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[令和5年1月22日]
宇佐市の県立歴史博物館で豊後刀の企画展が開催されている。また、数日前から新聞でもそのことが取り上げられている。
紀行平の地、高田を代表して宇佐・県立歴史博物館に足を運ぶ。(ついでに宇佐の初詣ウォークに参加をする。)
豊後刀といえばもっとも有名な刀鍛冶は「紀行平」である。そしてその活動した場所が鶴崎の高田地区として伝えられている。
今回、企画展を見て記念講演にも参加したが、どちらにも紀行平が中心に出てくる。講演では講師の刀匠が今、紀行平の刀作りを目指しているという。
また、企画展示場では紀行平のブース、平高田ブース、藤原ブースと特別に展示されている。ここまで強調して展示されていると高田の者としてうれしいような、気恥ずかしいような気がする。
宇佐・県立歴史博物館 企画展「おおいたの名刀」
来週から展示内容が一部変更されるそうです。
記念講演・企画展
記念講演 「今なぜ刀をつくるのか」
講師 興梠 房興
この講師の話の中で、紀行平の粘りのある地金を目指している、という言葉が強く残っている。
この講話では砂鉄から刀ができるまでの話。刀の良し悪しの見分け方、刀の歴史等おもしろい話が続き、2時間があっという間に終わってしまった。
現代刀
-今なぜ日本刀をつくるのかー
明治9年(1876) の廃刀令によって、日本刀の需要は
全国的に激減。 このため、 大分県では野鍛冶に転向する刀工が多かったという。 それでも、数少ない刀工たちによって本県の刀剣史は受け継がれ。 しかし平成3年、 日田市の本荘国行 [ほんじょう くゆき] 刀匠が引退し、その歴史は途絶した。やがて、 平成27年に興梠房興 [こうろき ふさおき] 刀匠(竹田市) が、 令和元年に平清明 [たいら きよあき] 刀匠 (大分市)が相次いで作刀を開始し、本県の刀剣史は再び動き出した。
興梠刀匠は、 生涯現役を続けられる仕事であり、またモノをつくり出す職人への憧れなどから刀匠を志したという。 興梠刀匠が考える豊後刀とは、 大分県の気候や風土、そのなかで暮らしてきた人々の気質を反映した日本刀であり、多少の欠点さえ許容する 「おおらかさ」があるという。
その上で、名工行平の地肌を再現することを刀匠としての目標の一つとされている。
平刀匠は、「豊後刀とは何なのか」 -この探求に心血をそそいでいる。 古来、 高田鍛冶は、大分郡高田村(現大分市鶴崎)で多くの作品を作刀した。 平刀匠は、現在の高田地区に刀工をはじめとした鍛冶職人を集めて、往時の職人地区を再現することを目指している。
なぜ刀匠は日本刀をつくり続けるのか。 二人の豊後刀工に共通するのは、わが国の基層文化を形づくる重要な要素といえる日本刀と、これに関わる文化を未来に伝えたいという熱意である。 特色ある歴史に彩られた大分県の刀剣史は、興梠刀匠と平刀匠によって確実に受け継がれている。
<左写真 企画展のパネルより>
豊後の名刀 企画展
行平 大分最高の刀鍛冶
紀 行平 ブース
紀行平に関する記録や刀を写真で楽しんで下さい。
後鳥羽上皇 御番鍛冶と紀行平
紀行平の名刀
展示番号8
文化財
太刀
大分県指定有形文化財
銘 「豊後国行平作」
平安時代~鎌倉時代 (12世紀)
刃長79.4cm 反り1.9cm
大分県立歴史博物館所蔵
細身で長い刀身に小さな鋒、腰反
りが強い古雅な姿で、 時代の特徴を
よく表している。 わずかに起伏する
直刃 [すぐは] は、手元を焼き落と
している。 また、刀身の腰の表裏に
は、梵字と倶利迦羅竜王 「くりから
りゅうおう」 の彫刻があり、 行平の
作風をよく伝えている。この太刀
[たち] は、 もともと紀州徳川家に
伝わっていたものである。
展示番号9
県指定
文化財
太刀
大分県指定有形文化財
銘 「豊後国行平作」
平安時代~鎌倉時代 (12世紀)
刃長68.4cm 反り 2.8cm
個人所蔵 (大分県立歴史博物館寄託)
前出の太刀 と同じく、細身の刀身を
小鋒に結び、 腰反りが強い古雅な姿
である。 ほぼ直線的な直刃は、やは
り手元を焼き落としているが、これは
行平の作品の特徴といえる。
刀身の表には、 腰部に倶利迦羅竜王
の彫刻があり、これも行平の作風を
よく伝えている。
展示番号10
銘 「行平作」
平安時代~鎌倉時代 (12世紀)
刃長26.0cm 反りなし
大分県立歴史博物館所蔵
板目肌に杢目肌 [もくめはだ」 が
交じる地肌は精美で、 刃文は直刃を
焼き入れて、 やはり手元を焼き落と
している。 刀身の表の腰部に二つの
梵字、同じく裏の腰部に倶利迦羅竜
王の彫刻がある。 前出の太刀 (作品
8) とともに、 もともと紀州徳川家
に伝わっていたものである。
展示番号11
銘「豊後国行平」
平安時代~鎌倉時代 (12世紀)
刃長22.2cm 内反り
大分県立歴史博物館所蔵
研磨によって本来の像容は失われ
ているが、 倶利迦羅竜王とみられる
刀身彫刻がある。 きわめて焼き幅の
せまい直刃は、 手元が焼き落とされ
ておらず、行平の作風とは異なる点
もある。この短刀は、 豊後守護大友
宗麟 [おおとも そうりん] が、 軍功
のあった宇佐郡の渡辺氏に愛蔵の
茶器とともに下賜したものと伝わっ
ている
13
銘 「豊後行平末高田河内守源本行」
「享保六年仲秋月六拾九歳作之」
(1721)
6
刃長65.9cm 反り1.6cm
大分県立歴史博物館所蔵
本行 [もとゆき] は、 豊後で作刀
を開始し、延宝5 (1677) 年頃に
肥前唐津へ移った刀工。 初め「行
「春」 次に 「行平」、 元禄7
(1694)年に 「本行」に改めた。
本行が一時期名乗った 「行平」は名
工行平と同名である。 この刀にも
「豊後行平末」の銘があり、江戸時
代の刀工にとっても行平が模範とす
べき存在であったことがうかがえる。
平 高田
平 高田ブース
平 高田 解説パネルより
豊後の刀鍛冶平高田
古刀 [ことう] の時代、とりわけ室町時代以降、
豊後刀工の中心的な位置を占めたのは、 大分
郡高田村(現大分市鶴崎) を拠点とした刀工
たちであった。 彼らは、 銘に平姓を切ったこ
とから、俗に「平高田 [たいらたかた] 」 と呼ばれ
ている。 高田村は、 豊後守護大友氏による領
国支配の拠点であった府内町にほど近く、こ
こで活動した 「平高田」 の刀工たちは、 大友
氏の軍事力をささえていた。
平高田の刀工による日本刀の生産は、室町
時代後期から桃山時代にかけて隆盛をきわめ
たが、そのピークは大友宗麟 [おおとも そうりん]
が活躍した16世紀後半とみられる。 彼らは、
大友氏やその配下の有力武将の保護のもと
で、高まる需要に応えるべく、 多くの日本刀
を生産していたものと思われる。
平高田刀工にみる 「美」
実用性に優れた平高田の刀工の作品の評価
は、 現在、 決して高くない。その理由の最た
るものが地肌とされている。 平高田刀工の作
品にみられる地肌は、その紋様が明確にみえ
る 「肌立つ」ものが多く、 また均質な紋様で
はなく、しばしば大模様が交じる 「大肌 [おお
だ」 が出やすい点に特色がある。 とりわけ
大肌は、 平高田刀工の作品の欠点としてよく
指摘されている。
そもそも、平高田刀工の作品は、 戦国動乱
のなかで生産され、 多くの実戦を生き抜いて
今に伝わった。 良質な原料鉄に恵まれず、 丹
念に作刀する余裕もなく、 実戦に送り出され
て生き残ってきたといえる。 平高田刀工の作
品に宿る 「美」 は、こうした歴史の積み重ね
から生み出されたものなのである。
平 高田 ㉓ ㉕
平 高田 ㉓ (平 長盛 作)
23 太刀 【接収刀剣類 (赤羽刀) 1
「銘 「平長盛」
室町時代 (16世紀)
刃長65.6cm 反り 2.0cm
大分県立歴史博物館所蔵
長盛 [ながもり ] は、 平高田随一の名工で、俗に「オサモリ」と呼ば
れて人気が高い。 よく詰んだ板目肌は精美で、刃文には特徴がある。 表
裏ともに手元は互の目乱れ [ぐのめ[みだれ] 中ほどはわずかにのたれ
て先は直刃 [すぐは] に変化している。
平 高田 ㉕ (平 鎮成 作)
25 刀 【接収刀剣類 (赤羽刀) 1
「銘 「平鎮成」
室町時代 (16世紀)
刃長71.6cm 反り1.9cm
大分県立歴史博物館所蔵
平高田の刀工鎮成 [しげなり] の作品。 今のところ、 鎮成の現存作品
は少なく資料的価値は高い。 大きく磨上げ [すりあげ] ているが、 重ね
が厚く重厚感にあふれる刀身は、身幅が広く中鋒がやや伸びて堂々とし
ている。 よく詰んだ板目肌に互の目乱れを焼き入れる。 刃縁には足・葉
[よう] がしきりに入って華やかさがある。
藤原 高田 ブース
藤原 高田 解説パネルより
豊後の刀鍛冶 藤原高田-
江戸時代における豊後刀工は、室町時代か
ら引き続いて高田村を拠点とした刀工たちが
中心的な位置を占めた。 彼らは、銘に藤原姓
を切ったことから「藤原高田[ふじわらたかた]」
と呼ばれている。 藤原高田の刀工は、南北朝
時代の初代藤原友行(ふじわら ともゆき] に始まる
といわれている。 友行は数代続いたとされて
いるが、これ以降、江戸時代にいたるまで藤
原高田刀工のくわしい動向は明らかではな
い。 しかし、江戸時代に入ると、ほとんど姿
を消した平高田刀工に替わって、 藤原行長[ふ
じわら ゆきながや藤原貞行(ふじわら さだゆき] など、
多くの刀工を輩出した。
このほか江戸時代の豊後には、 府内富田鍛
治 (大分市) や甲斐本鍛冶 (豊後大野市) な
どの刀工たちが活動していた。
藤原高田刀工の姿
藤原高田刀工の作品は、その独特な姿に特
色がある。すなわち、鎬 [しのぎ と棟(むね)が
高くなり、全体的に重厚感あふれるがっしり
とした造りになっている。 こうした姿は、実
用性の高さと大きく関係しているものと思わ
れる。一方、地肌は、 平高田刀工の作品とは
異なり、よく詰んだものが多いが、やはり大
肌が出やすいという共通点がある。
作品の斬れ味によって刀工をランク付けし
た寛政9年(1797) 出版の 『懐宝剣尺 [かい
ほうけんじゃく」 』 をみると、 藤原高田刀工の作品
の優れた実用性がうかがえる。 すなわち、「良
業物 (よきわざもの]」 に選ばれた藤原行長を筆頭
に、 「業物」に藤原貞行、 藤原統行[ふじわらむ
ねゆき)、藤原重行(ふじわら しげゆき」がそれぞれ選
定されている。
藤原 高田 (藤原貞行 作)
27
銘 「豊州高田住藤原貞行」
江戸時代 (17世紀)
刃長71.5cm 反り1.4cm
大分県立歴史博物館所蔵
貞行は、藤原高田を代表する刀工。
鎬が高く、 重ねが厚い刀身は重厚感にあふれる。 この刀には、 豊後刀に
は珍しい 「弐ツ胴切落」 という截断銘 [さいだんめい] がある。 試し斬
りを行ったのは山野久英で、 江戸時代前期に江戸幕府の「御様御用 [お
ためしごよう]」 として、 試し斬りや罪人の死刑執行を役目としていた。