👉高田びわのす通信 TOP 👉大分市高田校区自治会 👉大分市高田校区まちづくり協議会 👉高田校区公民館
 👉高田の歴史 👉高田の偉人・人物


発行 百龜創成倶楽部

令和3年に亡くなられた首藤哲男氏は生前から首藤家(横萬の歴史を含む)の資料をまとめて本にするという夢がありました。
しかし、その夢もかなわず、令和3年7月13日に亡くなられました。その夢を達成したいと奥さんの首藤啓美さんとその有志で1年かけてこの度、豊後びわのすの里からたどる「山内首藤物語」が出版できるようになりました。首藤家、横萬、高田の歴史について初耳のことばかりで一気に読んでしまいました。
高田の歴史、高田豊後刀、横萬 の知っているようで知っていない我が郷土高田をもう一度見直してみてはどうでしょうか。
この本の概略を書いてみました。これに興味を抱いた方は書店で購入してみてはいかがでしょうか。
各自治会にも高田校区公民館にも寄付されているようですのでそちらからでも読むことができると思います。(私はこちらからです。)

前書き

首藤という苗字は大分県が一番多く7700人、東京の1500人を大きく上回っています。山内という姓は首藤氏が鎌倉の山内の庄を与えられ「山内首藤」を名乗るようになったからだそうです。そしてその「山内首藤」から山内姓と首藤姓を名乗る家に分かれていったようです。
そしてその子孫であるこの本の著者首藤哲男氏がそのルーツと家系、およびその歴史を全国に足を運んでまとめたものです。
〈全国の首藤氏にも書かれていますが、私の印象としては高田の歴史、首藤家の歴史(横萬を含む) 高田豊後刀 これら高田の人たちに興味のある内容が多かったと感じました。〉

琵琶のかたちをした中州だから「びわのす」

乙津川と大野川にはさまれた輪中地帯の高田はその形が楽器の琵琶の形に似た中洲だったことから「びわのす」と言われました。
しかし、両側が川に挟まれながらも川の水は塩を含み水田も出来ず、大雨が降れば洪水で水浸しになるという地区でした。
米が作れないため、大麦や小麦を作ったり、ゴボウなどの特産品を栽培していました。昭和井路ができる昭和30年代までは弁当と言えば麦飯だったのです。
当時の高田の野菜作りや昭和18年の大水害の思い出・水害対策などが詳しく書かれています。

なぜ水害の村にたくさんの人がすんだのだろうか

ではなぜこれほど大きな水害が数年おきに発生する「びわのす」のこの地に人々は住み続けたのでしょうか。
この地は早くから荘園として開かれ人々が働いていました。そして鎌倉時代に大友氏が鎮西奉行として豊後に入国したときに従ってきた御家人の溝口左衛門尉長繁が高田庄を領して住みついたといいます。そして武士も多く住んでいました。
また、同じように「高田鍛冶」といわれる大友氏や熊本藩のお抱えの刀工がすみ、半農半工の農鍛冶が何十件もあったという記録が残っています。その中に高田の誇る三哲の「紀行平」がいます。

常行の首藤一族のご先祖さまたち

紀行平伝説 〈真野和夫 談〉

〈ここは真野和夫氏の談であり、一つの歴史のとらえ方だと思います。〉

真野和夫氏  考古学者 元県立歴史博物館副館長

紀行平は平安時代末期から鎌倉時代に生きた刀匠で私たちのふるさと高田の刀剣鍛冶の祖と仰がれています。
行平の刀剣としては国宝の「古今伝授の太刀」がありますが、それ以外にも多くの名刀があります。現在の皇室には行平の太刀が「御物 ぎょぶつ」として二口存在するそうです。

紀行平伝説と豊後刀

豊後国のどこの人か

紀行平が実際に高田に住んだかは証拠はなく詳細はわかりませんが、弟子たちがつくった墓が関門にあります。
紀行平伝説を残す多くの場所が国東半島にあります。国東にいたと思われます。その後の流れとして政治的なことで上野国利根庄(群馬県利根郡)に流され、その間に超一流の刀鍛冶の技術に接したのではないでしょうか。
その後の九州の詳細はわかりません。

〈紀行平についてはいろいろな説があります〉


紀行平の墓

刀鍛冶は多くの行程があるため弟子をとり集団をつくって一門を作っていくのですが、行平は一匹狼で後継はいません。流派を作らず、二代目、三代目がおらず行平の門下という者がいないのです。だからこそ、謎めいた伝説的な内相となっているのだと思います。
また、行平は高田には来たことがあっても実際には住んではいなかったのではないかと思われます。
関門の墓も大友氏お抱えの刀工集団が「自分たちの祖先はあの有名な紀行平なのだ」といって先祖墓を作ったというふうに解釈したほうが良いと思います。
〈私はこれまで国東から高田にたどり着いたと単純に考えていました。〉

高田で鍛刀した

ではなぜ、水害の多い高田の地を選んだのか。それは大野川、乙津川の水運を利用したのではないだろうか。また、高田の地でタタラ吹き という製鉄を行ったかは疑問と思われます。高田鍛冶はどこからか玉鋼を入手し高田で鍛刀したのではないでしょうか。

〈私はこれまで川から取れる砂鉄で製鉄していたと思っていました〉

700年を超えて作り続けた高田刀鍛冶

日本刀の五大生産地は大和・山城や備前・美濃・相模などになります。(それらは近畿地方の多くの戦いが行われた地域)で当然かもしれません。高田はそれに次ぐ生産地で多くの刀鍛冶がおり、中世から途絶えることなく700年続いてきた地域はそう多くはありません。
大友氏は九州の雄藩であり多くの戦をしてきたことにより武器としての刀が必要であったとともに、室町時代の明との勘合貿易の輸出品として刀が利用されたと思います。
高田刀は美術品としてはあまり評価されてはいませんが、実戦に使える切れ味や丈夫さが古くから評価されていました。

〈それがのちに高田の農機具が評価された源流だと思います〉

臼杵市歴史史旅館 〈不滅の豊後刀展にて 20221年11月18日撮影〉

高田刀匠一覧   (略)

グラフ 

入れ鎌師と横萬の歴史

高田輪中「びわのす」高田鍛冶集団

びわのすには鎌倉から江戸時代までの700年間にわたって刀鍛冶集団が住んでいました。戦国時代には大友氏に仕え、江戸時代には熊本藩の御用刀鍛冶になり刀鍛冶、農鍛冶が最盛期には50件から60件あったそうです。

刀鍛冶と農鍛冶

びわのすに住んでいた刀鍛冶は六家でいずれも関園に居住していました。そしてそれ以外に分家や野家もおり、下徳丸には鍛冶屋小路という地名まであります。ここで作られた刀は見た目は華麗さはないが、武士の実戦用としてもてはやされたとあります。
野鍛冶がつくったものは自分で売って金にしなければならなかったため、近隣の農家に農機具を持って行って売っていました。これが入れ鎌師の原型と考えられます。

横萬金物店の誕生

上記のように農鍛冶が作って売っていくという商売が発展して日向、肥前、筑前、筑後という九州の半分を網羅する大掛かりなマーケティングを生み出した「横萬金物店」が誕生します。そして横萬のような大きな問屋を入れ鎌師と呼ぶようになります。 

府内藩のドル箱だった浜の市

府内藩最大のイベントとも言われた浜の市(柞原八幡宮の祭礼市)は20日続きその税金は府内藩の大きな収入源でした。
そしてこの市に大阪の大手金物店「長野商店」が出店しており、その番頭さんが同じ常行村出身の幼馴染の仲摩さんで、常行村の地主だった首藤萬之助に声を掛け金物店を手伝ってもらいました。そこで萬之助はその下で金物店の商売を身につけていったと思います。
 幕末にその浜の市で火事があり損害のあった長野商店は以後出店をしないことにします。そしてその代わりをしたのが首藤萬之助です。1864年頃だと言われます。(明治維新は1868年です。)
高田には何十件もの野鍛冶がいたので商品調達には困らなかったと思われます。

越中富山の置き薬方式

横萬という名前は「小路の之助」からきています。お父さんの代から二代続いた名前だったのでよく知られた名前だったのでしょう。江戸時代は村の中に商店を出すことを禁じられていたので長野商店の小売業商を見習い、番頭さんたちに金物の小売りをさせました。商品は高田の野鍛冶が作る農機具でした。そして軌道に乗っていくと使った分だけ後で払うという越中富山の置き薬方式の代えていきます。
横萬金物店から請け買いしながら独立したのが中村伝造さんの「金傳かなでん」で幕末の高田では横萬と金傳の二つの金物商が競い、
明治10年ごろには二店を合わせると売り子が二百人を超えたと言います。

西南戦争の話

萬之助さんには三人の息子がおり、明治5年、長男の百之十さんが地主として首藤家を継ぎ、次男亀吉さんが横萬金物店を継ぎ、三男の清吉さんが亀吉さんの商売を助けるという二手に分かれました。
亀吉さんが金物店を継いで5年後に西南戦争が起きます。

茂三郎さんの妻デンさんのお話 

〈茂三郎さんは亀吉さんの一人息子にあたり、亀吉さんの後を引き継ぎます〉
 横萬金物店の発展していく様子がよくわかります。

(省略) 本を購入して読んでください。もしかして一番面白いところかも。

西南戦争の粟おこし

亀吉さんの商才

初代亀吉さんの戦い

茂三郎さん 大分に進出

2代目茂三郎さん、大分駅前に横萬支店を設ける

生き残った篤さんが横萬を再生

4代目篤さん、太平洋戦争、終戦後の困難な時代を戦い抜く

日本の黎明期のホームセンター

5代目、晃良さんが会社を小売業の「横萬金物店」と卸業の「株式会社横萬」に分ける。
アメリカのホームセンターをみてその将来性を見たDIY「DO IT YOURSELF」事業を弟の哲男さんが担当することになります。
この事業は大きく発展し、昭和63年には「株式会社ホームワイド」に変更。二年後には福岡、大阪に上場します。
平成15年には九州ジャスコ株式会社と株式会社ホームワイドが合併し、イオン九州株式会社になります。

全国でダントツ首藤姓が多い大分県 (以降は省略)

                  百亀荘 (首藤家本家の別荘)            2020年6月10日撮影

【画像クリック拡大】

本の販売について

なお、発行元から頂いた販売先書店の資料は次のようになるそうです。
金額は 定価1200円+消費税120円=1,320円 になります。

販売書店