第1回投稿 2021年11月12日

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大分市歴史資料館にて

今日(11月11日)大分市歴史資料館館長 植木和美先生の歴史講話「津々浦々~豊後の港町」を聞きました。その話の中で「参勤交代時に細川藩の殿様が使用していた波奈之丸がかって鶴崎地区高田の首藤家に保存されており、その御座船内を飾ってあった細川家特注の狩野派の屏風(市指定有形文化財)が11月6日~12月19日まで展示されているので見ていただきたい。首藤氏は最近亡くなられましたが、その首藤家が所有していたものです。」

講話が終わると早速歴史資料館に見に行きました。源氏物語絵巻としての屏風と並列して狩野派の一流の絵師の技法で描かれた「波奈之丸屏風(なみなしびょうぶ)」として展示されていました。それは狩野派の金粉を網羅された豪華なものでした。これほどの物が高田のこの地にあったということがとても信じられない気持ちでした。

早速この感動を首藤さんの奥さんに伝えると奥さんも2、3日前に見に行き、その時に館員やこの屏風の調査に広島から来ていた学芸員が特別に説明をしてくれたそうです。その説明によると、この屏風は(2枚あります)非常に価値のあるもので、厳島神社の春と秋の賑わいの風景を描いていますが、春の屏風の方は作成時のままで全く修復はされておらず特に価値があるそうです。

奥さんにこれまでのいきさつを聞くと、かっては波奈之丸の船の管理を首藤家が担っていたのですが、明治維新により波奈之丸が放置されたままになっていました。それを首藤親人氏の祖父が1000両で細川家から譲り受け、50年以上首藤家で保管していましたが、状態の維持が難しく大正10年(1921年)に首藤親人氏(首藤規行氏の祖父)が熊本県細川家にかえしました。そして熊本城天守閣に展示されていたのですが、熊本地震で保管が難しくなり、平成28年から30年にかけて熊本博物館に移築しました。 なお、大分市歴史資料館に展示されている屏風は御座船の備品でしたが、熊本に戻したときに、これまでの保管をして頂いた御礼として屏風は首藤家に残ったそうです。しかし、平成2年に市に保管を依頼したそうです。

首藤家の波奈之丸の屏風

歴史資料館に首藤家の屏風の説明資料がありました。ここに抜粋したいと思います。(青文字)

お殿様所有の狩野派の屏風

大分市の特色ある歴史が残した大変貴重な屏風が当館に保管されています。この度、所有者の許可を得て六年ぶりに公開いたします。その屏風は市指定有形文化財(波奈之丸屏風なみなしまるびょうぶ 厳島神社図)です。波奈之丸とは江戸時代の熊本藩細川氏の御座舟(ござぶね)で、参勤交代で江戸に向かうために豊後鶴崎(大分市)の港に置かれた絢爛豪華な大型船です。

その舟屋形(藩主の居室)の室礼(しつらい)を飾った特注の屏風がこれで、一双の屏風に厳島神社の春と秋の賑わいをそれぞれに描いています。厳島に集う人々の姿をたおやかに、そして確実な筆運びで表現し、大きな金箔を貼り合わせた金雲を画面いっぱいにたなびかせ、上質な群青色の岩絵の具を使って相ノ浦の海を色鮮やかに描くその画風からは、江戸時代初め頃を代表する狩野派の一流の絵師による作品であることを予感させます

下記の写真は首藤家当主故首藤規行氏(11月4日に亡くなられました)から、生前まちづくり協議会にいただいた電子ファイル資料です。

「波奈之丸屏風」(左隻)個人所有 大分市歴史資料館寄託

相ノ浦の商家の様子を描いた六曲の屏風で、秋の町の賑わいを描いたものである。棚引く金雲と洲浜の縁の表現が調和し、それらを背景にした商家や街に集う民衆の姿がひと際栄えている。商家や景物をしっかりと描き、人物の姿は今にも動き出しそうで見るものを飽きさせない圧巻の一隻である。            寸法 179.3×379.6

「波奈之丸屏風」(右隻)個人所有 大分市歴史資料館寄託

波奈之丸の船屋形の室礼を飾った六曲一双の屏風の内、厳島神社の春の賑わいを描いたものである。社殿をはじめとした建物や室内の描写は正確で、松や桜の幹は細く身をくねらせて伸びる様子が描かれている。また、画面の右側の相撲を見る民衆の姿は大きくいきいきと描かれ、自然な動きを見事に表現した風俗画である。   寸法 179.3×379.6

波奈之丸(なみなしまる)と船屋形(ふなやかた)

「細川氏御座船鶴崎入港図」 大分市歴史資料館所蔵

江戸時代、大分の各藩は参勤交代やコメの関西等への積み出しに鶴崎の港を利用していました。

竹田の岡藩は三佐村に岡藩の港を持っており、岡藩領犬飼の船着場から乙津川を下り三佐から出港していました。 また、臼杵藩は家島から、そして肥後熊本藩は鶴崎からでていました。加藤清正が豊臣秀吉から天草の領土をと言われた時に、それを断り大阪や江戸に向かう船の発着場としての鶴崎を所望したといわれています。そして、細川藩はここから参勤交代の船がでていくようになります。

この絵で中央の豪華な船が、細川藩主が乗っていた船で波奈之丸です。波奈之の由来は「波も之(これ)を奈何(いかん)せん」という意味で、この大きくて立派なこの船にはいかなる大きな波が来てもどうする事も出来ないだろうという願いをこめてつけられました。その船に屋形を乗せていたことから御座船(ござぶね )とも呼ばれていました。この御座船は細川忠興が中津で最初に建造したのが始まりです(細川忠興は熊本に来る前は中津、小倉の藩主でした)。

波奈之丸が建造された熊本藩鶴崎作業所跡

なお、波奈之丸は始めは中津、そののち熊本の川尻で造られましたが、のちには、熊本藩鶴崎作業所でつくられました。そこでは船の修理や造船が行われ、波菜之丸もここで造られました。その作業所跡の記念碑が鶴崎橋の西側堤防上に建立されています。(下記写真参照) 

熊本藩鶴崎作業所跡

1834年に第6代の波菜之丸が焼失し、細川10代細川 斉護(ほそかわ なりもり)が再建しました。その焼失の際には熊本藩の鶴崎番代以下鶴崎詰めの役人は全員それまでの役目を取り換えられたといわれています。第7代波奈之丸は1837年に起工し、1840年3月に竣工しました。(年代のわかりにくい人は1868年が明治維新でそれを基準に考えてください)

記録によると波奈之丸の船の長さは18間(約33m)、幅4間(約7m)50挺立て(櫓を50つかってこぐ船)の千石船(米 1000石を積める能力から,江戸時代に普遍化した大型荷船の俗称。)でした。船体の主な材料は日向産のクスノキで、クスノキは材自体に防虫効果があり、 巨材が得られるという長所から 古くから和風建築や船舶などの材料として使用されていました。

新しく作られた船は鶴崎新堀(現在の住友化学工業東門付近)の御舟入につながれ、参勤交代時に使用されていました。ところが明治維新により廃藩置県となり細川藩は熊本県に、鶴崎は大分県になり、参勤交代の制度はなくなります。

そして、その波奈之丸を保管するようになったのが常行の首藤家です(屋号 岩丸)。明治4年(1871年)に廃船となり放置されていた船を首藤家の第8代当主首藤長次郎が1000両で払い下げを受けました。船は鶴崎から乙津川をさかのぼり、常行の関戸で引き揚げ解体します。この時に船の舟屋形(御座所)部分を首藤家に移設し保存します。こうして波奈之丸の舟屋形が国指定重要文化財( 細川家舟屋形)として全国で唯一残ったのです。首藤家では舟屋形のほか細川斉護がかいたという「波奈之」の額、六枚折りの屏風なども保存していました。

その後、洪水が多い地域だという事などで維持管理が難しく、元高田村村長をされていた首藤親人氏(長次郎氏の子息)が以前のお殿様の子孫に返した方がよいという事で大正10年(1921年)に細川家にお返ししたとのことです。屏風だけは記念のために大切に保存しています。その後、舟屋形は細川家から昭和37年(1962)解体修理し昭和38年完成後、熊本城小天守閣に移設されます。そこに安らぎの場を持ったのですが、50年近くたった2016年4月の熊本地震で再度熊本博物館に移設され保存展示されています。その移転の間に天井画などの修復がされます。その内部に描かれた絵画の絵画、特に天井画は特に素晴らしいものだそうです。熊本に行き実物を見てみたいものです。

最後にこれほどの重要文化財が高田の地にあったこと、そして50年近くの間それを保存してくださった首藤家に感謝を申し上げます。

熊本博物館に展示された波奈之丸の船屋形

気づきませんでしたが、舟屋形だけでなく「波奈之」の額も一緒のようです。

「熊本博物館 案内」

-国指定重要文化財 細川家舟屋形

御座船「波奈之丸」は、肥後54万石藩主細川家の参勤交代のために造られた船です。この舟屋形は波奈之丸の中央部にあたる所で、藩主の居間である「御座の間」と「次の間」「御茶風呂」の三室及び二階をもっています。この船は波奈之丸7代目にあたり、1840年建造、明治4年(1871年)廃船となりました。鶴崎の首藤家の尽力で舟屋形が保存され、大正10年(1921年)細川家に移されたものです。その後、熊本の細川邸内に置かれていましたが、昭和38年(1963年)ここに移されました。室内は藩の絵師福田太華の手になる襖絵にかこまれ、天井は171種もの草花や果実の絵で飾られた格天井(ごうてんじょう)で、ことのほか豪華です。7日から10日に及ぶ船旅を慰めたことでしょう。

剣八幡社に祀られている絵馬「熊本藩主細川氏御座船鶴崎入港図(一部)」

鶴崎の 剣八幡社 に御座船の入港図があります

鶴崎剣八幡社の熊本藩船鶴崎入港船絵馬

これまでの波奈之丸及び屏風の流れを、聞いたり、調べた結果をまとめてみました。

               波奈之丸屏風の流れ


首藤次郎兵衛

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