再編集  2024年7月26日

〈高田の歴史〉会所で以前〈2023年2月27日〉アップしましたが、《高田の歴史》高田会所と惣庄屋のタイトルで再編集しました。
                      

手永、会所、惣庄屋の流れを簡略に説明をします。


高田会所は上徳丸神社前の石垣に囲まれた区画に建てられていました。現在は別府駅の近くに移転されています。〈詳細は歴史散歩16に記載〉
👉【歴史散歩 16】 高田会所・岡松甕谷生誕の地

<当HP 高田の歴史 の前文から抜粋>

熊本藩は行政の中心として肥後領内に手永をもうけました。手永とは熊本藩が藩内の行政区として管内を五十三手永に区画し、各手永御代官兼御惣庄屋を置いて手永内のおける一切の民生を行わせていました。
大分では九重、野津原、谷村、高田、関の五か所の手永がありました。(熊本藩の参勤交代の通路にあたると思います )高田手永は現在の高田ではなく、わかりやすく言えば昔の鶴崎市ほどの広い地区でした。そして<高田会所>はその民生の執務所でした。会所の長を御代官兼御惣庄屋といいます。そしてそれが設けられていたのが高田の上徳丸にある高田会所です。

熊本藩の高田手永になるまで

高田が熊本藩領の高田手永になる過程を復習してみたいと思います。
1600年(慶長5年)関ケ原の戦い
1603年(慶長8年)江戸幕府ができる。

1600年に加藤清正は豊臣秀吉に熊本の北部の領土を与えられていましたが、関ケ原の戦いで西側についた小西行長が斬首、改易されたため、小西行長が治めていた熊本の南部の領土と一体となり、52万石の熊本藩ができます。
この時に、加藤清正の要望により豊後の国鶴崎も加えられます。この時から高田は熊本藩になります。
しかし、2代目加藤忠広の代になり、加藤忠広は1632年に改易されてしまいます。

この詳細は当HP高田の歴史第4回 「加藤家から細川家」を見てください。  👉高田の歴史 

加藤忠広の後に、豊前小倉藩主だった細川忠利が新しい藩主となり、明治4年の廃藩置県まで細川家54万石の熊本藩が続きます。
新しく藩主になった細川家は小倉藩で採用していた手永(てなが)制という行政制度を導入します。
前置きが長くなりましたが、高田は熊本藩の高田手永として行政が行われました。そしてその集会所が高田会所、そしてその長が惣庄屋(そうじょうや)です。
なお、高田村志によれば高田会所は「当手永における民政の執務所にして当初以来本村内に設置せられたり。蓋し我が高田は地理上当手永の中央に位するを以てなるべし。」
また、鶴崎町史によれば、会所の長は惣庄屋であって多くは代官の職を兼務していたので「御代官兼御惣庄屋」と呼ばれていました。

豊後国の手永の詳細    ※宝暦期(1751~1763 江戸時代中期)

豊後国
手永名久住野津原高田関(佐賀関)
石高54833891380057587677
村数1514122225
手永会所久住町野津原町上徳村関町

高田風土記による高田手永

時期にもよりますが高田風土記によれば高田手永の村数は24村になっています。当時の村名と現在の地名と対比してみたいと思います。

高田村志を参照  「高田村志」が書かれた大正時代の現町村名になります。
                           (24村)

村名現町村名
鶴崎村大分郡鶴崎町
寺司村
国宗村
故中島
志村北海部郡大在村の内
鶴村北海部郡川添村の内
迫村
堂園村大分郡高田村
関門村
常行村
南村
鵜猟ガ瀬村
上徳丸村
下徳丸村
亀甲村
門前村大分郡戸次村の内
冬田村大分郡竹中村
竹中村
岩上村
伊予床村
高城村
中野村
中無禮村
弓立村

高田手永の機構と歴代惣庄屋

高田手永の民政機構

豊後鶴崎町史 「第48章 高田手永の民政機構」から高田手永部分を引用

高田会所には、惣庄屋の下に、手代一人、下代四人、小頭三人、詰夫走番若干人がいた。手代は根締手代ともいい、後には上根締手代、根締手代の二人が置かれ、また小頭も後に分かれて一人は加人小頭というようになった。
その各俸禄は宝暦十三年の通達によると、惣庄屋百石、手代九石、下代七石、小頭六石、加入小頭三石という規定であった。
惣庄屋の配下に、村々には各庄屋、辨差べさし、山之口という諸役人があった。庄屋はまづ今日の村長の如きものでその職務としては
・租税を徴集すること
・村民を代表し、且これを保護すること。
・官の命令布達を人民に配布すること
・農事を奨励し、殖産を振興すること
・道路、堤防等の土木を管掌すること
・法禁の宗教をちょうさすること
・郡代、惣庄屋等の命令を奉じて之を執行すること
等を主なるものとした。

弁差は、他藩でいう小庄屋のことで一庄屋の下に一、二者宛あり、その職務は今の役場の助役に書記を兼ねたようなものであった。
山之口は、山林や藪林に関する事務を主管したものである。
この他、村内の風俗、非違らを検察する横目という役人もあった。

江戸時代(1633年~1870年)  惣庄屋氏名
番 号岡松家 氏     名    期     間


高田(藍澤)市左衛門

寛永十年(1633)~万治元年(1658)


高田(筒井)半右衛門

万治元年(1658) 八月~延宝六年(1678)3月

 ③ 

高田(筒井)半右衛門

延宝六年(1678)3月~元禄11年(1698)2月

筒井半輔(助)
元禄11年(1698)2月 ~享保7年(1722)
 ⑤ 
高田(片山)伝左衛門
享保7年(1722) ~享保12年(1727)
 ⑥ 高田(片山)弥三右衛門
享保12年(1727) ~宝暦7年(1757)
岡松作右衛門(真勝)
宝暦7年(1757) ~宝暦13年(1763)6月
 ⑧ 岡松数右衛門
宝暦13年(1763)6月 ~寛政11年(1799)4月
岡松作右衛門(勝亮)
寛政11年(1799)4月 ~文化3年(1806)3月
岡松貞之允
文化3年(1806)3月 ~文政5年(1822)2月
 ⑪ 岡松角野進
文政5年(1822)2月 ~文政7年(1824)12月
岡松数右衛門(真友)
文政8年(1825)3月~天保7年(1836)3月
岡松宰助
天保7年(1836)3月 ~天保10年(1839)3月
 ⑭ 岡松俊介
天保10年(1839)3月 ~明治3年(1870)1月
野田敬之 允
明治3年(1870)1月 ~ 明治3年(1870)2月
 ⑯ 郡野一兵衛
明治3年(1870 ~ 明治3年7月

岡松家と岡松甕谷

岡松家と高田三哲の岡松甕谷の関係です。岡松家は第6代岡松数右衛門から明治まで8代続いて惣庄屋を続けます。
岡松甕谷はその6代数右衛門の次男として生まれます。

明治以降の高田の流れ

(その1)で明治維新後の高田が熊本藩(細川領)から大分県大分市になるまでの流れをフロー図の簡略にまとめてみました。(整理中)
(その2)高田の行政の流れをフロー図にしてみました。

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