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今年も、9月1日に、一乗寺で水難者供養祭がおこなわれます。また、今年は明治26年の大水害から130年の節目にもなります。
 公民館の資料の中から、昭和52年の水難者慰霊碑除幕式の記事が出てきました。合同新聞の記事と共にその当時の様子を9月1日の慰霊祭に合わせてアップしたいと思います。

昭和52年(1977) 12月22日 水難者慰霊碑の除幕式と供養が関係者50人が集まって行われました。この慰霊碑は明治26年の大水害で堤防が決壊し亡くなった鶴瀬地区の78人を慰霊するものです。もともとは大野川の堤防上にあったものですが、昭和18年の大水害で堤防の決壊と共に慰霊碑も流され行方が分からなくなっていました。しかし、昭和52年9月に鶴崎自動車学校(現亀の井自動車学校)の校舎を建設中の工事現場で慰霊碑の一部が発見されたため、自動車学校は自治会や水害の遺族とともに慰霊碑の再建を進め、慰霊碑の再建費用30万円は自動車学校が負担して再建されました。
その碑には、「明治26年 水難者慰霊の碑」と刻まれています。なお、この慰霊碑とともに、昭和18年の水害で亡くなられた方の慰霊碑も並べて建てられています。

除幕式の様子 (当時の新聞記事より)

大分合同新聞の12月23日の記事に除幕式の様子が書かれていたので、その一部を書いてみたいと思います。ただ、当時の記事のため、文字が薄くなったり、かけたりしているため、人名については間違いがあるかもわかりません。間違いがあれば後日でも教えていただければと思います。

(合同新聞から抜粋)
<二十二日、この遺族や関係遺族五十人が集まって供養を行った。供養に招かれた六人や参列した地元の人たちは、 「こんなありがたいことはありません。 本当に感謝でいっぱい」と、この碑を再建した自動学校の関係者に深々と頭を下げていた。

 慰霊碑は鶴瀬の市道沿いに再建された。供養には遺族の得丸軍喜さん、徳丸久隆さん、得丸ツヤ子、小玉泰三さん、 川崎康夫さん(以上鶴瀬)、宇〇久吉さん(下徳丸)をはじめ、佐藤市長、地区の 人、高田地区の八自治会長、鶴崎自動車学校関係者の関係者ら約五十人が出席。
遺族の代表の得丸軍喜さん(83)が碑の除幕をしたあと、読経、焼香、佐藤豊鶴崎自動車学校主のあいさつ、来賓の佐藤市長、岡松高田校区 自治部会長らのあいさつ、得丸軍喜さんの謝辞などがあった。

遺族の得丸軍喜さんは、これでみんなの霊もうかばれることでしょう。 こんなうれしいことはありませんと目をうるませていた。いろとりどりのキクの花が飾られ、 線香の煙のたなびく中で参列者は静かに合掌し、いまは昔となった八十四年前の洪水を思い浮かべながら、七十八人の霊を慰めていた。