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紀新太夫行平の供養塔が高田の関門だけでなく、明治の二目川にもある、ということを聞いていたので、今回、明治公民館を訪ね、紀行平供養塔の建立先を教えていただき供養塔を訪れました。また、紀行平の供養塔については明治校区郷土史の「残しておきたい明治の話」に記載されていたため今回下記に抜粋しました。

紀行平関係サイト

👉「紀新太夫行平」を「高田村志」で読む
👉 紀行平 歴史散歩《5》

◆刀工紀行平の供養墓   ( 佐藤 米蔵 明治二目川)

※(二目川地区  佐藤 米蔵) 
 明治校区つるさき七輪のまちづくり推進委員会が明治の郷土史として「残しておきたい明治の話」として鶴崎支所が2009年に発行したものです。なお、佐藤米蔵さんは編集委員の一人で二目川担当だったようです。
 今回、その中の紀行平の部分を参照させていただきました。 紀行平について明治の郷土史に載っていたのはうれしいものでした。



紀行平は、平安末期から鎌倉初期の刀工で1144年(天養元年)に駿河の国(現在の静岡県)に生まれ、主人として仕えていた大友氏に従って豊後の国に移り住み、大友氏の保護のもと、刀鍛冶として豊後刀の名を全国にとどろかせたほどの名人でした。 1208年(承元二年)に 後鳥羽上皇が諸国の刀工の名手を召して、院内に寝泊りの勤務を命じ、刀剣を作らせた時、 行平も召し出され、二十四人の御鍛冶の一人に加えられました。
 行平は、当初、国東地方に住んでいましたが、その後、豊府から高田の荘に転居しました。高田の関門にも行平の供養塔があり、近郊の各地で刀鍛冶としての優れた技術を指導していました。
 当時、二目川にも来て住まわれ、刀鍛冶の普及指導に当たられたことから、通称「鍛冶屋」の地名が起こったくらいでした。
行平は、1222年(承久四年) 三月十七日に没しました。
 行平については、以上のようないい伝えがありますが、540年忌に当たる1761年(宝暦十一年) 三月十六日に、二目川鍛冶屋の岩本春雄さんの屋敷内に、 また、翌年正月吉日に、岩本吉生さんの屋敷内に、行平の供養墓が建立されています。
現在、豊後行平の名刀は、福岡県の国立博物館に展示されています。


別の場所にあったものをここにまとめたようです。

〈参考〉高田関門の紀新太夫行平の供養塔

供養塔は関園字仲間庵寺内にあります。寛政10年建立 (1793年)とありますが、行平死後570年後の1790年に地元の有志により建てられています。

紀行平の供養塔