鶴崎地区の歴史に興味のある方が集まって「ふるさとの歴史教室」が、鶴崎公民館で毎月一度開催されています。
そして、年に一度、会員に配布する会報誌として「研究小報」が発刊されています。(現在、39刊まで発刊されています)
 高田地区からも、かってこの会の会長もされていた高田信一氏など10名近くがこれまでに所属されていました。

今回、その会報(第11集 昭和63年度)の中で 高田輪中[須が在八か村]が掲載されていました。執筆は常行の 毛利 太喜氏です。
 この記事ほど、高田地区の水害その時代についてわかりやすいものはないと思います。
高田住民として一度は読んでほしい記事だと思います。

高田輪中 「洲が在八ヶ村」

ここ高田は、 大野川本流と分流乙津川にかこまれ、南北3キロ、 面積35平方キロメートルの大野川デルタにある輪中です。
 輪中とは洪水を防ぐために作られた、 堤防で囲まれた地域を言います。 高田地方は何百年もの間洪水に悩まされたため、住民は石垣を築き、盛土をした上に家
を建てて洪水に備えました。 又、家のまわりには「クネ」という防水林もあります。この高田は大野川の氾濫による大洪水とは切り離しては考えられない輪中地帯です。
 大洪水の歴史も古く慶長6年(西暦1601年)から明治元年(西暦1869年)まで 268年間に40回の洪水記録が「高田村志』に記されています。 明治元年(西歴1869年)以降も昭和25年まで高目の洪水被害は続いたのです。☆明治26年(1893) 10月14日の大洪水は、江戸時代始まって以来の大水害と言われ、堤防の決壊箇所 9箇所、死者84人、流失家屋93戸の大被害の記録も、現在高田公民館や、 高田小学校に保管されています。
 ☆昭和18年 (1943)9月20日の大洪水は、40年ぶりの大風雨となり17日より3日間降り続いた雨量は、 大分地方で 578 ミリ (24時間150ミリ以上の大雨洪水警報) 大野川上流では 600 ミリ~700ミリと記録されています。 堤防の決壊3箇所、死者18人流失家屋32戸、全壊家屋6戸、半壊家屋 300 戸、 この洪水で高小学校の児童4人が命をうばわれました。
『高田風土記』によると、 高田輪中には霖雨の時の水はけ用水路が二つあった。上徳丸から関門の東を通って大川に入るものと、 亀甲から下徳丸の西を流れて常行から西川に入るもので、 洪水時にはこれから逆流したとある。 また 「高田村志』には「増水する時は濁流溢れて徐々に下流より押し上がるを常とする」 とあり、はんらんごとに起こる静かな逆流は上流から運んで来た沃土を、 高田輪中に堆積したのです。 堤防に限られて尺寸の拡大発展の余地もなかった輪中内の人々は、この沃土を基盤として畑作農業を中心生業とし、併せて野菜販売、 鎌鍛治と入鎌業、 あるいは日雇いかせぎや出かせぎなどに従事してきたのです。 大野川のもたらす沃土の恩恵は宮河内や戸次地方も同じで野菜の特産地として知られたのです。

輪中のことば

輪中    岐阜県に輪中の地名があります。 周囲を川と堤防に囲まれている地帯をいいます。

くね    防水林、家の周囲を大きな椋、槙、榎、 杉垣又は竹林等で囲むのです。
      👉くね

石垣家屋  道路上に盛土をなし石垣をめぐらした庭から一段高くてしらえた土台の上に建てられてい
      る家屋です。
      👉石垣家屋

倉     上記の敷地にさらに一段高く盛土と石垣の上に建て水害から大事な物を守り保管する建物
      のことです。 

溢流堤    増水と共に本流より支流に水を流し堤防の決壊を防ぐ土手のことです。

さぶた   (水をせき止める物、 高田は道路に水があふれるため道路に設置しました。)
      👉高田のさぶた

しりごみ   (下流より逆流浸水すること、 高田洪水の特徴です。)


水じまい   (床上浸水の準備をし畳や荷物を二階や高い箇所に避難させて水や食べ物を準備することです。)


たきもん   (洪水のあと) (ご飯や風呂を焚く燃料、洪水で流れてきた竹や木切れ、枝等を拾い集める
      ことです。)

水見り   (堤防上から増水を見ることです。)


ひやき   (避難中の食べ物で小麦粉をねって焼いたものです。)

     [管理人] 私も小さい時を思い出しながら焼いてみました。

      結果、火加減がわからなかったこと、厚すぎたことにより、きれいな円盤型にならず、破れかぶれのひやきになりました。でも、懐かしの味でした。


他の地区との違い

  1. 地形について
    ① 山がなく低い所に集落がある
    ② 川に囲まれ周囲に堤防がある
    ③ 砂土地質で野菜が良くできる
    ④大きな川に囲まれているので昔は洪水の被害が多かった。
  2. 洪水から守るためどんなことをしたか。
    ① 水害から守るため盛り土と石垣で高くして家を建てました。
    ② 水害を防ぐため家の周囲に大きな樹木を植えました。
    ③ 浸水を防ぐため高い所に大事な物を保管する倉を建てました。
    ④ 洪水の浸水を防ぐため道路にさぶた(水をせき止める) を作りました。
    ⑤ 浸水した水が早く引くように堀(水路)をたくさん作りました。
    ⑥水から守る家の構造を考えた
     屋根裏に二階を設けたり、床を高くして床板の代りに竹を使いました。
    ⑦ 慰霊碑を建て毎年供養をしました。

   宝塔様まつり 4月 (鶴瀬地区) 
   川まつり6月 (堂園、 関門地区)

   👉水難者慰霊祭
   👉宝塔様
   👉川祭り

3・洪水で困ったこと
① 洪水が出ると家や作物が流され、多くの人や家畜の命を失いました。
②昔の古い記録や大切なものが水に流されました。
③洪水が出ると橋が流され渡し舟も使えず医者の家に行けず困りました。
4・洪水で良かったこと
① 洪水で悪い土を流し良い土を運んだので土地が肥え病虫害もなくなり作物
が良くできました。
②村全体がお互いに助け合い、 気持ちがつよくなって団結しました。
5・昔のくらし
①高田は川に囲まれていたので他の地区に行くのに渡し舟や浅瀬を渡って行
きました。
②大野川の下流で砂鉄が取れたので刀や農具を作る 「かじゃ」が多かったの
です。
③子供は朝の暗いうちから家の手伝いを良くしました。

※(記事に御協力下さいました高田公民館の中村英夫主事に感謝申上げます。)

県内務大臣への報告文


明治26年10月14日大洪水、県の 「 10月27日臨水第14号内務大臣へ報告」
に災後の鶴瀬の状況を「四凄愴トシテ鶏犬ノ声ナク、而シテ々タル上二
然佇立スル老アリ、 潜烈沸泣スル小婦アリ、又高呼喚叫以テ母ヲ追フノ児女ア
リ、或ハ死体ヲ捜索物色スルノ壮丁アリ、 臨視救済ニ関スルノ吏員等之ヲ訪フモ
茫然トシテ応スル所ナク、 唯摧残、樹梢二流塵ノ掛留シ、凄風二歴乱スルアルノミ
鳴呼世間何物カ又之二比スルノ惨害アランヤ」と記しています。

防水風雨の屋敷作り

屋敷地の囲りに竹木林を育てたのも洪水から身を守る手だてです。 このように各部落の中でも水害に対する備えは、確実に整えられました。 川石などで積み上
げて石垣を築き、その上を屋敷地とし、少々の洪水では浸水しない工夫が施されました。 又狭い道路には主な個所に、左右の屋敷地の石垣を利用してこれに溝を
堀り込み、この溝にサブタと言ふ板をはさみ込んで道路を流れ来る河水をせき止めて、其の間に「水しまい」をする等々の工夫をこらしました。
石垣積みの屋敷地や、 竹林及屋敷内のクネ木等の景観は、水との厳しい闘いを繰り返す 「高田輪中」を象徴する物でした。

現 在

昭和18年(1943 ) の大洪水以来、 河川の工事もほぼ完成した今日では、近年に建築した家は盛土などの水防対策はほとんど考慮されていないようです。
又、旧家屋にいる昔しからの人も家を新築する場合、 前の敷地より低目に地ならしするようで、近代的堤防に対する絶対といってもいいほどの信頼感からか一
般に水防意識の低下がうかがわれます。 現況昔の思出の「クネの木」の椋の大木も(小学生当時より友人と椋の木に登り良く熟した実をもいで食べたものです。)
次々に切り倒されてゆくことでしょう。災害は忘れた時に来る、 此の輪中に育った我々は、 祖先よりの教訓を肝に命じて忘れる事なく日常の生活に精だしましょう。

毛利氏記事に掲載された写真  

現在のどこだろうと探しているが30年以上前の写真のためまだ捜索中。

石垣
石垣
クネ
クネ