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このあたりの名称は多くの方はご存じないのではないでしょうか。私もかすかに聞いたことがあるが、具体的には何だったのだろうか。というのが正直な気持ちです。
あと一世代過ぎれば高田でも過去の言葉になってしまうのかもしれません。

四・鍛治屋小路



鍛冶屋小路とは下德丸學校前から東方に向つて通じる小路(しょうじ 狭い道)の名で、昔、上總守長盛を始め、多くの刀鍛冶が住んでいた所である。なかでも特に長盛は紀新太夫(行平)以後、高田
鍛冶の中でも特に優れた人物で、その名は古くから知れ渡っていた。墓は今東上弦の田圃(たんぼ)の中にあり、天保七年(1836年)三月、長盛から十一世の子孫にあたる戸次村の平岡新左衛門の建立による。

五・鬼の井戸

関門と常行の境界である十五歩の池の東北方にあり(紀行平の墓のある位置から東に進んだところと聞いている)、地面が少々小高くなったところがあるが、地元の人はこれを紀新太夫の屋敷跡だと伝えている。言うところの鬼の井戸というものはここにあるのだが、井戸といってもほぼ埋もれてしまっているので、今はわずかにその面影が偲ばれるにすぎない。古い記録によれば、この井戸は新太夫が刀つくりに精を出しているときに、其の精力を感じ、出て来て向槌を取った鬼が一夜のうちに穴を掘ったもので、新太夫はたびたび鬼神にここで水を汲ませ、刀剣の鍛錬に用いたという。しかし行平の系譜によると、鬼神云々のことは国東の安岐郷にいたときのことで、当地のことではないようだ。思うにこれは後世のこの付近に住んだ高田鍛冶が、鍛剣用に汲んでいた井戸を、行平のこととして誤って伝えられたものであろう。又この井戸の井側石には、各石に仏像の彫刻ありと伝えられているが真偽の程はわからない。

参考 向槌: 鍛冶 かじ で、主鍛冶の反対側に立っている助手が使う長柄の大づち。 また、それを使う人。

六・釣鐘淵

堂園から対岸の種具に渡る種具渡しの少し上手あたりに釣鐘淵と呼ばれるところがある。天正十四年(1586年)十二月鶴崎城の戦の時(豊薩合戦)、薩摩兵が当村に乱入し、関門の補陀寺の釣鐘を奪って、ここに投入したと伝えられているところである。これについて故兒玉重器は、釣鐘を投げ込んだというのは恐らくまちがっており、薩摩兵が略奪して本営に持ち帰らんとした際、これを船に載せんとして誤って落としたものだと言っている。これはもとより、臆測に過ぎないけれども、単に川に投入したというだけでは、まったく無意味なことなので、この説は真実をついているのではないか。
ちなみに今補陀寺にある釣鐘は、両部の時若宮高田若宮八幡社にあったものを、維新後に譲り受けたものであるという。

7・堀切

堀切は天正十四年十二月鶴崎城の戦における歴然たる唯一の遺跡で、現在、本村と鶴崎町の境界となっている堀のことである。当時鶴崎城を守っていた吉岡妙林は、薩軍が攻めてくることを察し、棚をつくり、ほりを掘り、落とし穴を掘って、これに備えた。この予想が的中し、十二月十三日になって、薩將伊集院、野村、白濱の三將は三千餘騎の大軍を率いて寄せてくる。前日、戸次鶴賀城を攻略した余勢に乗じ、何の思慮するところもなく、獅子奮迅の勢を以て城中に突進する。たちまち先頭の一隊が混乱状態になる、それは落とし穴に落ちたのである。この機を逃してはいけないと城兵は無二無三に
銃を乱射し、見る間に敵兵百餘人をたおす。是より薩兵落とし穴をおそれてみだりに近づかず、先づ牛馬を放してその後を歩いたと。そして当時この堀の形状が薬研に似ていたことから、薬研堀と呼ばれたという。

注 薬研掘   薬研堀(やげんぼり)は、. 堀の形状の一つで、薬研 (薬草をひいて粉にしたりする器具)のごとく断面がV字形になっているもの。

次回「高田村志」を読むは高田小学校150周年を記念して第4章から先に第8章学校を先にアップさせていただきます。飛ばした部分は後日またアップしたいと思います。
第八章 學校(高田小学校150周年を記念して)


👉第八章 學校(高田小学校150周年を記念して)その1