高田風土記の亀甲村編では大野川(大川、白嵩川と地域や時代で呼び名が違っている)、乙津川(西側)の川の説明や、洪水対策について詳しく書かれているので、別項目としてここにアップします。

川池水利

亀甲村の南には 大川(大野川)が流れている。村の内の通路の南側
には池があり、あか池と言う。凡そ、二反余の水溜りである。
また、北側に並んで蛇池と呼ぶ二畝余の堀がある。その端は
水吐き水道に続いている。その水道は、下徳丸村の西を流
れて、常行村を通り西川(乙津川)に注いでいる。洪水の時は
これを逆流する。 宝永四年(一七〇七)の洪水に土手が切れて、
その土地凡そ二反程ある所が今は、水溜りとなっている。
宝永の土手切れは、七十間程もあった。 流された家は十三
軒・倒れた家は九十六七軒あったと言う。
○大鶴の東を流れる大川〔此の辺りより下流を高田川とも
言う
〕は、臼杵領上大津留村からつづき、土手外の街道よ
り東土手の辺りに、わずかな芝生が広がり、その下には石
垣を積み上げている。この辺りを鎧鼻(今の宝塔様辺りか)
と云い、洪水の水当りが最も強い所である。 此の土手の東
は亀甲村に続いており、西川(乙津川)は大川の上の八町ほど
南にあたり、臼杵領毛井村の二俣川の辺りより、おのづと
流れ出ている。
臼杵領上大津留の西を通って、臼杵領横尾村との間から
大鶴村の西側に流れ入り、小さな川であるが、洪水になれば、
本川と同じような激流となる。 土地の人の話にはこの両河
について、昔の水の流れで西川〔下流は今の西川の流れで
ない、詳しくは次に記す〕には、船の往来に利用されてお
り、此の川を本川と呼び、東に流れる川は今の本川と呼ば
れる川ではなく、山裾にて分かれて流れていた小さな川
であったと言う。今の本川は元は陸地であったが、寛永前
後の水害によって川となった。この近くの村々では今は
新川と呼んでいると言う。 すべて此の川の近くの土地は
万年貢免除の地であると云っている。 此の川の天正の頃
より以前の上流は、竹中村と臼杵領の利光村の間を流れ
下っており、東には門前村、西には臼杵領中鶴村(中津留
村か)と市村との間を流れている。それより臼杵領佐柳村
の西側と楠木生村の東側の間をも流れて、さらに臼杵領
尾津留の西側を流れて来て、 延岡領松岡の渡し場より三
丁程下流に流れて、今の本川と合流する。[今は、この川
筋は河原になっており、洪水の時は濁流となって流れ
る。〕それより臼杵領の宮河内村と同領毛井村の間で東西
に分流する。西の流れは二俣川の辺りを大津留村の西と、
毛井村との間を流れて、横尾村より北岩船の辺りから流
れ入る。そして、森村や森町村を流れて、延岡領の門田村
と中島村の間をも流れ、幕府料乙津村の南を流れる [昔
此の川の橋守をしていた末孫が現存していると云う。さら
に延岡領の千歳山の下辺りを流れ下り、幕府料鼻高松か
ら海に流れ入る。 ここにて千歳川と言う。
東への分流は、臼杵領宮河内のはずれと、毛井新田の北
から臼杵領浄土寺村と金屋の下を流れて [金屋の碩田井
と云う所、今は入江があり、この入江は往古には上徳丸よ
り渡り瀬に向って金屋街道に出て、臼杵へ往来する道で
あると云う〕 金屋村と上徳丸村の間から、今の本川に流れ
て、白嵩川までに流れる。前々から云われている東西に分
流すると云うのは逆であり、今の通りに流れるのが正常
である。おのずと今の水の流れに成ると云う。 〔以上がそ
の土地の人の話を聞いた通りをここに記す] かくて水流
は変化して、昔の本川は小さな流れとなり、東側を流れて
いたこの小さな川は絶えてなくなり、 浄土寺や金屋村辺
りを流れていた川は溝として残っているだけです。 中期
の頃の新川は今流れている本川となって、水量は多く勢
いよく流れ、須ヶ在での患いとなる。 水害は激しく、洪水
には堤防を破壊し、田畑を穿ち、床・土地は川と成って、
石や砂が入り込み荒地となる。 秋の収穫の時期には、働労
力を失い飢渇(食べ物や飲み物が欠乏) に成るだけでなく
人家は流失し、人馬死亡の思いをもたらす事は、昔よりも
多くなると云われている。 既に万治元年(一六五八)の洪
水では、鼻の土手の街道を乗り越えて、東側百八十間余
り破損して非常の災いを受けたことを前に記した通りで
ある。此のことで、洪水を防ぐにあたって、土手を強化し
作ろうと声がある。[以前の土手は、土を掻き寄せただけ
の小さな土手であったので、それだけで水害も軽かった
と聞いている〕その時の御普請頭は益田弥市右衛門と佐
藤専右衛門で足軽三百人を指揮して日数六十日を交代し
ながら数ヶ月かけ、莫大な費用も使って出来上がった
と云われている。此の鎧鼻の土手は東から西川辺りまで
数百閒の間に土の中を二重・三重の割石を使って堅め、 其
上に乃高さ三丈ほどの土手を東西に築き続けた。これを
本土手と云います。 これに倣って須ヶ在の総囲いとして、
本川と西川の土手を毎年嵩上げなどの修理を行っていっ
た。その後、万治(一六五八)以来も数度土手が切れたこ
とがあり、その費用は夥(おびただ)しく人命も危うかった
のです。寛文の頃に再び土手の改築の時に水の量や勢い
を図って上徳丸・下徳丸・関門の三つの村は古い土手か
ら数十間内側に引いて新しい土手を造ったとの事。
そのために土手の外にも家屋敷跡が残っている所もある。
此の鎧鼻の土手は須ヶ在全体の総囲いであり、堤防の一
番主要な処になっており、此の土手が破損するときは、
前に云った通り、万治以前の災害に等しい災いを被るので、
土手を築き毎年修理を行っている。土手を二重・三重の石
垣で包み、土手の裾を境にして十分の修理が出来てない所
へは、臼杵領大津留の土地を借りて蛇籠・敷石を置き乱杭
を打ち込み、〔以下原文のまま】 (水中には家蒦を入れ其
うえに猶近頃までも丸石を数百艘につみしほど沈めて益堅
固にななれり。
此の塘根正徳の頃までは東より西へ切れ通りて、西川辺り
は竹林にて其の内には地高く畑もあり、又柳・常盤な
ど生い繁りて、洪水の時水を防ぐ故、臼杵領大津留村に水
当強く難儀に及びしよしにて、これを嘆きて剪除けんを
乞うこと頻りなれば、隣端のよしみもたしがたくつゐに
是を剪除しに、東本川より西川は川底低く川幅も狭きに
より、洪水になりては本川より西川へ引き落とす分水強
く成りて、塘根を洗い穿ち本塘数度破損に及びしよし、茲
によって享保の頃塘を乗り越、街道筋より凡そ百間程西
に寄りて、本塘と畑との間北南にわたりて長さ廿間・根張
九間・留三間の横塘を築き、石にて包み塘根洗穿の地を囲
みておのづと壱つの水溜りを設けて斗升池 [凡そ弐反余
あり〕 と号く 〔洪水に本川の分水を量りて西川へ移すごと
きゆへ名とすと云う〕洪水には本川の分水大いに激流す
る故、此の横塘なき時は享保以前にひとしく塘下に住め
るものは、洪水毎に恐れをなし、家を捨て逃げ退むとし、
又西川の水勢本川に勝りて、此の下流南村・常行村の人家
に水当り強く、其の末国宗村・寺司村の塘手を破り鶴崎ま
でも災害を受けとると云う。故に本川よりの激水を此の
池に保ち、横塘に受けなやまして水勢を和らげ、西川へ移
して西での害を防ぎしなり、しかるに宝暦九年の頃より
西川の地下りなるを量りてや、竹田侯より此の横塘を取
り除ヶ東川の水を弐分方西川にうつして犬飼より三佐へ
通船の弁利をなさん事を乞い給うといへども、水害防禦
の備へ肝要なる所の義を解きて、ついに是を辞せられし
となり、懸る所ゆへに横塘築き立以来修理怠らず。【以上
は原文のまま】
○鐙鼻に水尺を測る所ありて、洪水の浅深を注進(しん) す。
○本村井戸四十余、大鶴に十三〔深さ水際まで二間から二間
[半まである〕ともに水の勢いは強い。