高田公民館 所蔵

前回、松尾芭蕉の石碑について書きましたが、その建立者ではないか、と言われたのが中村黙二です。高田村初代村長です。どのような人だったのでしょうか。
 調べてみようと思ったのですが、資料は余りありません。現在ある資料の中からアップしてみようと思います。

※なお、新しい資料がわかれば更新していきたいと思います。



 👉松尾芭蕉の石碑

1) 戸長と在職期間

明治維新後の高田の行政の流れを簡単に書いてみようと思います。

詳細は下記を見てください。

👉高田の長はどのようにかわったか 

明治維新後から高田村まで (戸長について)

  • [明治維新時] 高田は[亀甲村・上徳丸村・大鶴村・鵜猟河瀬村・下徳丸・南・常行・関門村・堂園村]の9村だった。
  • 明治6年には 大区小区制 が実施され高田は第3大区(大分郡)第11小区に指定ます。これにより高田の各村は大分郡に属する。
  • 1875年(明治8年) 丸亀村(亀甲村・上徳丸村)鶴瀬村(大鶴村・鵜猟河瀬村)下徳丸村・南村・常行村 関園村(関門村・堂園村)の6村に合併。
  • 1889年(明治22年)4月1日の町村制施行により、高田の6村丸亀村鶴瀬村、下徳丸村・南村・常行村 関園村が合併し、大分郡高田村になります。

 [参考]
高田村志によると各村を上と下の二部制にしていたそうです。上の役所と下の役所に分かれ夫々に戸長を置いていました。
【上】戸長 中村黙二  丸亀村・上徳丸村・下徳丸村・南村 
【下】戸長 仲摩専策  常行村・関園村

(注) 戸長
政府は江戸時代からの庄屋、名主、年寄、大庄屋等を廃止し代わりに、大区には区長、小区には戸長を置きました。

(2) 歴代村長と在職期間

👉高田郷土史 <高田自治体のおこり>

大分郡高田村は、明治22年の町村制施 行により、堂園村、常行村、関門村、南村、下徳 丸村、上徳丸、亀甲村(大鶴村を含む)鵜猟河瀬(うりょうがせ)村の須ケ台八ケ村が合併して誕生しました。 昭和29年3月 には、鶴崎町、高田村、川添村、明治村、松岡村の5ケ 町村が合併して鶴 崎市が誕生します。
 この64年間の間、高田は大分郡高田村でした。 そして、その初代村長になったのが、中村黙二です。
その中村黙二在職中には明治26年の大水害も発生しています。

  高田村歴代村長

中村 黙二  明治22年5月~30年4月
仲摩 孫 七  明治30年4月~明治 31年3月   
中村 四郎  明治31年3月~大正2年11月     
工藤 一雄  大正3年5月 ~ 大正11年5月
岡松 準平  11年6月~昭和4年
重藤 久  昭和4年~昭和8年
岡松 準平  昭和8年~昭和9年
首藤 茂三郎  昭和9年~昭和12年
重藤 久  昭和12年~昭和16年
首藤 親人  昭和16年~昭和19年
岩尾 亀雄  昭和19年~昭和21年1月
三宮 護(代理)  昭和21年1月 ~ 昭和22年1月
中村 壽徳   昭和22年5月~昭和24年
工藤 昭三   昭和24年~昭和29年3月

これらのことから、中村黙二は戸長として14年近く高田村長として8年、計20年以上高田の行政の長として貢献してきたと思われます。
 (戸長として14年間されたかは不明)