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※「高田村志」
  大正九年、久夛良木義一郎氏、中村壽徳氏、小手川又吉氏により編纂されたものです。
  昭和53年に洪水や大戦により数冊しか残っていなかった「高田村志」を中村文明氏が復刻版として発行しています。
  このホームページ作成に当たり高田の貴重な資料として参考にさせていただいています。

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3・明治以降の高田

明治元年
10月9日鶴崎郡代より、去る9月8日明治改元があったと連絡に来る。
明治 2年
8月、鶴崎郡代緒方加左衛門が来て、庄屋以下、村民皆に王政維新の趣旨を諭告する。
明治3年
2月、高田手永代兼兼惣庄屋岡松俊助 当役を免ぜられ、肥後国八代郡高田手永一
領一足郡野一兵衛が来て代わる。 当時一兵衛は姓は家老の郡夷則にさしつかえ、名は兵衛と名乗るのを禁じられたため、郡一治と言っていた。
7月藩政改革の結果、惣庄屋は少屬と名を改められ、高田会所の名目全くなくなり、少郡野一兵衛は鶴崎郡政局出張所詰となる。
 又、庄屋、山ノ口も廃止され、代わりに里正が置かれ、亀甲の中村茂之が勤める。

明治4年
7月14日廃藩置県の詔勅が下り、本村は熊本の分轄となる。知事は細川護久。
11月22郡県の制が定められ、本村は大分の管下となる。

明治5年
6月2日府內上市町安藤京平方に第三会所が置かれるようになり、当村はこれに属す
るようになる。
6月20日従来の里正が廃止され戸長が置かる。 本村の長は下徳丸の中村默二がこれを勤め、自宅で職務を行った。
11月本郡庄内郷に当地の民が蜂起し、沿道の村民を煽動しながら十二月に府内に迫り、参事(今の知事)森下景端の住居を襲って、一時その勢は次第に燃えあがった。時に本村の農民は、もし一党に加わらなかったら、焼き討ちにされるとの流言(デマ)に惑い、大挙してこれの応援に行こうとした。
 戸長の中村黙二、平井真清が心を込めてすべきではないと諭したが、多くの人の聞く所とはならず、 一同はそれぞれ刀、竹槍等を携へて、12月の下旬府内に向つて押出していった。こうして府内に着いたが、この時党民は既に退散の後だったので、一同はどうしたらよいかわからなかっただけではなく、中には捕らえられる者もいて、殆どが這う這うの体(ほうほうのてい)で歸村した。 後に村々取調を受けた末、結局一月に金一分(一分は二十五錢)宛の科料(カリョウ 罰金)に処せられ、高田村にて、およそ一千五六百円を出してこのことは落着した。こうして当時村々では、 その共有地等を売って、この科料に充てたという。

明治6年

3月25日、本村は第三大区第十一区に指定され、用務所(南村に在った)に区長が来て事務をするようになった。当時区長として第一に来たのは、芦苅(戸田)善人という大分の人で、後に鶴崎の阿部壽七郎という人が来てそれに代わる。
 こうして区長の下には戸長、及び保長がおり、当時戸長は丸亀馬場の得丸貞俊保長は同亀甲の徳丸用八、大鶴の金丸千四郎の両名がこれを勤めた。
 8月15日、上徳丸中村壽八郎の家塾を移して村立學校とし、明倫校と名づけた。

 10月2日(陰暦8月11日) 暴風雨洪水。 大野川の増水三丈五尺餘(10.5m)に及び、鵜猟ガ瀬、その他数ヶ所の堤防が破壊し、鶴瀬、丸亀、関園等の人家の流失したものも少なくなかった。官はそこでこの救助として、扶助米代金を庫より貸下げ、土地の正租を半減にする。又大分県権令森下景端は、大鶴鐙(あぶみ)土手がやや高かったのに、水勢の衝撃がはなはだしかった結果、それが破壊すると一時に氾濫し、かえって被害の度合いを多くしたことを反省し、延長七十間餘(約130m)にわたりて高さ一丈四尺(4.2m)を切下げ、かつ石畳にした。

明治7年

2月、明倫学校を下徳丸の平井改四郎宅に設置する。

明治8年

三月十三日本県甲第三十号の布達(ふたつ 明治初期の行政命令)で、既定の小町村を分合改定(合併、分割)した結果、従来、九ヶ村に分れていた本村は下記の六ヶ村となる。    
以上の六ヶ村を便宜上「上」と「下」の二部に集め、二人の戸長でこれを支配した。
 従つて本村には「上の役所」と「下の役所」の二役所ありたり。

村名摘要役所戸長
関園村元の堂園村、関門村下の役所仲摩専策
常行村
南村上の役所中村黙二
下徳丸村
丸亀村元の上徳丸村、亀甲村
鶴瀬村元の鵜猟ガ瀬村、大鶴村
明治9年

高田小學校の名起る。

明治10年

西南の役に際し、六月一日賊軍が臼杵に侵攻すると、官軍が追撃して輜重部(しちょう部 郡の食糧、備品の調達をする部門)を本村に置き、糧食を常行村首藤百門宅で調達する。

明治12年

二月、下徳丸字屋敷中村多蔵の所有地を求め、家島にあった旧臼杵藩の倉庫を購入して、これを本村学校に改築する。工費三百四十五円六十三銭を要し、 八月に落成する。

明治17年

八月三十日本県甲第五十号を以て、以前の町村役所を廃止し、更に町村役所の所轄区域が公布され、本村の上下二役所も廃止され、役所の位置を下徳丸に指定されたので、興聖寺を借りてここに本村役所を設けた。当時の吏員(役人、公務員)
は下記のとおりである。

戸長中村 黙二
副戸長得丸 貞俊
仲摩 専策
中村 半次郎
筆生(ひっせい 書記)重藤 慶次郎
得丸 政太郎
小手川 荘一
明治18年

夏洪水あり、下徳丸河岸破壊。

明治19年

この年春雨なく又五月雨なく、六月に至りて非常の干ばつとなり、 雨乞いの末、七月
に入りてようやくよい雨があったが、八月から九月にかけて四回の洪水にあった。
第一回
八月二十日より強風雨、二十一日夜より増水、二十二日午前三時頃出水。

第二回
九月十日より強風雨、十二日夜より増水九尺(2.7m)に及び倒家八戸あり。

第三回
九月十七日より強風雨、十八日午前九時より二丈六尺(7.8mの増水にて洪水。

第四回
九月二十二日より大風雨、翌二十三日増水一丈七尺(5.1m)。再々の洪水にて作物は実らず。

4月、民選戸長の制度が廃止され、鶴崎町士族石川衡二郎、下徳丸他5村の官選戸長としてくる。
 当時、本村役所は下徳丸の高津屋に置かれていた。

明治20年

4月1日より本村小学校を高田尋常小学校と名づける。

明治21年

本村駐在所を下徳丸二百三十四番地に開設し、巡査小池汎夫郎着任。

明治22年

三月二日大分県令甲第十二号を以て、本村の村名を高田村と呼ぶように制定される。
る。
四月一日、町村制実施となり、中村默二村長に仲摩孫七助役となる。
四月二十日より二十九日まで十日間、若宮八幡の開扉(開帳)あり。各字よりニッカ、(不詳)
狂言、山車引等ありて大いににぎわう。

五月十五日、興聖寺において初めて高田村議員集会を開く。議員定数十二人の指名を下記に示す。
首藤百門  得丸政太郎  高田軍平  鶴田猪之八  中村四郎  工藤亀吉  
平井真清  佐藤清八郎  仲摩孫七  仲摩実市   小手川〇   重藤慶二朗

明治23年

二月二十七日、第一回村会を開く。
六月二十日、若宮八幡社の神殿新築上棟式を行う。越して二十二日遷宮式あり。

明治25年

十二月、本村役場建築場所として下徳丸掲示場裏藍澤亀次郎所有地二畝歩を弐拾六円で購入する。


明治26年

別保村皆春より民家一棟を弐百円(寄附金)にて購入し、前記の位置に役場として建築する。
四月落成。

明治26年の大水害 
           👉明治26年の大水害の記録




十月十四日未曽有の大洪水がある。午前九時出水、水量水を増すこと三丈六尺(10.8m)。
鶴瀬鵜猟ガ瀬堤防、丸亀久田新田の堤防等破壊したもの九ヶ所(内全滅五ヶ所、半壊四か所)延長五百六十五間(1,028m)に及び、土地の荒廃二百十九町五段三畝二十一坪に達す。溺死、流家数は下記の通り。
大字

大字溺死者数流出家屋
鶴瀬74   (男35 女39)30
丸亀2     (男1 女1)19
下徳丸1     (男1 女0)13
 南1     (男1 女0) 8
関園3     (男1 女2)20
常行3     (男1 女2) 3
合計8493

この年、牛馬が死んだもの14頭

朝廷、この惨状をお聞きになり、侍従片岡利和を当地方に派遣される。この結果、朝廷から本県水害地一般に対し、救援金2,500円下賜(かし 身分の高い人からいただく)され、本村は二百六十七円七厘の配当を受ける。


明治27年

九月十一日、また洪水に遭遇する。午前十一時出水、水量三丈三尺(10m)。前年決壊した堤防復旧工事が九割方完成していたが、この洪水のため再び破壊し、住家の流出は二十六戸に及ぶ。しかし、幸いにも人畜には死傷がなかった。


明治28年

昨年七月から今春にかけての日清戦役(日清戦争)に本村から出征した31名の名前は下記のとおりである。

 ※ これについては省略する。村誌には31名の名前が記入されている。


明治29年

十月十九日征清軍凱旋記念碑 落成式挙行。 大分連隊区司令官安藤中佐 小倉郡
長等來臨。

征清軍凱旋記念碑 (高田若宮八幡社境内にて)

夜興聖寺において赤十字社幻燈会を開く。


明治31年

九月十四日午後二時頃大雷雨があり、關園に落雷し一戸焼失す。


明治32年

七月八日暴風雨、午後七時出水。 大野川増水一丈九尺(5.7m)。
十月十八日、仁徳天皇一千四百年祭を若宮八幡社にて行う。


明治33年

五月十日、中洲磧(セキ 河原)において皇太子殿下御結婚奉祝式を行う。
七月十一日大雨洪水。


明治34年

五月九日興聖寺において、皇孫廸宮殿下御降誕奉祝式を行う。
<参考>皇孫廸宮 皇孫は明治天皇の孫  廸宮(称号 みちのみや)  裕仁(名前 ひろひと)

七月三十日高田尋常小学校改築落成式を行う。 大久保知事、狭間郡長等が来臨せられる。

十月八日大風雨洪水。


明治35年

下徳丸に本村巡査駐在所として家屋一棟を新築し、七月十四日、駐在巡査
首藤卯三郎ここに入られる。 それから駐在所の位置がここに定まる。
九月八日、昨日より大風雨にて洪水、大野川の増水二丈六尺五寸(約8m)。


明治36年

二月二十六日、小松宮彰仁親王御葬送遙拝(ようはい)式を学校校庭で行う。
七月二十五日、墓参のため、帰郷した法学博士岡松参太郎の歡迎会が学校で開かれた。
十月十三日、本村 小学校創立満三十年記念式を行う。 狭間郡長來臨。


明治37年

2月、日露開戦。本村からの出征者81名

※81名の名前が記載されていますが、その列記は後日に回します。

十月十八日、鶴瀨一乘寺前の畑中において戰死者陸軍步兵上等兵德丸勝造、同一等卒得丸管太両名の村葬を行う。
德九上等兵は鶴瀬德丸常三郎の弟で、步兵第四十七連隊第九中隊に属して出征し、九月遼陽の戦闘に当たり、四日夜、大連連溝の敵を夜襲した際、敵弾のために下腿及び足甲の貫通銃創をうけ戦死したものである。行年二十三歲、戰功により一時賜金五百二十六円、扶助料(遺族に支給される年金恩給です)年額五拾五円の恩給証書とを受ける。
 また、得丸一等卒は同じく鶴瀬得丸伊八の養子にして、歩兵第四十七連隊補充大隊に入りて朝鮮に渡り、義州の東永洞にて出征軍に編入せられ、同連隊第七中隊に属したが、九月二日支那盛京省大窑北方一文字山の戦闘において、敵弾飛び来って頸部に盲貫銃槍を受け、野戦病院に収容せられし後、五日午前三時に永眠す。行年二十八歳。戦功により一時賜金四百七拾円、及び遺族に対し、扶助料年額五拾円を付与せられる。


明治38年

三月十日、学校の庭において、故陸軍歩兵上等兵工藤善平の村葬を営む。氏は常行工藤菊太郎の三男にして、歩兵第四十七連隊第八中隊に属して出征し、大柳峪
山(中国の地名)まで進んだが、、十一月二十三日腸チフスにかかり、十二月三日に第三野戦病院において亡くなる。行年二十七歳の戦功により父菊太郎に対し、扶助料年額三十八円を付与される。

六月二十日大雨洪水

十一月二十五日、学校々庭において、故輜重兵(しちょうへい)上等兵高田角右馬の葬儀がある。氏は関門の人で、前年二月第十二師団第一輜重監視隊盛副隊に属し出征し、各地に兵站司令部附を勤めつ、鉄嶺まで進んだが、この年八月十六日に病にかかり、十月一日、遂に鉄嶺兵站病院において死去する。行年三十三歳、戦功により一時賜金二百六十円、
及び遺族に対し扶助料年額三十八円をあたえる。


明治39年

三月十一日、学校々庭において、本村凱旋軍人歡迎会を開催する。


明治40年

三月下旬、若宮八幡社拝殿新築落成の爲め、開帳祭を執行する。
四月三日、學校において武德演武会挙行演武者八十余名。木元鶴崎分署長來臨。
五月三十日、学校において赤十字社高田分区総会開会 安田郡長来臨

九月七日暴風雨、暗水一丈三尺(4m)。

明治41年

三月三十一日、若宮八幡社、神饌幣帛料供進社に指定せらる

<参考>神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ)とは郷社、村社を対象に明治 から終戦に至るまで勅令に基づき県令をもって県知事から、祈年祭、新嘗祭、例祭に神饌幣帛料 を供進された神社

五月七日、本県知事千葉貞幹が当村の稚蚕(かいこ)共同飼育場麗察のため來村。
<参考>千葉貞幹(大分県知事を明治39年から44年に歴任 のちに長野知事に転出)

七月十一日より十三日まで三日間、學校において本村蚕(かいこ)繭(まゆ)品評会並に兒童成績品展覧会を開く。

明治42年

四月三日、学校において高田青年会初会式を行う。

七月十一日、十二日二日間、學校において本村繭(まゆ)麦品評会並に兒童成績品展覧会を開く。

九月九日、本村小学校増築落成式挙行。 郡長代理宇都宮 郡視学、小松分署長、新聞記者等来臨。

明治43年

四月一日、本村小学校に高 等科を併置し、高田尋常高等小學校に改称する。

七月十二十三の両日、学校において本村繭麦品評會並に兒童成績品展覧会を開催する。
八月より九月初旬にかけて赤痢病が流行する。

明治44年

八月十五日、朝來暴風雨、午後洪水。
九月二十二日、昨夜からの暴風雨、今朝午前一時ごろに出水する。

明治45年(七月以後は大正元年)

六月六日學校に於て本村繭、蚕品評会を開く
大正元年(七月以前は明治四十五年)
八月六日、かねてから村内に架設中の電燈工事が竣工し、 今夜始めて点灯する。

電灯記念碑(高田若宮八幡社境内)


九月十三日、明治天皇御大葬日のため、午後八時より学校校庭ので村民一同遙拝式を行う。
九月二十二日、朝から暴風雨。 出水路上四尺(1.2m)に及ぶ。
十月一日、納税の成績において次のように表彰さる。

<表彰状>
大分県大分 郡高田村

既往七ヶ年度間國税ノ各納期ヲ通ジテ完納/成績ヲ挙ゲタリ是實ニ納税義務ヲ尊重スルノ念普及シ施設共ノ宜シキヲ得タル結果ニシテ洵二(ジュンニ 本当に)奉公ノ實(実)ヲ表セルモノト謂フベク其ノ美風他ノ模範ト爲スニ足ル仍テ常局ノ規定ニ 基キ茲ニ(ここに)之ヲ表彰ス。
大正元年十月一日

熊本税務監督局長正六位勲五等 蓮見 義隆

・十月二日、暴風雨にて又々出水

・十二月廿四日、大分郡長より下記の如く表彰さる。

大分大分郡高田村

大野川本支流ノ間二介在セル平野ニシテ戸数僅二四百餘時々洪水ノ惨害アリト雖モ(いえども)風俗淳朴(純朴)勤儉力行(きんけんりっこう まじめに仕事に励む様)美風存シ水田ナキモ巧ニ畑地ヲ利用シテ蔬菜(そさい 野菜)栽培シ傍ラ(かたわら)鍛冶及行商ヲナス爲メニ生計困難ヲ告グルモノナク挙村常ニ緝睦(しゅうばく なかむじまじく)シ法令ヲ重ンジ規則二遵(したがい)各種納税ノ如キハ年ヲ逐フテ増加スト雖モ(いえども)数年間未ダ曾テ滞納者ヲ出サズニ他模範タリトス依テ本郡表彰規程ニ照シ金五拾圓授ス

大正元年十二月二十四日

大分縣大分郡長從五位勳五等  出 事

・七月九日、學校で、本村繭麦品評会開ㄑ。翌日下元技師、木戶技手の農業講話がある。

・七月三十日、明治天皇御一周年祭に付き、村民一同学校にて遙拝式を行う。

・十一月二日— 首藤家累代頌德碑落成式挙行。 工費総額壹千貳百貳拾參圓九拾壹  千二百二十三円九十一先を要し、全部寄附金であった。


首藤家累代頌德碑
貴族院議員正三位勳四等侯爵細川護成(ほそかわもりしげ)篆額(てんがく)
首藤家中興祖諱義道稱治郎兵衛豐後大分郡高田村人幼喪父伯父攝家年二十五
始治家英邁有峇斷如快刀大殖產屢納金助肥後藩主國用許稱姓佩刀又還甲騎馬
服藩章外套及冬夏衣賜三口糧最後献費桿三郡海潮闢田崗爲組付中士更賜五口
…………………  あとは時間があるときに内容とともにアップしたいと思います。

・十二月十六日、學校において本村野菜品評会を開ㄑ。

大正3年

・一月十三日、桜島爆発の鳴動が聞こえ、終日火山灰降積す。
・五月廿四日、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)御大葬につき、午後四時学校において村民一同遙拝式を行う。
・八月、日独開戰(第一次世界大戦の中での日本とドイツの戦い)本村よりの出征者下記の如し。(省略)
・九月五日、若宮八幡社に日独開戦奉告祭を行う。
・十一月八日、昨日青島(中国の青島(ちんたお半島にある))陥落につき、村内一般祝賀会を催し、学校兒童は旗行列を行う。

大正4年

・三月八日、学校において郡主催の巡回衛生展覧会あり

・四月十一日、昭憲皇太后御一周年祭につき、村民一同学校において遙拝式を行う。
・七月十二日、納税の成績において次の如く表彰さる。
大分縣大分郡高田村  大正四年七月十二日
 <文面は省略>

・九月八日、暴風雨出水。
・十月二十七日、本村小学校に天皇陛下御真影を奉戴する。
・十一月十日、御大礼当日につき、村民一同學校に集まり、校庭において厳粛に奉祝式を行い、午後正三時三十分東方にむかって恭しく萬歲を三唱する。なお、当日養老の
 恩典に浴し、本杯並びに酒肴料を下賜されたる高齢者は左の如し。(省略)

・十一月十四日、若宮八幡社に大嘗祭を行う。
・十一月十六日、御大典祝賀会学校校庭にて開催。奉祝のため、学校児童は旗行列を行い、村内また狂言、道囃子(みちばやし)等ありて大いに賑わう。

大正5年

・八月三十日學校において、野菜講習会あり。
・十月二十七日、本村小学校に皇后陛下の御影を奉戴す。
・十一月三日、立太子の当日につき、村民一同学校に集り、奉祝式を行う。学校兒童奉祝旗行列をする。
・十二月三日、学校において養鶏講話会あり。

大正6年

三月四日、本村役場新築落成式挙行。田島郡長、松尾大分税務署長、隣接町村長等が出席された。

※「高田村志」は大正6年に書かれているため、この年代別は大正6年現在で終わっています。

「高田村志」を読む第二章 (高田の)人物 に移ります。

👉第二章 高田の人物 (紀 行平)