1・大友時代の高田
高田の荘
高田の名が信じるに足るべき書物にでているものとしては、弘安八年(1285年)、大友頼泰(大友家第三代)が豊後国内における領主の姓名及び地位資格を調査し、鎌倉將軍家へ報告した報告したもので、いわゆる豊後図田帳(ぶんごずでんちょう)に
(注)鎌倉時代、荘園・公領の田畑の面積、領主、耕作状況などを調べて一国ごとに整理した帳簿<日本国語大辞典より>
高田莊 二百町
本荘 百八十町 領家 城興寺
地頭 三浦助入道殿
牧村 二十町 領家 城興寺
地頭 御家人牧三郎惟行
とあるのを初めとする。当時高田荘と称したのは、今日の我が高田村を始めとし、鶴崎、三佐、桃園、 別保、明治、日岡、東大分、及び北海部郡大在村字志村、同郡川添村字迫村、鶴村の、一町九ヶ村にわたる地域にして、これを高田郷と称するものもある。郷と荘とは、本来性質を異にするものだが、古來往々混
同して用いられたように、我が高田も、果して荘なのか郷なのか、早急に断定すべきではないが、その領家の寺院で、前記志村の佐井郷大在に接するところに、「荘境」なる地名があることを見れば、少なくともその初めは荘を称したものであって、やがて後世領家の勢力の推移と共にいつしか郷を称するようになったのではないか。
高田豪士
高田の大友氏の季世に及びては、本村は鶴崎城主吉岡三河守鑑忠の配下に属し、天正14年(1586年)、及び翌15年三月寺司浜の戦に際しては、高田豪士のこの戦いに参加したものは非常に多く、軍功者として今日に伝わる名前は、徳丸式部、徳丸中書、徳丸刑部、徳丸兵部、徳丸志摩、徳丸三郎兵衛、徳丸勘右衛門、徳丸權左衛門、徳丸加右衛門(惟平といい又治郎とも称す)、徳丸又右衛門(統貞といい又主膳允と称す)、中村新助(正盛と称す)、同助兵衛(新助の弟にして統重という)、向新右衛門等あり。この中にても中村新助、中村助兵衛、及び徳丸刑部、徳丸加右衛門の諸士は、寺司浜の戰において殊に奮戦し、新助正盛は不幸に戦死したが、其の弟助兵衛統重は、薩軍三主将の一人たる伊集院美作守久宣を討ち取って、天晴れ兄の仇をとっただけでなく、全軍中抜群のてがらを立て、同時に徳丸刑部は、敵の部妻栗玄番を斬殺し、徳丸加右衛門惟平は、敵主将の一人野村備中守を傷けて、何れも我が郷土の武名を高く広めた。 又徳丸式部は吉岡氏の重臣にして、常時は城主妙林尼の帷幄(いあく 参謀)に参典し、その功は少なくなかったという。
その後文禄元年(1592年)、豊臣秀吉朝鮮征討時に、大友義統に従って、本村より出征したる人もいる。前に書いた徳丸又右衛門統貞もその一人である。 更に慶長五年(1600年 関ヶ原の戦いの年である)九月、彼の速見郡石垣原の戦いにおいても重藤土佐守親弘のような大友軍にして武功があった者もいる。
2・ 徳川時代の高田
1・管轄所属及石高
管轄所属
慶長の初年に当たっては、木村は一時徳川氏の直轄だったが、加藤清正が肥後に封ぜられたことから、その管下に属することとなった。 のち寛永八年(1631年)に至り、 加藤氏は改易され、翌九年小倉城主細川忠利、肥後領五十四萬石に国替えし、本村は更に細川氏支配の下に従うようになり、それ以来明治維新に至る。
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石高(こくだか)
高田村の石高は、高田風土記(江戸時代後期1800年ごろ)の記載によれば、総計1816石9斗余り、すなわち1817石で、これは熊本藩の総高54万石に比べればその300分の1に当たる。この内訳をあげれば次のとおりである。
堂園村 | 134石7斗余り | |
常行村 | 252石3斗余り | |
関門村 | 216石3斗余り | |
南村 | 153石1斗余り | |
下徳丸村 | 371石6斗余り | |
上徳丸村 | 225石7斗余り | |
亀甲村 | 131石7斗余り | |
鵜猟ガ瀬村 | 196石4斗余り | |
大鶴村 | 135石1斗余り | |
合計 | 1816石9斗余り |
2・沿革(江戸時代)
※年表は紀元歴で書かれているため、西暦に換算して表記します。その時の天皇名、元号も記入されていますが省略します。
また、洪水等同じことが続くものもありますが、歴史の事実として列記します。
年号 | 摘 要 | |
1597 | 僧正滿、関門の慈雲山補陀寺を再建 | |
1624 | 九月大洪水あり。 龜甲に鎮座せし若若宮八幡の社殿流失し、神体大字南榎ヶ瀬の古木に漂着する。 | |
1627 | 八月六日大風雨出水 | |
1629 | 領主肥後候 加藤忠廣、若宮八幡を大字南鵜ノ鶴に祀る。 | |
1632 | 本村の地細川侯の管轄となる | |
1641 | この年大風雨洪水あり。 | |
1644 | 僧日泰常行に雲鶴山常仙寺創建 | |
1657 | この年大風雨洪水あり。 | |
1658 | 大洪水があり大鶴村鐙鼻の塘堤、街道乘越より東方にわたりて百八十餘間(約330m)が破壊 される。そのため藩から益田彌一右衛門、佐藤専右衛門の二人を御普請頭とし、足軽三百人で、 六十日の交代で修復に着手し、数か月で完成する。 (注)御普請 御普請は幕府や藩が行う土木作業、村等が行うものが自普請 (注 堤塘 川などの水が溢れないように、土を高く築いたもの。 | |
1659 | 六月、常行枯木ノ天神(今の常行神社)を創祀される。(創られ祀られるようになる) | |
1622 | 3月、僧日達 鶴瀬に開閘山一乗寺を開創す。 | |
1624 | 藩主細川綱利(熊本藩三代当主)、當地方に差し迫っていたキリスト教徒を鎮めるため、 上徳丸定恵院の跡地に小院を建立す。これが瑞光山能仁寺のはじまりである。 | |
1625 | 正月十五日、行巌禅師雲歩來りて能仁寺に入る。 | |
1673 | 五月、大雨出水す。 | |
1678 | 四月八日、興聖寺洪鐘(洪鐘とは 大きな釣り鐘のこと)を鋳造する。 (当時、興聖寺は常行の権大にあった。) | |
1688 | 鳳林山興聖寺、常行より下徳丸字東小路(現門前小路)に移転する。 | |
〃 | 八月十九日、大風雨洪水あり。 | |
1696 | 七月十九日、大風雨洪水 | |
1702 | 七月二十八日、八月二十九日の両度にわたる大風雨出水あり。 | |
1707 | 洪水のため亀甲村の堤防七十間(127m)破壊し、流家十三、倒家九十七に及ぶ。 | |
1712 | 若宮八幡の親善を造営する。 | |
1729 | 八月十九日、九月十三日の両度にわたる大風雨出水あり。 | |
1731 | 常仙寺燼焼す。(燃え尽きる) | |
1732 | 5月十五日、十六日日の両日に大風洪水あり。 | |
1736 | 常仙寺が再興される。 | |
1737 | 九月朔日(ツイタチ)、大風雨洪水あり。 | |
1743 | 八月八日、大風雨洪水あり。 | |
1751 | 下徳丸の興聖寺、更に總持庵(そうじあん)の奮地(現位置)に移転する。 | |
1762 | この年三回の洪水あり。初回は六月廿五日、次は七月十五日、次は八月八日なり。 特に出水が大きかったのはは八月八日です。 | |
1769 | 八月朔日、大風雨洪水あり。 | |
1774 | 上徳丸字宮前屋敷に在りたる上徳神社を金谷渡乗越の北方に移転する。 | |
1778 | 七月十日、大風雨洪水あり。 | |
1791 | 六月十二日、大雨洪水あり。 | |
1804 | 八月廿八(28)日より強風雨、やがて辰巳(南東)の風北東風に変じ、廿九日夜八ッ (今の午前二時)に出水す。水は次第に堤防の上を越して、しまいには三丈三尺 (12m50㎝)に及び、大野川筋におけるる溺死者三百余りを数える。このため、 御足米が三百八十石九斗四合支給される。 水害後は非常の凶作になって大飢餓 となり、草根を掘り、あるいはカヅネつる(調べるが何かわからず。)、彼岸花等 の根を取りて湯がき、煮たりして食べた。此の年は甲子(このえね)だったので、 これを大子の年の飢餓という。こうして当時このような惨状な状態になったのは 穀止の制があったためだといえる。 <参考> 不動穀 〙 奈良・平安時代、諸国で非常用に備蓄された穀物。和銅元年(七〇八)、 国の大税をさいて不動倉に納め、これを非常用備蓄としたことに始まる。 官裁を経ないでこれを消費することは許されなかった。 | |
1816 | 九月強風雨洪水。人畜の死亡家屋の流失少なからず。御足米三百五十九石がでる。 | |
1823 | 六月二十九日 興聖寺全焼する。 | |
不詳 | 八月十一日、九月二日に再度大風雨洪水あり。御足米四百三十四石六斗が給与される。 或る年彼岸(春か秋か不明)の折、常行福道小路の某家から失火し、折がら西北の風 強く吹き、且つお寺詣りで家にいる者が少なかったので消防の手も及ばず、見る間に 常行七割方を灰塵となり、 飛火は関門の下郡(?)に及んで、こゝでも火災を起し、 更にその飛火は対岸鶴村に及んで、ここでもまた火災を起した。 実にまれな火災で被災家屋は百五十を下らないと言う。 | |
1832 | 八月大風雨洪水あり。 五足米二百十二石余り支給される。 | |
1834 | 〇〇和尚、下徳丸に興聖寺を再建する。 | |
1836 | 九月気候不順に、加えて洪水があり大飢餓になる。 御足米三百十九石供与されたが、それでも十分ではなかった。 | |
1840 | 若宮八幡社の神殿大改築を行う。 | |
1842 | 六月廿八日の若宮社祭禮(さいれい)に当たり、名がらく中断していた神輿洗の式を 復興して、上徳丸西海寺磧(かわら)に神幸あり。当時神幸は夜分に行っていた。 (注) 神幸とは 祭事や遷宮などのとき、神体がその鎮座する神社から他所へ赴くこと。 | |
1850 | 八月大風洪水で風害、水害が少なくなかった。御足米三百十一百餘出づ。 | |
1853 | 当年より高田若宮八幡社の神幸を、日中に執行することに改める。 | |
1854 | 十一月非常の大地震ありて、人家の倒壊数百軒に及ぶ。場所によっては地面に亀裂が 生じ、泥水が湧水することもあった。 | |
震災後三十日間は、日々微動が絶えることなく、人々の心境は恐怖で安心することは できなかったという。いつものように御足米四百十三石の給輿があった。 当時の落首に曰く 安政と云ふより早く大地震 こんなことなら嘉永でもよし | ||
1859 | 同六年三月、僧日歡一乗寺を再興す。 八月コロリ(今のコレラ) 流行。村々はどこも大注連縄を張りて祈祷(きとう)をする。 当時の治療法としては、悪血を除くといって、上腕の二頭膊筋(上腕二頭筋)に 三稜鍼(はり)を立てたという。 また病人の中には、腹に入り得るだけ冷水を飲用し快復せしもあるらしい。 | |
1862 | 文久二年閏八月九日より、辰巳の風が激しく、翌日には北東風に回って強風雨となり、 途に十日に至りて前代未聞の洪水となる。 大野川の増水三次五尺(所によっては五丈二尺) に及び、鈴鼻を初め、村内堤防の破壊四か所で総延長七百九十六間(1450m)、 流れた家三百七軒、その内居宅五十二軒、 流死男女三十六人、牛馬二十三頭、 耕地荒廃し惨状は非常を極めた。 御足米五百八十五石余りを始めとして、義援金も非常に多かった。 水災後、下徳丸の平井丈右衛門が藩命を受けて、堤防復旧工事に努めた。今丸亀の岸に 立っている断崖の中腹に並べる数基の石塔は、この工事の時、百堂山の山頭から土を取るに 当たって発見されたものである。 | |
1865 | 僧日現、常仙寺を再建する。 | 日限 |
3・村治の概要(高田村政治の概要)
手永
熊本藩にあっては、管内一千八百五十七ヶ村を、五十三手永に区割りし、各手永に御代官兼御惣庄屋なるものを置いて、手永内における一切の民政を総管させた。
こうして五十三手永中、豊後国内には久住、野津原、谷村、高田、関の五手永があったが、本村は改めて言ふまでもなく、この中の高田手永に属している。
庄屋、辨(弁)差、山口
当時本村は、前にも記したように、いわゆる須賀在八ヶ村に分れていて、高田手永御代官兼御惣庄屋支配の下に、各村に庄屋、辨差、山口などいう村役人がいた。 庄屋は村内の民政を掌(つかさど)る公吏にして、今日の村長に当たり、弊差は他藩にて称する小庄屋のことで、一庄屋の下に一二名ずつあり、その職務はちょうど今の助役に書記を兼ねたようなものである。又山口は山林に関するする事務をつかさどるもので、本村にては周囲にあるある壁藪(へきやぶ)のことを取り扱ている。
以上のほか当村には、御家人の中から選任された御別度 見締役となるものが二人いて常に村内を巡視し、村民の風俗を検察して華奢をいましめた。
なお、塘方(ともかた)見締といって、土手、山林、藪等の見締をなすものもいた。
今、幕末における庄屋、弁差、山ノ口の指名を掲げる。
村名 | 庄屋 | 弁差 | 山ノ口 |
堂園村 | 常行村庄屋兼務 | 工藤亀吉 | 丹生熊五郎 |
常行村 | 仲摩専策 | 工藤用八 仲摩金兵衛 | 堂園村山ノ口兼務 |
関門村 | 小手川巳之助 | 小手川亀二 首藤嘉右衛門 | 百堂村山ノ口 中西直右衛門兼務 |
南村 | 首藤四邑治 | 首藤清左衛門 | 首藤栄次郎 |
下徳丸村 | 南村庄屋兼務 | 筒井孫四郎 三重野五郎七 | 南村山ノ口兼務 |
上徳丸村 | 中村半次郎 | 中村才八 | 徳丸改右衛門 |
亀甲村 | 中村寅之助 | 徳丸慶助 金丸政五郎 | 金丸嘉左衛門 |
鵜猟ガ瀬村 | 亀甲村庄屋兼務 | 徳丸市五郎 | 亀甲村山ノ口兼務 |
4・高田会所
高田手永
藩時代高田手永と称したのは、鶴崎村、寺司村、國宗村、小中島村(以上現鶴崎町)、志村(現北海部郡大在村の一部)、迫村、鶴村(以上現北海部郡川添村の部)堂園村、常行村、關門村、下徳丸村、南村、上德丸村、 龜甲村、鵜獵ヶ瀬村(以上現我高田村)、門前村(現戸次村の一部)、冬田村、竹中村、岩上村、伊豫床村、高城村、中野村、中無礼村、弓立村(以上現竹中村) の二十四カ村にわたる、石高五千八百三十三石八斗四升五合八句の地域をいう。 高田所は即ち当手永における民政の執務所にして、当初以來、村内に設置されていた。思うに、我が高田は地理上当手永の中央にあることからなるほどと思われる。
高田会所
会所の長を御代官兼総庄屋という。初め、下徳丸村藍澤市左衛門という人がこれを勤め、寛文から享保にかけては、下徳丸の筒井加右衛門、同半右衛門、同助の三代がこれを世襲したが、筒井氏が鶴崎御浦奉行に転じたため、関門村の高田傳左衛門、同彌三右衛門なる人、享保、寶暦の頃二代世襲してこれを勤めた。しかし彌三右衛門は、在勤中、失火のためその役を免ぜられ、寶暦七年上徳丸の岡松作右衛門之が任じられ、以来、後世岡松家が継承するところとなった。明治三年二月に至るまで、八世百十四年間続けた。 下記一覧表のとおりである。(この表は当HP「輪中のさと」で作成した一覧表を利用しています。)
① 高田(藍澤)市左衛門 | 寛永十年(1633)~万治元年(1658) |
② 高田(筒井)半右衛門 | 万治元年(1658) 八月~延宝六年(1678)3月 |
③ 高田(筒井)半右衛門 | 延宝六年(1678)3月~元禄11年(1698)2月 |
④ 筒井半輔(助) | 元禄11年(1698)2月 ~享保7年(1722) |
⑤ 高田(片山)伝左衛門 | 享保7年(1722) ~享保12年(1727) |
⑥ 高田(片山)弥三右衛門 | 享保12年(1727) ~宝暦7年(1757) |
⑦ 岡松作右衛門(真勝) | 宝暦7年(1757) ~宝暦13年(1763)6月 |
⑧ 岡松数右衛門 | 宝暦13年(1763)6月 ~寛政11年(1799)4月 |
⑨ 岡松作右衛門(勝亮) | 寛政11年(1799)4月 ~文化3年(1806)3月 |
⑩ 岡松貞之允 | 文化3年(1806)3月 ~文政5年(1822)2月 |
⑪ 岡松角野伸 | 文政5年(1822)2月 ~文政7年(1824)12月 |
⑫ 岡松数右衛門(真友) | 文政8年(1825)3月~天保7年(1836)3月 |
⑬ 岡松幸助 | 天保7年(1836)3月 ~天保10年(1839)3月 |
⑭ 岡松俊介 | 天保10年(1839)3月 ~明治3年(1870)1月 |
⑮ 野田敬之 允 | 明治3年(1870)1月 ~ 明治3年(1870)2月 |
⑯ 郡野一兵衛 | 明治3年(1870 ~ 明治3年7月 |
御代官兼御惣庄屋 の 下に、根締手代一人、下代四人、小頭二人、加人小頭一人、見習若干人名。このうち、見習には弁当見習と自勘見習との二種がある。自勘見習とは自費見習のことで、見習の初め二三年間これを勤めいるのが普通である。こうして事務になれてから弁当見習に進みて、一人扶持(米五合余り)を受けるようになる。今最終の惣庄屋岡松俊助就職の初期、天保十年(1839年)における高田会所職員録を掲げて、その実例を示したい。
代官兼惣庄屋 | 岡松俊介 | 上徳丸村の人 |
上見締手代 | 工藤市郎次 | 堂園村の人 |
根締手代 | 十時順之丞 | 上徳丸の人 |
下代 | 藤野次郎右衛門 | 志村の人 |
〃 | 片山平作 | 寺次村の人 |
〃 | 徳丸勘助 | 亀甲村の人 |
〃 | 平井良助 | 下徳丸の人 |
小頭 | 小手川丈之助 | 関門村の人 |
〃 | 首藤専助 | 迫村の人 |
加入小頭 | 安達村太郎 | 寺次村の人 |
見習(弁当) | 工藤龍之丞 | 堂園村の人 |
〃 | 十時勝助 | 上徳丸の人 |
〃 | 橋本虎次郎 | 伊豫床の人 |
見習(自勘) | 片山善次郎 | 寺次村の人 |
〃 | 徳丸伝三郎 | 亀甲村の人 |
〃 | 平井鹿太郎 | 下徳丸村の人 |
〃 | 大島健太 | 中無礼村の人 |
各職員の俸(ホウ 手当)は、寶暦十三年(宝暦1763年)の布達(行政命令)によれば、惣庄屋百石、手代九石、下代七石、小頭六石、加人小頭三石と規定していた。
5・波奈之丸
当ホームページの「首藤家と波奈之丸」も参照してください。 👉首藤家と波奈之丸
さて沿革ではないが、常行首藤家に保存されている波奈之丸は、旧藩時代におけるちょうどよい一つの記念物であるから、本章が終わるにあたり、少しこれについて説明しよう。
波奈之丸砌
波奈之丸は、藩主細川侯が江戸へ参勤の際、鶴崎より乗り込んだ千石船で、船体はすべて日向産の樟(くすのき)材を用いていた。その構造がどれほど緻密で華美だったかは、今鶴崎の剣宮及び神宮に奉納されている同船の額図を見てもわかるところで、今首藤家に保存されているものは、殊にすばらしい同船の屋形だとしている。
屋形
屋形は上の間、 下の間の二室から成っており、各縦約九尺、横約一丈あり縦縦の外側には、左右に各一尺八寸幅の縁を通す。上の間はこの縁と同じ高さに設けられ、藩主が乗船中起臥する(寝起き、日常の生活)をされた所で、室内の高さ五尺六寸あった。下の間は上の間より約一尺三寸低く、ここは御側衆が控えるところだったので御次の間ともいう。上下両間とも、天井は黒塗の格天井に、細川家の定紋たる九曜星をちりばめた鍍金(ト メッキ)の金具を施し、格子目の区切りには、各種草花の彩色図を描き、金碧燦然(きんぺきさんぜん)と互いに映えていることは、さすがに五十四万が石大藩の面影が偲ばれる。又上の間の左右背三面には、桜花爛漫たる光景を描き、之に対照して下の間の同じく三面には、夕陽に燃ゆるが如き秋の丹楓を画いている。更に御居間の正面には、幅四尺八寸の床があって、その右方上部にある袋戸棚には、粟に鴉の彩色図を描いている。その他柱、敷居等はすべて朱塗りで室内にはもと高麗ひもの畳が敷かれていたという。
保存に至る過程
本船は、旧藩時代には鶴崎新堀の御入に係留されていたが、維新後、廃藩の払い下げとなったことで、本村の素封家(官位や領地はなくとも財をなしている、民間の者を指す言葉。 商工業の資産家や農村の地主など。)常行の首藤長次郎が金一千両で購入し、私有するようになる。よって鶴崎から乙津川をさかのぼって、常行〇(不明)戸の下まで引き上げ、同所にて船を解体したが、屋形の部分は記念としてそのまま保存することにしたため、今日でもその姿を見ることができる。
扁額(ヘンガク 室内や 門戸にかかげる横に長い額)
波奈之丸の付属品の中で主要なものとしては、 船名の扁額、船印の屏風、鐘等がある。特に扁額は横五尺三寸、総二尺四寸の大面で、中に「波奈之」の三文字が大きく書かれている。実に細川第十二代の藩主齋護(現主護立候の祖父)の筆による。
<注>扁額は上記写真の左端に見ることができる。
第二章(その2) 3・明治以降の高田 に続く
👉 第二章(その2) 3・明治以降の高田