👉高田周辺の渡し
※川添地区の歴史マップに新旧の渡しが記載されていたので
新旧種具の渡しを採用しました。
高田の渡しを更新するにあたり
ことしの盆を利用し高田の道路の変遷を調べようとしました。しかしその過去の道路経路を調べているうちに「渡し」を避けて通れないことがわかってきました。
すべての道はローマーに通ず(all roads lead to rome)ではないですが、輪中の高田は乙津川、大野川にはさまれ、どういう経路を通ろうとも最後には渡しに行きつくのです。
過去に「臼杵街道(岩舟(舟戸)の渡しから金谷の渡しへ」 や 「高田の渡し・金谷の渡し」をアップしてきましたが、この機会にもう少し内容を再検討してみようと思います。
1・高田の五つの渡し
高田には上記の五の渡しがあり、松岡にはソニーセミコンダクタ(旧東芝)の裏の大野川あたりに、「舩場の渡し」(明治の横尾方面から)、上流の船本には「船本の渡し」があり、戸次方面への渡しとなっていました。
高田のこの範囲で五つは多いのではないか、と疑問を感じます。確かに多い方が対岸に行くには楽ですが渡し場を維持管理することは大変だと思います。
思うに、渡し場があった時期は必ずしも、五つが同じ時期ではなかったのではと思います。また、橋の目的が行先によっても分けられていたのでは、と考えます。
ここで調べて分かっている限りの渡しの歴史を見てみたいと思います。
高田の渡しの一覧表
※1 下記の「高田村志」及び「高田風土記」を参照
※2「大正十三年九月高田橋の開通式があった」 (高田ふるさと講座年表)*当時の高田村長、岡松準平氏 (1865-1933) の尽力による。
①・乙津川の渡し
乙津川を考えるときにいくつかの疑問点があります。
昔の乙津川と今の乙津川の違い (かっては大野川の本流だった。)
乙津川は勝手は大野川の本流であったと高田風土記に書かれています。船の運航も乙津川で行われており、今では信じられません。しかし、「高田村志」を読んでみるとかっての様子が見えてきます。 「高田村志」を見てみます。
大野川の今昔〈「高田村志」を読む 第一章総説 2・大野川の今昔〉大正六年著 から抜粋
👉《高田村志を読む》 第一章 総説 (総説 4ー2地勢 2・大野川の今昔)
なお、「高田村志」は「高田風土記」を参照しているので「高田風土記」もアップしておきます。
なお、「高田風土記」は文語体のためわかりやすく書き換えてみました。
👉「高田風土記」南村
要約 ①江戸時代の初期においては現在と逆で西川(乙津川)が主流で舟運の便は西川(乙津川)で行われていた。
②その当時は今の南の銀行跡地あたりまで船が出入りできるようになっていた。
③②の掘に橋が架かっていたので今日(大正6年当時)そのあたりを「橋の本」と呼んでいる。
本文(一部省略)
高田村の東を流れる大野川、西を流れる乙津川はいうまでもなく東が本流にして、旧藩時代にはこれを本川または白嵩川と称し、西はこの川の支流なれば、裏川または西川と称した。しかし口碑(言い伝え)によれば、今をさかのぼることに284年前、すなわち寛永(1622年~1644年 江戸時代初期)以前においては、この本流支流の関係は今日と全く相違し、東が支流、西が本流だったため、船運の便は、一に西川によって営まれていた。(乙津川(西川)が本流であった)
尤もこれより50年さかのぼる天正(1573年から1592年)以前においては、その水利は今日とは一層趣を異にしていたと伝えられている。このことは当高田村と関係深いことである。
現時点で西川が本流だった時代の名残りとして伝えられるものが2、3ある。その一つは大字南に貫通する堀にして、この堀は今日では僅(わずか)に排水の用をなすに過ぎないが、その時代では幅員も広く船舫(ふなもやい 船の係留)の出入りもできたのである。
それで本川を上下する河船で本村に寄泊するものはいずれもこの堀を遡行(そこう 流れをさかのぼっていくこと)して、今の首藤寶吉の裏あたりまで入り来てここに茂っていた大榎(この榎は近年まで生存していたが89年前までに切り倒されたという)に纜(ともづな)を係留することを常としていた。
またこのような堀だったので上には橋の架設もあって、人馬の通行の便になっていた。今日この付近を「橋の本」と称するは実にこれに基づくものという。
次は同じくこの南に「舟戸」という所がある。これは昔高田村より明治村の岩船を経て、大分方面へ至る往復の渡し場だった地で、船戸は船渡たるより出て、渡しを業とするもの、多く住んでいたことから起きた名であると。(渡しについて)
今一つは大字常行に、俗に「ハヅウダ」と称する小字があった。「ハヅウダ」は初穂田が訛ったもので、初めは常行天神の鎮座があったところだと伝えられている。
當時西川は夏秋の変わり目時期において、氾濫するのが殆んど恒例となり、常行村は常にその被害を免がれることができなかったが、或る年殊に甚しき災害を蒙る(こうむる)ことがあった。よって村民は、何とかしてこの年の水害を免がれんものと、一村協議の末、初穂田の地に鎮座せる天神社を、西川通り字井樋ノ口にうつして、水害除災の鎮守とし、旧地は之を初穂用地として同社に寄進し、以てひたすら神處の加護を祈願する。ところが翌年より水理が一変し、従来常行方面を通っていた西川の流れが、対岸中島方面を流れるようになったという。
以上説くところの諸説は何れも口伝えに過ぎないが、全くこじつけともいえないようだ。即ちこれら橋の本、船戸、初穂田等の、水量多かるべき本川に關係を有する地名が、今日水流満々たる大野川筋に無くて、かえって水涸れの乙津川筋に有ることは、その昔のその時において本流だったことを暗に説明しているとは言えないだろうか。記して後進の学者に供するものである。
《高田の歴史》〈「高田風土記」を読む(その5) 南村 〉から抜粋
要約 ① 南村には岩船というところに渡しがあり、それを「榎ヶ瀬」の渡しといった。
② 船は村で資金を出し合って造っている。
③ 鶴崎から犬飼への街道が通っている。
➃ 「榎ヶ瀬」の渡しから「百堂の渡し」へつながる街道が通っている。[臼杵街道]
鶴崎御茶屋から南にあたり、関門を通って三十丁程隔たっている。
この村から臼杵領横尾の岩船と云うところに、舟渡しがある。それを「榎ヶ瀬」の渡しと云う(川幅は凡そ、三十間程ある。)
馬船は一艘あって、船守三人で往来の人や馬を渡している。船は村でお金を出し合って作っている。村の西側畑の中
を通る、鶴崎から犬飼への街道が通っている。また榎ヶ瀬から百堂の渡し場へ通る街道が通っている。 〔この街道は府内
から臼杵への街道でもある。]
乙津川(舟渡の渡し)の変遷
乙津川は大野川の本線
上記のように乙津川は江戸時代初期には大野川の本流で船が行き来する川であったとあります。
(かっての岡藩が参勤交代時に犬飼港から三佐港までをこの乙津川を使っていました。)
また明治初期、首藤家が細川藩の御用船「波奈之丸」を購入し鶴崎の港から乙津川沿いの常行まで運搬したのもこの乙津川です。
度重なる洪水により乙津川の川底が大野川より高くなる
しかし昭和20、30年代初めを知っている人は乙津川を歩いて別保に渡っていたということと矛盾があるのではないか、と疑問も感じます。
私個人の考えですが、何度も繰り返された洪水により乙津川が埋められていき大野川の川底よりより乙津川の川底が高くなってしまったのではと思います。そのため常時乙津川側に流れる水が少なくなり、石を敷き並べたり、木製の仮橋程度でも渡れたのではないかと思います。
大正14年に木製の橋がかけられますが、何度か流されているようです。
洪水対策として大津留に溢流堤を設け洪水時の水を分流する。
これらの工事の発端になったのも昭和18年の大水害(もちろんこれまでの度重なる水害もあると思いますが)を機に本格的に水害対策を考えるようになり、大津留に大野川の溢流提を建設するようになります。それに伴い、堤防のかさ上げ、堤防の延長、そして、橋の建設と続いてていったのではないでしょうか。
輪中の高田を挟む両河川に正式な橋が架かったのは昭和30年代になってからです。(それまでにも高田橋については沈み橋や木製の橋や仮橋はあったようです。ただ、本格的な橋ではなかったため、洪水のたびに流されたようです。
川添橋完成 昭和32年(1957年) ……幅5.5m 延長274m
高田橋完成 昭和33年(1958年) ……幅5.5m 延長192m (橋歴版には竣工昭和31年と書かれていました)
軌をいつにするかのように昭和37年(1962年) 乙津川分岐の溢流提が完成しています。
また高田橋より下流には堤防がなかったと言われていますが、それらの工事に合わせ高田橋付近までしかなかった堤防を下流に建設していきます。
当時(昭和30年ごろ)を知っている人の話では、高田橋上流や神社の御旅所あたりには土砂が高く積み上げられ、その土砂をトロッコで運び堤防を盛っていたそうです。
その後
現在、国土交通省では乙津現在、野川の洪水時の水の流れをよくするために河川の浚渫や樹木の伐採を行っています。
また、昭和18年に大水害で決壊した堤防付近は法面ブロックによる堤防法面の保護や鋼矢板による基礎部分の保護などの工事が行われています。
また、川添橋からまっすぐに新たに道路ができた時に川添橋が新しくつくられました。
川添橋 完成 平成元年(1989年) ……幅 延長
「渡し舟」と「橋」について
高田橋
高田橋周辺は江戸時代など、水の多い時期は渡しを利用していたようですが、乙津川の水位が低くなってからは渡しや、木の橋、 沈み橋が利用されていたようです。常行の人の話では水位が低く歩いて渡っていたようです。
そして、本格的な橋として当時の岡松準平村長の尽力により大正十三年九月高田橋が開通したとあります。(昭和18年の洪水で流失しました。)
「高田ふるさと講座」に常行の仲摩富美さんが次のように寄稿しています。
*(昭和初期の状況について回想) (高田ふるさと講座仲摩富美さん )
「裏川にも船戸の渡しがありましたが、 森村に行くのには主に関戸の下の橋と橋本の橋を利用しました。 関戸の下の板橋は増水時には流れぬよう外して保管し、水位が下がるとまた仮設されました。
また、現代の高田橋より少し下流に架けた橋本橋は石橋(沈み橋)で、十八年の洪水で前の高田橋(大正末期頃架橋) はコンクリートで流失しましたが、 石橋は流されずに残っていました」
昭和20年初期を知る人の話では高田橋あたりから乙津川へ行き石か木でできた簡単な渡場を歩いて渡っていたそうです。また、そこには焼き場もあったそうです。渡った人は森町の若宮八幡社の神社方面に向かって歩き別保へ行っていたそうです。
洪水のたびに流されたりしながらも、昭和20年代から30年代初期の溢流堤工事・乙津川改修に伴い高田橋も本格的な橋がかけられます。
■昭和三十三年 (1958) 五月十五日竣工、上部鉄板下部井筒橋 (続高田村志)。(橋歴版には竣工昭和31年と書かれていました)
■昭和五十一年二月高田橋歩道橋ができる。
高田橋周辺の乙津川の流形と堤防の位置の変遷
溢流堤、及び乙津川の河川改修工事に伴う堤防と乙津川の流れの変遷を工事前の昭和5年と現在の様子を地図で比較してみました。
高田橋周辺の乙津川の流形と堤防の位置
(昭和23年と昭和63年の比較)
考察
左が昭和23年、そのころまでは高田橋付近から図面のように現在の常行の川の上地区を蛇行しています。(川の上にできた地ということで川の上というのかもしれません。)
しかし、この後、大津留の溢流堤の作成計画と同時に始まった大野川改修工事によって、岩船から乙津川の下流に向かって直線でつながれます。そして蛇行していた地域は現在の若宮八幡社の御旅所の地になっています。
また、古い堤防は若宮八幡社あたりから今のグラウンド辺りにありましたが、新しい堤防は高田側に移動してつくられました。また高田橋までだった堤防も鶴崎方面まで延長されました。
南自治会の人の話を聞くと旧堤防と新しくできた堤防の間には人家が数件あり工事により移転をしたそうです。
そしてその時にできたのが現在の高田橋です。(川添橋は昭和の末に新しく建設されましたが高田橋は70年近くになります。)
1・[堂園の渡し]
鶴崎から上徳丸への街道が現在の大野川堤防側(橙色の道路)に通っていましたが、鶴崎側の堤防(黄緑)時期ははっきりしませんが昭和初期から昭和10年代にかけて堤防工事が行われました。鶴崎から堂園まで伸びている堤防 △a と関門の端まで伸びている堤防△bを結ぶ堤防工事が昭和の10年代ごろに行われたため、既設の街道は埋められ堂園の渡しは昭和6年に廃止になりました。
2・[百堂の渡し]
👉《高田の歴史》「高田風土記」を読む(その4) 関門村 [舟及び街道]
*(大正期の百堂の渡しについての回想) (高田ふるさと講座より )
(大正期の百堂の渡しについて回想)
百堂渡し船の権利は関門村が持っていたが、 百堂村の人に権利を委任していた。関門村の人は何回渡船しても無料であった。 ただし、関門区から年二斗の荒麦を中時に百堂の船頭に渡していた。 船頭の収入は、 関門区民以外の人から渡船料として大人二銭、 小人一銭 (大正時代)を徴収していた。
なお、当時の対岸先の種具村と迫村は現在では川添ですが、当時は熊本藩で関門村と同じ藩でした。また、当時は明治も川添も大半は臼杵藩でした。
地元の人の話では種具の渡しは途中で木の橋がかけられたことがあるが1年で洪水で流されたそうです。
そして昭和二十七年、百堂の渡しは仮設橋完成のため廃止されました。
百堂の渡しについては新、旧がありますが、はっきりはしません。明治36年の地図には出ていません。
金谷の渡しと種具の渡しができたことにより、旧種具の渡しが廃止されていったのではないでしょうか。
3・[金谷の渡し]
大正十四年県営となって渡し料は無料。 これは続「高田村志」によると高田村長 岡松準平氏の尽力によるそうです。しかし 昭和三十二年川添橋完成により廃止となります。
そして昭和32年に念願の橋が完成します。
【 川添橋】
■昭和三十二年三月。 鋼板合成桁橋完成。
■平成元年九月、新川添橋竣工。 (現在の橋 平成6年現在)です。
※参考 👉高田の渡し(新百堂の渡し・金の手の渡し)
第二部 肥後街道を歩く (岩舟(舟戸)の渡し から 金谷の渡しへ)
(岩舟(船戸)の渡し
明治村から高田村への渡しは旧岩舟八幡宮あたりから河川側に下ったところにあったと思います。具体的な位置は不明です。横尾側は岩舟、南側には船戸とそれぞれ、船に関する名前がついていることは渡し舟の運行箇所だったことの現れでしょう。
岩舟の渡しは、旧岩舟八幡宮あたりから川側におり渡し場まで歩いていたようです。
[※ 旧岩舟八幡宮]
大分市大字横尾字岩舟にあって岩舟八幡宮と称していましたが、乙津川の河川改修に伴い、昭和40年森町の若宮八幡宮と一緒になったそうです。なお、岩舟樋管の横の高台にある旧岩舟八幡宮の跡地には今も石塔などが残っています。
渡し付近
岩船の渡し位置は河川改修工事等により正確な位置は今のところ把握できていません。
詳細な位置はまだ不明のため、付近の写真を載せておきます。
高田若宮八幡社周り
高田若宮八幡社の南側を歩きます。ここで参拝したり休憩をしたのでしょう。
第一の道標
この道標で臼杵街道(金谷経由臼杵)方面と熊本(戸次、犬飼)方面との分岐点、今の道標は明治初期にできたと言われています。
農地の方に進みます(川崎氏宅南側)
鶴瀬の集落に入る手前の川崎氏宅南側を左折し、またすぐに右折します。そうするとビニールハウスの一群が現れます。ここを東に向かって丸亀まで進みます。
東へ進みます
温室が立ち並ぶ中を東へ進みます。下徳丸・大津留線を横断し、下徳丸から丸亀・閼伽池への道路と交差します。そこを閼伽池方面に進み中村漬物店の北側の道へ入ります。
亀甲から上徳丸へ
中村漬物店の北側の道を東側に進み、能仁寺と上徳丸公民館・上徳丸天満社の間を通り、突き当りの会所跡を右折します。
上徳丸道標
上徳丸の道標を左に曲がり大野川の渡しに向かいます。
金谷の渡し
金谷の渡しは金谷の七輪のまちづくりが金谷の渡しの標柱を立て堤防上から下までがコンクリート舗装されています。
渡しについては過去アップした高田の渡しがあるのでそれを参考にしてください。
岩舟渡しから金谷渡しまでの臼杵街道のルートを記しましたが、時がたっていること、宅造や農地の区画整理等で変わっていると思います。一つの参考ルートとしてみていただきたいと思います。
また、当時の主要道路はこの臼杵街道とともに、常行側と関門側の鶴崎方面への2つのルートがありました。後日アップしたいと思います。
(堂園から下徳丸の直線ルートは後につくられたものだとおもわれます。)