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高田の多くの人は乙津川、大野川に堤防のあることは当たり前だと思っている。私も最近まではそう思っていた。しかし、高田出身の80代の方と昔の高田の話をしているときに、常行のほうの乙津川には堤防はなく、子供のころは河原を歩いて森町(森町の若宮八幡社あたり)に渡っていたという。
その話をもとに他の高齢の方に話を聞くとやはりなかったという。また、戦後高田に帰ってきた人が昔、堂園には堤防はなかったという。ただ、具体的にどの辺りだったのか、また当時の写真はないのか、と調べてみるが資料はない。
ところが、公民館の資料を見ていると、その位置を記したものが見つかった。30年ほど前に書いたもののようで作者はわからない。
そのころとすると、「ふるさと講座」が高田で盛んにおこなわれ、歴史好きな人たちが集まって高田の歴史を調査していた時期ではなかろうか。
ここに、その位置を記した図面をアップしたいと思う。
現在の乙津川と堤防
高田に今立派な堤防があるが…………。
常行地区
関門~堂園地区
高田の堤防の今昔
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堤防部拡大
- 田田田田 現堤防
- 一 昔の堤防
- 一 昔は竹やぶで堤防はない
- 常行天満宮
- 僧秀栄の墓
- 銀行の裏
- 鍛冶屋(竹内さん)
- 重藤親弘の墓
- 毛利空桑の墓
- 常仙寺
- 岩丸
- 頌徳(しょうとく)碑
- 知来館跡
- 関戸の下
- 井樋の口
この資料でわかることは、高田橋から鶴崎にかけ、また関門(現在ある排水ポンプ場あたり)から鶴崎にかけての堤防は昭和20年代までなかったように思われる。竹藪等の自然堤防に任していたのではないか。
しかし、昭和18年、28年の高田大水害、大津留の越流提工事等もあり、昭和初期からの堤防工事も昭和30年初期には今の堤防の状態になっていたと思われる。