👉高田びわのす通信 TOP 👉大分市高田校区自治会 👉大分市高田校区まちづくり協議会 👉高田校区公民館

👉高田の歴史


「続高田村志」や「ふるさと講座」等の高田地区の歴史の編纂に取り組んでこられた高田信一氏が昨年に亡くなられ、今年には奥さんも亡くなられました。二人とは歴史関係を通じて懇意にしていたのですが、奥さんが亡くなられる前にふるさと講座にのせる資料として用意していたものが手続かずのまま残っていたので渡したい、と持ってこられました。
 HPにあげる許可ももらい、いつUPしようか、と考えているうちに時間が過ぎてしまいましたが、終戦記念日、盆という時期に合わせてその原稿をのせたいと思います。
 なお、まだ推敲される前の原稿であったため、不明な漢字や字句はかって乍らこちらで推測して書かしていただきました。

南方へ派遣される

私は昭和10年から佐世保海軍工廠造機部で働いていました。昭和18年海軍艦政より魚雷艇整備隊長を命ず、という内命を受けました。私は魚雷艇とはどんなものか調査しました。艦政本部から送付されてきた図面によりますと8m程の木造の船の上に飛行艇のエンジンを取り付けプロペラの回転で空気を切って水の上を滑るようにして進行する構造になっています。魚形水雷(魚雷)を左右両弦に一つずつ搭載して敵艦に近づき、魚雷のエンジンを回転させ敵艦めがけて発進させて引き返す。(むろん、夜陰に乗じて行う)という作戦目的で製造が発令される。
私は第4南遣艦隊(なんけんかんたい)司令部附きを命じられ工員20名と工作兵7名を連れ大村海軍航空廠で1ヶ月間飛行機エンジン寿型や栄型のエンジンの構造や組立法を学び、昭和18年10月中旬に輸送船に乗りこんで呉港を出発し、下関沖で船団(5隻)を組み、駆潜艇の護衛を受け南方に向かいました。

栄エンジン、寿エンジンとは

栄(さかえ)は、第二次世界大戦期に中島飛行機が開発・製造した空冷星型航空機用レシプロエンジンである。戦闘機、隼(はやぶさ)に搭載された。
また文面に出てくる寿エンジンも中島エンジンの一種である。、中島飛行機は第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーであった。戦後はいくつかに解体されその一つが富士重工である。その技術はスバルとして車のエンジンに利用されてきた。

ジグザグコースを取りながら高雄に寄港しました。軍隊経験のない私は他の隊が夕食後酒保(保(しゅほ)とは、軍隊の駐屯地(兵営)・施設・艦船内等に設けられ、主に軍人軍属たる下士官兵や同相当官を対象に主に日用品・嗜好品を安価で提供していた売店。)を開いて隊員が楽しそうにしていたのを始めて知り、高雄の軍需部へ行き酒保の品物の給付を受けました。
高雄を出港してジグザグコースを取りながら10ノットという遅い速度で進み、漸くマニラに寄港しました。陸軍の三隻が残り、一隻が途中で航路をかえ、最後には1隻になり、ニューギニヤの西南にある小島アンボニヤ島のアンボン市に着きました。
 アンボン市は戦前は南支那海におけるオランダ領の総督府があったところです。総督府の跡に第四南遣艦隊がありました。

南遣艦隊とは「ウィクペディアより」

南遣艦隊(なんけんかんたい)は[1]大日本帝国海軍の部隊[2]。 南遣艦隊の符号はKFで、第一南遣艦隊は1KF、第二南遣艦隊は2KF、第三南遣艦隊は3KF、第四南遣艦隊は4KFとなる[3]

私のついたところは第102海軍工作部(本部スラバヤ)のアンボン工場でした。この工場は戦前支那人のオンキーホン所有の小さな造船所で日本軍が接収して艦船の応急修理を行っていました。私がアンボンに着いた頃の第四南遣艦隊の戦況では魚雷艇の必要はなくなっていました。軍事物資を輸送する機帆船の修理がほとんどでした。アンボン発電所の三基ある発電機一台のクランクアームが45度の角度で折れていた、これはまさしくクランクシャフトの捩れ共鳴振動が学術的価値ある資料と思いました。一台の発電機が駄目になったので代わりに遠いクリスマス島に取りに行き、分解して持って帰り洞穴の中に500KWHの発電機を取り付けました。
この頃、ソロモン海域やガダルカナル島沖で激しい海軍の攻防が繰り返されていたころでしょう。こちらは敵機も来なくなり毎日を不安と焦燥の中で暮していました。一年中暑いので去年の出来事か、今年の出来事かわからなくなってしまいますが、ただ、雨季があるのでそれを頼りに考えていました。南方ボケというのでしょう。

高田への帰還

昭和20年8月15日、終戦の詔書が下ったと聞きました。二週間ほどしてオーストラリア兵が島に上陸してきて平穏に武装解除が行われ、私は工場内の機械や器具、資材等を見せて回りました。
 その後、生活必需物資を持って山奥に行き農耕をしながら生活をしました。11カ月後、復員船に乗り込み、呉港に着きました。
そこで進駐軍の検疫を受けた後、汽車で鶴崎駅に帰り着きました。
 大きなリュックを担って歩いて帰っていると自転車に乗った人に声を掛けられ後ろに乗せてもらって家に帰りつきました。家でその話をすると仲摩幸一さんとわかりました。家ではちょうど小麦打ちが終わった日で夕食の支度をしているものや風呂に入っているものもいました。
 風呂から出てきた我が子と初対面をし、1年3カ月の我が子がよちよち歩く姿をみて、嗚呼無事に帰ってきてよかったとしみじみ思いました。