高田の歴史散歩30か所の中で道標を除いて唯一残っていたのが興聖寺でした。興聖寺について続高田村志から引用してしてみましたが、現在の私たちにはわからない点もあるので少しでもわかりやすいよう加筆してみました。
鳳林山興聖寺(ほうりんざん こうしょうじ)は臨済宗(中国禅宗五家の一つで、日本には、鎌倉時代初期に栄西により伝えられました。)
京都市外花園村妙心寺の末派に属し本尊(信仰の根本対象)は阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩の三菩薩で、鎮守は地蔵大菩薩秋葉大権現です。
この寺はもとは別保村字曲の手(現在の金の手) にあって嘉慶元年(1387年) 明室古関和尚が開いたものです。しかし、のち天正(1586年 余談ですが本能寺の変の4年後です。)大友宗麟と薩摩軍の戦いで(戸次の大野川の合戦が有名ですが、現在は合戦祭りで有名になっています)大友は存亡の危機にまで陥りますが、この時の兵火により興聖寺は全勝してしまいます。ただ、兵火にあったのは興聖寺だけでなく高田の多くの古くからあった寺院やお寺(若宮八幡社、常行天満宮、上徳丸天満宮、補陀寺)も消滅しました。
正保年間(1644~1647) 時に6代住職久屋和尚が再建を目指し努力しますが老齢であったため願いかなわずその弟子の祖陽が再建を計画しましたが未完成に終わります。
これを伝え聞いた高田の禅宗に深く帰依していた徳丸貞実は費用を投じて常行の権大に寺を建て、祖陽に願って住職になってもらいます。ここで興聖寺は曲の手(金の手)から高田に移転してきたのです。
その後、興聖寺はふたたび火事で焼けましたが、 又、徳丸貞美の援助で、元禄元年(1688年)に下徳丸字東小路に再建されました。
この地で六十余年経過し、 宝暦元年(1751) 再中興東院和尚のとき、現在の地に移転しました。文政六年(1823) 6月29日にまたも火災で全焼しましたが、 天保五年(1834) に十五世虎 (こかん) 和尚忍猛が檀家の努力で現在の寺を再建しました。旧藩時代には、この村の関門に永珠庵、鶴崎町字下鶴崎に瑞雲寺 対岸の川添村字鶴村に臨川庵と称する三つの末庵を有していました。 境内は七百五十八坪を占めています。
参考資料 👉輪中のさと 高田郷土史 (第1章)
高田村が発足時に一時高田村役場が興聖寺に置かれていました。
輪中のさと 高田郷土史 (第1章) 第一節 高田自治体のおこりと住民のくらし より
鶴瀬、丸亀、下徳丸、南 、常行、関園の6カ 村が合併して成立、旧村は大字となる。村成立により先の明治9年に高田田小学校が発足し、同12年 には下徳丸に校舎落成、同17年には下徳丸の興聖寺に戸長役場 (こちょうやくば 現在の町村役場)が設置される。さらに同26年 に役場が下徳丸に落成。
また、明治34年、高田尋常小学校が新築された時には興聖寺で授業をしていたそうです。