河原なりしが、後丸亀字亀甲の閼伽池畔に変更となり、更に又字上徳丸西海寺河原に移れり。而も何れの頃よりか神幸の義中絶して、久しく其の盛儀を見るに由なかりき。されば天保十一年当社の大改築に尽瘁(じんすい 力を尽くし、倒れるほどに苦労すること)し首藤利左衛門大いに之を遺憾とし、同十三年六月廿八日の祭典に当たり久々にて復興し、西海寺河原に御幸の儀を行ふ。然れども当時にありては未だ表面上挙式を許されざりしを以て、夜間之を行い居たり。其の後十年を經て嘉永六年に至り、正式に許可ありしかば、是より日中に執行すること となりたり。かくて明治七年に至り四たび神幸場を變更して常行中洲河原に改め、爾後(じご その後)稍々(しょうしょう 徐々に。 次第に)久しく渝る(変わる、代わる)ことなかりしが、近年また之を改め中州河原と西海寺河原とを隔年交替に神幸場と為すこととしたり。 又秋季の祭典はもと例祭たるに過ぎざりしが、明治四十一年三月三十一日神饌幣帛料供進神社に指定せらるに及び、最も重なる祭礼となり、十月十二日の祭日には毎年郡より供進使の参向あり。
※神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ)郷社、村社を対象に明治 から終戦に至るまで勅令に基づき県令をもって県知事から、祈年祭、新嘗祭、例祭に神饌幣帛料 を供進された神社
供進使 (きょうしんし) 官国幣社および府県社などの新年祭・新嘗祭・例祭に幣帛をささげる使
次回は「常行神社」です。