1・閼伽池(あかいけ)

※ 閼伽とは  仏前に供えられるもの。 特にその水

   👉【歴史散歩18】 閼伽池(あかいけ)[亀甲]

閼御池は大字丸亀字亀甲にある。大小二つの池が並んであることから、夫婦池とも称される。 高田風土記によると、その広い池のほうは二段余り(にたん 約2000㎡)、小さい池は二畝余り(ふたせ 200㎡余り)で、前者を閼伽池、後者を蛇池と称すともある。しかし、今はこの二つを区別して呼ぶものはなく、蛇池の名はすっかりなくなってしまい、閼伽池一つに統一されている。又その面積も、前に書いたものよりは、双方ともやや縮小しているようである。

閼伽池付近は、昔寛永年間(1624年~1644年 江戸時代の初期)本村の氏神 若宮八幡が、今の南の地に遷座されるまで鎮座されていた所で、ここの馬場という字名は、若宮八幡の馬場であったことからつけられた名称である。当時神社は、神佛混淆両部習合(下記に参考)が普通だったので、若宮八幡も明護院という当山派<当山派(とうざんは)は、平安時代から江戸時代にかけて存在した真言宗系の修験道の一派。金峯山を拠点とし、三宝院(醍醐寺)を本寺とした。>の修験僧、社僧として奉仕し、日夜閼伽をこの池で汲んで神にささげた。これが閼伽池という名のいわれである。
 閼伽とは梵語で<ぼんご 古代インドの文語であるサンスクリット>本来、仏に供える水のことであるが、両部習合上、これを神明<しんめい 神社 神>に供えるようになったのではないか。
このように、閼伽池は由緒ある土地であるから、当初は若宮八幡の神幸場にされていたということである。

神佛混淆両部習合とは

神仏習合(しんぶつしゅうごう)、神仏混淆(しんぶつこんこう)とは、日本土着の神祇信仰神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成された

2・西海寺磧

※この場所についてはわかりません。わかる方がいれば教えていただきたいと思います。

丸亀字上徳丸東塘<とう 川や池の岸の土手>外の河原を西海寺磧<せき 河原かわら>という。ここは神幸地だった閼伽池が廃止されて以来、明治七年今の中洲磧の地に変更されるまで、長い間にわたって高田若宮八幡の神幸地だったところで、当時神輿は社僧明護院奉侍してこの場に出て行った。そして、明護院は寺名を川甲山西海寺といったので、これから取って西海寺と言ったという。明護院は明治の初年まで続いたが、明治維新があってからは、両部<神仏習合思想>の流弊<りゅうへい 以前からある悪い習わし>を一掃して、僧侶で神社の仕事をしていたものを蓄髪<ちくはつ 僧尼還俗 (げんぞく) して髪を伸ばすこと。>させるようになり、その養子だった幅城院が還俗して<げんぞく 僧が僧籍を離れて、俗人にかえること>神職となり大神武膳と称した。これが今の若宮八幡の神職大神氏の祖である。(大正まで大神氏が続き、昭和に現神職の広瀬氏と交代する)

3・清寧場

藩末に、上徳丸磧、関門浜の両個所を清寧場<せいねいじょう>と呼んでいた。これは明治元年正月、熊本藩演武所を鶴崎に置き、各手永の郷士及び応募の農兵で兵隊を組織し、英国流の調練を開始するにあたっての我が高田隊の練兵場だった所である。
 清寧場といったのは隊名を清寧隊と言ったことから来ている。両所ともその当時と今では趣が違っており、関門浜は一面の芝生で射撃場を設けており、上徳丸河原には松林等があったという。

次回「高田村志」を読むは 第4章 (4・鍛冶屋小路 5・鬼の井戸 6・釣鐘淵 7・堀切)へ続きます。

👉第4章 (4・鍛冶屋小路 5・鬼の井戸 6・釣鐘淵 7・堀切)