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読む前に

高田風土記は細川藩が江戸時代の末期に肥後藩領だった高田手永(旧鶴崎市に近い領土)について詳細に調査した報告書です。
 その中で高田地区に関係するところを抜粋してみました。

👉高田風土記を読む前に

堂園村   (常行村庄屋が兼ねる)


鶴崎御茶屋の南にあたり、大川の河辺を行くこと半里ほど。
※大川は大野川 
この村および常行村、関門村、上徳丸村、下徳丸村、南村、
亀甲村、鵜猟河瀬村の八ケ村を須ヶ在という。また高田在
もいう。
○東は大川を隔てて迫村と境をつくり、南は関門村・常行村
と接し、西は西川 [この西川というのは、鶴崎で裏川という
川の上流で、須ヶ在の西を流れているので、(須ヶ在ではすべ
て西川という)をはさんで臼杵領森町に境をなし、北は国宗村
に接して、およそ東西五丁、南北四丁ほどの地である。

田畑腑税 (省略)

土地糞壌 (土地の地力)


畑地は多くは村の三方面にあって、土地は高低なく、土の色
は白く、多くは真土で地は厚く、地味も良いが耕すには労力
が要る、所により赤ぎちの土もあって、土性がねばく耕すに
は苦労する。東西の川辺の畑は、多く小砂・ごみ土が混じっ
て、柔らかではあるが地薄で、土地としては下畠である。
○須ヶ在八ケ村は、全体が平地で高低は少しもなく、大河が
東西にあるが村内には小川もなく、畠ばかりの地域であって、
土色・土性・地味などの善し悪しは、皆同じで、およそ東西
十五丁・南北二十丁ほどの土地である。冒頭の高田手永の項
で述べたように、両方の大河に抱かれて洪水の患があるため、
大鶴村の土手を中にして、西にかけては鵜猟ケ瀬村から南村
内榎ヶ瀬まで土手を築き、東は亀甲村から上徳丸村・下徳丸
村・関門村まで土手続きで、土手で囲われた土地である。常
行村・堂園村から下鶴崎までは、下流水吐のために土手はな
く、この地一体はまことに一つの洲なのである。 土地の人は
これを琵琶の洲という。百堂山の尾根から須ヶ在・鶴崎の地
を眺めると、たしかに琵琶の形に似ている、須ヶ在は広く琵
の胴で、鶴崎というのは琵琶の弦の根元という意味だとい
う、国宗村の内、琵琶の首という地名は、実に琵琶の「しほ
くび」 の形であり、その先の鶴崎は「つるくら」の形であっ
て、鶴崎というのは「弦のさき」という意味であるといわれ
ていたが、いつの頃からか文字が変わってしまった。
○肥料はもっぱら油かすを使う。 時には小雑魚・鯛などを求
め、また鶴崎から水糞を求めて使うこともある。三里ほど離
れた臼杵領まで出かけて、 株(まぐさ)を刈り、馬に踏ませて
こやしにすることもある。

戸口牛馬


竈(かまど、一家 世帯)は二十九軒、男女百三十人余、馬は十一疋いる。
○村の内、土蔵が一軒ある。
〇持高八石より四石までの御百姓が六軒、三石より弐石まで
四軒、一石より無高までの御百姓拾九軒ある。
○高畝を人口で割ると、一人につき高九斗余畝数は一反四
畝余にあたる。

課役



水夫株二人、助水株一人あって、年々御参勤の時、または
不時の御用の時、出勤する。その外、堤防の普請や、宿駅の
勤めた山 ・木の伐り出しなどに勤める。
また鶴崎の近郊に火事があった時は、駆けつける任務がある。

山林原野


村の東、大川の近くにわずかの松林がある。西の川辺にはわ
ずかの藪がある。また人家の間に藪もあって、御藪畝三反一
畝余ばかり、その外は山林原野はないので、薪・秣などは常
に不足し、ほとんど臼杵領の山地に礼金を出し山札を受けて、
二里・三里余の遠くから一年中薪や秣を運んで、用を足して
いる。須ヶ在八ヶ村はいずれもこの村と同様である。

川池水利



村の東西に大河が流れている。村の中には小川もなく、ただ
霖雨(りんう 長雨)のときなど水が溜まったとき、水吐のための水路が二ケ
所ある。
○村の内の井戸は十九 [深さは水際まで二間から二間半] 水
勢は強い

街道


村の東側に、鶴崎から臼杵への道がある。また西側には、鶴
崎より犬飼への道がある。

産物


麦は裸麦を主に作り、大麦はまれに見かけるだけ、小麦は百
姓が程ほどに応じて作る。裸麦は、国中・こふしという種を
専ら作り、外に道中・船中・黒はだか等を作る。小麦は、紅
ひはだ・いよぼうし・白ぼうしの類を作る。粟は、早物に、
芝居床・あそもどり・石の子・金子・穂ごま、晩物に、甚内
・赤ことり・わさかし・うれしの・虎の尾・志生木粟・おそ
夏粟・万石などを作る。餅粟は、おごま・肥後餅・姫御女
むこだまし・六石・黒ずみなどを作る。また、麻、夏大豆な
ども多く作り、麻はよく延びて土地に合うので、農家の女性た
ちは麻布を織って銀納の助けにする。また近郷には麻が少な
いので畝床で生麻を売ったり、また苧(からむし)にして売った
りする。その外、小豆・里芋・蕎麦・たばこ・胡麻、所によっ
ては、菜種子・ひえ・荏胡麻・唐芋・野稲・ささげなど作るこ
ともある。これらはほとんど、土地の端の日影向き、または
新開地、土手の根回り砂混じりの地などに少しずつ作る。
また、国宗村の項に記したように、牛蒡と大根がここの土地
によく合っていて、銀納のために百姓が程ほどに応じてもっ
ばら作っている。牛蒡は、よく伸び、太く軟らかくその味は
良く、この地の名産となっていて、高田牛蒡として知られる。
冬に収穫すると、鶴崎町・その外近領の農村、府内・別府・
佐賀関・臼杵などに出荷する、四五里程度の近くでは荷を担
って売り歩き、また六七反帆ほどの船が鶴崎に寄って来て牛
蒡を買い、近くの浦辺や瀬戸内の港町、さらに大坂辺までも
積み登り売るものもいる。 大根も太く柔らかでその味は良く、
これも伝馬船・上荷船などに積んで、鶴崎・佐賀関・臼杵・
別府辺りまで売り歩き、この二品の代価を得て銀納の助けに
する者も多い。

余算


この村ばかりではなく、須ヶ在八ケ村とも、農業の暇に女性
は布を織ってこれを売る者が多い。それゆえ、豊後縁布の名
がある。この近郊はすべて土地が狭く人が多いので、農業だ
けでは生活が苦しく、したがって日雇い・出稼ぎなどに出た
り、他の職業を兼ね、あるいは商いをしたりして生活するも
のが多い。この村も左官・木挽きなどを職とする者もいる。
風俗
この村を含めて八ケ村とも、土地が肥えていて、村は自立し
安定していて、間には極貧のものもいるが富民も多く、全体
として派手なところはなく、人柄も良い方で農業にはよく精
を出す。耕作にはきわめて勤勉ではあるが、なにしろ畑作の
みの生産から年貢を負担する土地柄で、本年貢が主で新開地
敵物などはごく少なく、山野の利もなく、村の人口は土地
の広さに対してぎりぎりの、きりつめた地域であるから、村
人の気性もそれに応じて生真面目である。村の住居・ 塀垣な
どは、近くの村にくらべると、丈夫に作り総じて堅固に見え
るけれども、これは洪水の患を防ぐためで、外からは富豪に・・・
見えるがそうとはかぎらない。