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高田の消防団に入る前に「消防団」の基礎を調べてみました。「消防団120年史」㈱近代消防社を参照

消防署と消防団の違い

消防組織は①消防本部・消防署と②消防団の二つの組織によって成り立っています。
①は一般地方公務員として常駐をし給与を受ける消防職員②は非常勤の特別地方公務員で他の仕事をしながら災害、火災が発生した場合や、消防訓練の時にかけつける消防団員です。

 世界の主要国では大きな都市は常設の消防が、そしてそれ以外では消防団と二つに大きく分けられています。日本のように消防と消防団が連携して協力し合うという体制は世界に誇れる組織と言えるでしょう。
 しかし、日本でも数十年前までは主要国と同じで、一部の大都市に消防組織があり、日本の大半の地域では消防活動は消防団が担っていました。


消防団の歴史

駆付け消防の時代

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組織化された消防組織への移行

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昭和初期の戦時体制下での水火災に防空活動が加えられる

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GHQの案もあり警察組織から分離し、自治体に権限を委譲した体制

江戸時代の消防組織 


 ①町火消(まちひけし) ……町人によって組織される。
 武家火消(ぶけひけし) ……武士によって組織される。
        ②・定火消(じょうびけし)……幕府直轄で旗本が担当
        ③・大名火消(だいみょうびけし)……大名に課役として命じられた

江戸時代には①~③の三系統の消防組織が存在しました。
江戸時代の消防活動は武家火消しから発達しますが、江戸時代後期から幕末にかけては、町火消が武家火消に代わって江戸の消防活動の中核を担うようになっていきました。

町火消し


江戸の町民のための町火消しについて述べたいと思います。また、これは江戸など都市部の話で地方の消防組織はまた違っていたようです。

消防団の発足は江戸時代の徳川吉宗の時代に町奉行大岡越前守によってつくられた町火消しからだそうです。
なお、この時代の消防は「破壊消防」という建物を壊して延焼を防ぐやり方だったようです。

龍吐水


江戸時代の中期に「龍吐水」という水鉄砲のようなものが出始めますが、ぼや程度の火事では使えたとしても本格的な火事には役に立たず、人力による破壊消防が主でした。
それまでは火消しは城や武家屋敷の消防を主とし、まちの火消しは住民が駆けつけて消火にあたったとのことです。その後、大家や商人では独自に火消しをする火消し集団を持つようになりました。これがのちの町火消しになっていきました。
しかし、町家が作成した火消し集団では統制や十分な消火ができず 先に書いたように町火消しが組織されました。
町火消しも当初は町内住民が主でしたが、慣れない作業にけが人が出たりしたため、町内費で火消し人夫を雇い代わりに出動するようになりました。
町火消しは当初は町の火消しのみで武家屋敷の消火には出動はできませんでしたが、次第にその実力が見直され城の消火にも出勤するようになっていきます。
町火消しは町奉行の指示によって組織され公の中に組み込まれていました。
しかし、町火消しは住民が自主的に行う自治組織で、費用は一切自ら町方が払うという地域の自主的な面もありました。この事が消防組、消防団へと引き継がれていったのだと思われます。

[江戸期の地方農村]

地方では「駆付消防」で火事が起きたら住民の全員が集まって消火に当たる というものでした。
その主力は「五人組」や「若衆組」等と呼ばれた若者の集団でこれが重要な役割を果たしました。

 また、高田のような水害にあう所では風水害対策として護岸や堤防の構築、災害時にはこれらを護るため、土のう積み等の労力が課されており、水害への対処が大事だったと思われます。
これが次第に組織化され地方農村等では明治期の消防組に発展していきます。

明治以降の消防組織

②消防組

明治に入っても江戸時代とは変わらないやり方が続いたようですが、明治政府はアメリカや欧米の消防制度を採り入れ徐々に改革をしていきました。
明治5年(1872年)、新政府によって町火消は消防組へと改められ、その活動は現在の消防団へと繋がっていきます。
明治27年(1894年)政府は「消防組規則」を公布し全国的に統一された消防組(消防団の前身)が立ち上げられました。

消防組規則の要旨

府県知事の権限明確化
府県知事(東京府では警視総監)が消防組を設置し、府県警察部(東京府では警視庁)が指揮監督するものとした。
消防組員の階級
「組頭」「小頭」「消防手」の三階級制とした。
消防組費用の市町村負担
警察が消防組を指揮監督するものとしたが、費用は従来どおり市町村が負担するものとした。

③警防団

警防団(けいぼうだん)とは、第二次世界大戦勃発直前の1939年(昭和14年)に、主に 空襲 或いは 災害 から市民を守る ために作られた団体です。警察および消防の補助組織としての任務が課されていました。
これにより、明治以来の消防組は解消し、警防団として同年4月1日に全国一斉に発足され、警察の補助機関として従来の水火消防業務に防空の任務を加えられて終戦に至りました。

終戦時の消防体制は内務省(消防は警察行政の一部として内務省警察局が手掌  戦前まで消防組織は主に警察行政に組み込まれていました)とし、都道府県警察部が事務を手掌し、消防組織は官設消防、常時消防、警防団の三組織がありました。

④消防団

終戦により、軍隊はすぐに解体されましたが、消防の組織はそのもった役目のためすぐには再編はされずに続きます。
昭和21年に警防団令が改正され、防空業務が削除され、水火災の業務を主とすることが明文化されます。
 また、戦後のアメリカの消防のあり方(消防が警察組織に組み込まれていたこと、管轄を地方組織にゆだねる事)などを検討し、昭和22年4月消防団令が公布されました。これにより警防団は解散、新たに全国の市町村に、自主的、民主的な消防団が組織されました。
 しかし、まだこの時点の消防団は依然として警察の下にあり真の自治体消防団になるのはそのあとになります。
警防団から消防団に変わった後も、実際の団員や組織、設備は以前の警防団のままであったと思われます。
GHQ(マッカーサー司令官)からはこれには満足せず、警察を地方分権化し、地方自治体に自治体警察を設置し、警察は犯罪捜査等に専任することとし、その他の業務は他の省に委譲し、できるだけ自治体に任せるようにすることでした。
昭和22年9月(警察立法に関する件)で消防は完全に警察から分離し独立しました。
また、GHQの消防行政官から消防制度の改革案が提出され、それに伴って消防組織法案が作成され、国会決議後、昭和23年3月7日から先の警察法と共に施行されました。この消防組織法は数十回の修正をされながら現在に続いています。
なお、この日3月3日がのちに消防記念日として制定されました。

・消防の任務は消防組織法第1条に「国民の生命、身体及び財産を火災から保護するとともに、水火災または地震等の災害による災害を軽微」と謳われています。
・第二に消防は警察から分離独立し、警察制度の一部門ではなく市町村独自の消防制度となりました。
以降は省略します。

*なお、消防団の詳細については下記のサイトをご覧ください。

消防団の歴史や消防団について 
               総務省消防庁 👉や消防団

雑学 消防記念日とは

消防記念日(3月7日 記念日)  「今日は何の日より」


1948年(昭和23年)のこの日、日本の消防の任務範囲、消防責任を市町村が負うこと、消防機関の構成などを規定した「消防組織法」が施行された。
明治以来、消防は警察の所管とされていたが、これにより条例に従って市町村長が消防を管理する「自治体消防制度」となり、各市町村に消防本部・消防署・消防団の全部または一部を設置することが義務付けられた。
これを記念し、2年後の1950年(昭和25年)2月9日、国家消防庁(現:総務省消防庁)がこの日を「消防記念日」に制定した。広く消防関係職員及び住民の人々に「自らの地域を自らの手で火災その他の災害から守る」ということへの理解と認識を深めてもらうことを目的としている。
この日は「春季全国火災予防運動」(3月1日~7日)の最終日でもあり、全国の消防本部などにおいて、消防訓練や記念式典、消防防災功労者に対する表彰、消防のPR活動など、様々な消防関係行事が行われる。また、2018年(平成30年)に「消防組織法」が施行されて70周年を迎え、これを記念した式典や事業が開催された。