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令和5年7月23日 二十三夜

7月23日は鶴崎の法心寺で毎年23夜祭が開催されます。今年は夕涼みに23夜祭に行ってみました。

なぜ、名古屋尾張の加藤清正が九州熊本の大名になったのか、また、飛び地の鶴崎<高田の荘>を熊本藩に取り込んだのか。どうして法心寺を建てたのか、二十三夜はどうして始まったのか。二十三夜に行く前にちょっと考えてみました。

加藤清正は1562年、尾張郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれ、豊臣秀吉の子飼いとして各地を転戦して武功をあげます。1586年秀吉の九州平定に従って九州に入りますが、1588年佐々成政の失政に伴う改易により、肥後北半国19万5,000石が与えられます。1600年の関ヶ原の戦いでは清正は関ヶ原には参戦できませんでしたが、東軍として九州で九州の西軍勢力を次々と破りました。その結果、戦後の論功行賞で、小西行長領(西軍)の肥後南半が与えられ52万石の大名となります。
1601年国替えされ(天草と引き換えに豊後の飛び地を取り、54万石となる)、高田の荘は熊本藩になります。(その同じ年1601年に法心寺が建立されます。<加藤清正は熱烈な日蓮宗の信者でした>)
 加藤清正はいざ、大阪、江戸への出陣と考えたときに(また、参勤交代の通路として)、鶴崎を出航の港として鶴崎を整備しようと考えます。そのため、豊後では久住、野津原、鶴崎への参勤交代のルートは熊本藩に所属し、整備されていきます。
また、1601年、鶴崎での参勤交代時の休憩、宿泊地としてまた役所として御茶屋が設けられます。(現在の鶴崎高校、小学校の地)
1611年、豊臣秀頼、徳川家康との和平策を二条城で企図した帰りの船の中で発病し、熊本城で50歳で亡くなります。
そして、法心寺では毎年加藤清正の命日(新暦7月23日~24日)に法要を行っています。

令和5年 二十三夜

千燈明
その昔、清正公が鶴崎の港を出航するとき、多くの町民がこぞって提灯や明かりを持ち、お見送りやお迎えをしたという故事に習い、千個の提灯を並べる「千灯明(せんとうみょう)」を境内で照らし、供養を行います。

豆茶供養
清正公が戦場で兵士の士気を高め、ねぎらうために麦湯に煎った大豆、塩を入れふるまったという古事由来している。当時のスタミナ源です。

私も飲んでみましたが、塩を入れた麦茶の中に煎った大豆がカップの底に10数粒しずんでいました。
塩風味の麦茶です。

加藤清正にゆかりの法心寺

👉 高田村史へ

高田村史の「高田村史第4回 加藤家から細川家へ」を抜粋して下記にアップしてみました。

第4回 加藤家から細川家へ

以前書いた加藤清正から細川家への移り変わっていく様子を「高田村史第4回 加藤家から細川家へ」を見ていただくと老いと思います。

第3回で書きましたが、肥後の国人一揆(1587年)が起こり、隈本を治めていた佐々成正がその責任を取って自害しています。そしてそのあとを継いだのが小西行長と加藤清正でした。小西生長は中南部を、そして加藤清正は北部を治めました。その後、1592年~1597年の朝鮮出兵(文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)があり、豊臣秀吉の死によって撤退し終わりを見せます。
豆知識ですが、清正が朝鮮出兵の際、もち米や水あめ・砂糖などを原料とした長生飴というものを非常食として常備しました。これが今でも有名な朝鮮飴です。
豊臣秀吉が亡くなった(62歳)まもなく、1600年関ケ原の戦いが始まります。
しかし、関ケ原の戦いには加藤清正は出てきません。どうしてでしょうか。それは関ケ原の前年に加藤清正は、薩摩を治める島津氏の筆頭家老・伊集院氏が起こした「庄内の乱」で伊集院氏を支援したことが徳川家康に知られ上洛を禁止されてしまいます。徳川家康は乱の収拾をはかっていたためです。このため、加藤清正は「会津征伐」から始まる「関ヶ原の戦い」に参加することができず、「黒田官兵衛」と共に、九州の西軍勢を攻めることしかできなかったのです。関ヶ原の戦いには参戦できなかった加藤清正ですが、小西行長や「立花宗茂」(たちばなむねしげ)の城に侵攻し、九州の大部分の西軍勢を打ち破りました。
肥後北部25万石を領有していた隈本城主加藤清正は、関ヶ原の戦いの戦功により小西行長の旧領を獲得し、また豊後国内にも鶴崎など2万石を加増され、52万石を領したことにより熊本藩が成立しました。豆知識ですが、これまで隈本といっていたのを熊本に変えたのは加藤清正だそうです。熊本城落成の折、隈本より、熊本のほうが勇ましそうだからと言ったそうです。
熊本藩(肥後藩)といえば加藤清正と言われますが、実際には清正が肥後国を治めていたのは、天正15年(1587年)から慶長16年(1611年)の期間だが、朝鮮出兵等もあって実際に熊本に居住していた期間は延べで15年程です。しかし、いまでも熊本では「清正公さん」(せいしょこさん)と呼んで人気があるし、鶴崎の法心寺や二十三夜では今なお加藤清正を祀っています。

加藤清正像

加藤清正は、関ヶ原の戦い以前から着手していた「熊本城」の築城を続け、1606年(慶長11年)に完成させます。、当時「日本一の名城」とも言われ、現在も「日本三名城」のひとつとされる立派な城です。
また、加藤清正は、肥後統治でも手腕を発揮します。城下町の整備・治水事業・農業政策・商業政策を推進し、肥後を豊かな国にする基盤を作りました。領有地の鶴崎には鶴崎城跡地に御茶屋(領主の宿泊所、諸役所)や、法心寺、船着場(港 現鶴崎支所周辺)を設けています。また、高田には溢流提が加藤清正によって造られたといいます。昭和10年代に護岸工事で消滅してしまったそうです。
また、川添には加藤清正による護岸工事跡(四国の青石を使って作ったといわれています。大潮の干潮時に出現するそうです。金谷水門200m上流) 加藤清正の治水事業の一角が残っています。
その加藤清正も1611年には徳川家康よりも5年早く50歳で亡くなります。その死については毒殺や毒まんじゅうを食わされた、などの伝説もあります。

そして清正が亡くなった後、三男の忠広が肥後国熊本藩2代藩主になります。しかし、多くの理由により加藤家の熊本統治は終わってしまいます。
忠広が若すぎ、その統制も困難になっていました。それが家中の対立を招き、藩政の停滞・改易につながったともされています。
また、加藤家が豊臣家と親族関係があったこともあり幕府がつぶしたかったとの説もあります。
1632年5月22日、江戸参府途上で忠広は幕府より入府を差し止められた上、改易を宣告されました。肥後熊本藩54万石は没収、忠広は出羽庄内(山形県)の酒井家にお預けとなります。
加藤家による45年の熊本藩統治はここに終わります。わずかな期間の中にも多くの加藤家の業績が鶴崎地区にも残されていると思います。

この後、加藤家をついで熊本に入ってきたのが細川家です。

【豆知識 鶴崎の御茶屋】
現在の鶴崎小学校と鶴崎高等学校の一帯にあり、一辺が100m四方くらいのほぼ正方形の屋敷で周囲には堀が廻らされ、その中に都会所、銀所、銀蔵、武器蔵。郡代宅、藩校なども併設され、熊本藩の豊後支所として機能していました。

加藤清正を祀っている法心寺

法心寺の山門 金剛大力神

法心寺の山門には 金剛大力神がありますが、これは南都から佐賀関の早吸日姫神社から法心寺にわたってきました。この仁王像はかの有名な運慶、堪慶といわれ国宝級の作品ですが、数度の修復のため、残念ながら芸術価値はあるのですが、国宝にはなっていません。