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👉高田の歴史

👉輪中のさと 高田郷土史 第一章
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👉輪中のさと 高田郷土史 第二章最終章


この[輪中のさと]は30年前に書かれたもので現在とは違っている部分もあるとは思いますが、一つの郷土史として読んでいただきたいと思います

第二章 産業発達の歩み

目次

第一節  産業基盤の整備
1・県道と村道
2・ 昭和井路と高田
第二節  産業と住民のくらし

1・ 商工業の発達と金融機関

2・ 農業の移り変わり

3・ 酪農の始まり

第三節   季節の行事とくらし
1. 年中行事一覧表
2. 郷上の地名(大字・小学).岩戸神楽 寺社及び公民館
3. 時代点描
4. 人物編(2) ① 歴代村議会議員 ② 郷土出身著名者一覧
編集後記 従軍者名簿
参考文献

第一節  産業基盤の整備

1・県道と村道

明治42年12月24日 大分の坊ケ小路より滝尾下郡を経て明治、別保、高田、川添、臼杵町 に通ずる間を県道として申請する発起人会が催された。
出席者 滝尾村長 津守植吾 外5名
明治村長 薬師寺新 外8名
高田村長 中村四郎 外2名
別保村長 荒木大九郎
松岡村長 豊岡 学
川添村長 椎原四郎 外4名
明治43年2月 1日 坊ケ小路より下郡、猪野大谷を経て八坂神社前を通り森村乗越、榎ヶ瀬を経て金谷に至る道路とする。
道路委員を各村より2名選出する。

*参考  坊ケ小路  現在錦町に 坊ケ小路 公園という名前があります。アプライト付近 国道10号線と県道21号線(大分臼杵線)の交差点当たり 
     大谷 明野東交差点あたり ヒロセ付近
明治43年8月2日一先づ延期となる。
大正4年5月29日村長、村会議員、区長会等で実施見聞
大正10年3月6日県道編入許可があつた。
大正13年9月高田橋が開通
大正14年12月10日金谷渡しが県費による。公用渡しとなる。
昭和6年下徳丸より上徳丸に至る道路完成
昭和18年9月20日高田橋流失
昭和32年3月川添橋開通(渡 し舟は廃止となる) 長さ274m 巾5.5, 鋼板合成桁橋
昭和33年5月15日高田橋開通 長さ192m 巾5.5m 上部鉄板 下部井筒
大正12年鶴瀬より鶴崎町へ通ずる村道開通
大正13年10月29日登記完了 下徳丸中村健二郎方前より仲摩瀧雄方前に通ずる村道は昭和6年 開通
昭和8年岡松準平村長当時
高田橋より現老人いこいの家迄の県道拡張工事が救済事業として責任者 高田熊夫氏に
ょって行われた。                                     

  (明治村史より一部部抜粋)

2・昭和井路と高田

昭和井路は大正3年 大野郡戸上村に於て近隣町村によって話題となり期成会が結成された。大正井路期成会と呼ばれていた。 高田村が加入したのは、昭和3年で時の村長岡松準平が村議代表首藤親人・区長代表 中村栄太郎氏等と共に出向き加入して既成事実が出来た。
昭和15年10月16日附官報を以て昭和井路として認可された。
高田村には昭和30年 に小手川又吉氏が高田地区開田期成会を設置した。
昭和32年に高田支線竣工
10月には期成会を解散して高田地区水利組合を結成
昭和33年秋始めて水稲が収穫された。
昭和37年 総ての孫線が完了した。
開田面積51町歩余り

*参考 昭和井路に関しては当HPの高田村史(戦後編)にも詳細をアップしています。

第二節  産業と住民の暮らし

1・ 商工業の発達と金融機関

本村の工業としては酒造、鍛治、漬物、下駄等の製造があり最も著しきは鍛治で昭和初期頃まで13戸 ありましたが現在では、竹内政喜氏兄弟の2戸 のみとなり今、尚、宮崎方面へ 出荷されておる。酒造は岡松準平氏が始めて延寿の名号を以て営んでいたが企業整備により廃業する。漬物業では中村二三氏が房の名号を以て丸亀に工場を設立して幅広く県内は無論、県外にまで出荷されており従業員も常時40人~50人位いて、現在は長男の昭一氏が 継いでおる。下駄製造では仲摩澄太郎、阿部武夫両氏が営業していたが両氏共廃業し仲摩 澄太郎氏方は長男義光氏が現在下徳丸で幅広く商業を営んでおる。
其の外、大黒屋高藤虎記、薬店首藤薩喜、酒販売店では仲摩初氏等が営業しておる。トキワインダストリー高田店、まるやスーパー、仲摩スーパー等も出来て夫々営業している。 精米業では仲摩春太郎、首藤勝馬、小手川邦夫、藍沢要氏等がいたが現在では首藤勝馬氏 次男首藤信善氏が食糧、灯油等の販売を広く営んでいる。又煙草、理髪店、豆腐、文具店、 肥料、農機具等の商店が20数軒あった。 金融関係では農協を始め、高田実業銀行(大 分銀行へ吸収合併)。 昭和22年5月には山崎誠一氏が下徳丸郵便局を開局し業務を営み業績を挙げておる。就中(なかんずく とりわけという意味です)高田実業銀行は農村産業振興を目的として設立された金融機関で、その営業区域は鶴崎地区6ケ 町村に及び1 支店3代 理店を設け小規模ながら堅実経営を行是とし営業を続けていたが、戦時態勢下 金 融統制により大分合同銀行に昭和17年 吸収合併された。

2・ 農業の移り変わり

明治、大正、昭和の初期頃迄養蚕業が盛んで本村に於ては財源の一大要素で其の盛衰は 経済に及ぼす事誠に大で あった。
平林利市氏は自ら養蚕室を設置し蚕種業を営み指導に当っていた。村内での桑園面積が実に70町歩余り(耕地面積の1/3をしめていた。)飼育戸数270戸 位で総生産収入金五万円 位。測候所より
日々気象予告電報を受けて天気予報旗を各部落に掲揚していた。産繭の増収を図るため丸亀には乾繭殺蛹(現 能仁寺境内)等も設立された。
野菜では高田午芳と共に名声を博したのが里芋と大根で晩秋より冬期にかけて吹く北風、高田特有の空風を利用して大根棚が村内至る所に掛けられ適期を見計って出荷されていた。 四国より50石船が国宗の揚水場下迄入船、高田より午芳、里芋、大根、千大根等馬車7台で満載となり出荷されていた。関西方面ではこれ等の野菜が無いと盆、正月は迎えられ ぬとまで云われていたと言う。

大正の末期頃より篤農家として表彰された徳丸秀松氏が野菜栽培に熱中し温床を始め茄 子、胡瓜の栽培を始めて普及された。竹でわくを作り藁で組立て綿実粕を混合し水をそそいで発酵させ、熱を利用して種子を播き油障子を覆うてこもをかけ寒気をふせぎ降霜無きを待って畑へ定植していた。 昭和初期、漬物を始めたのが得九軍記氏で倉庫を設置して主に軍関係の御用達で呉を始め朝鮮方面へ搬出していた。オート三輸車が入ったのもこの頃である。得丸軍記氏に続き 丹生克巳氏又農業組合も始めたが三者共企業整備等で廃業した。市場より美濃早生(ミノワセ)大根を 購入して早漬けをして出荷していたのが仲摩福市氏で、現在漬物業を営んでいる中村二三氏も仲摩福市氏より学んだと言う。(早 漬けたくわんの始まりであある。 昭和16年 には食管法が発令され出荷組合を設置した耕作面積の7割が主食栽培で、3割が野菜栽培で食糧の供出が強制され各部落に野菜の集荷場が設置された。野菜栽培が盛ん だった昭和12年には四国より松本商会が進出して来て、トマトエ場を設置してケチャップ、 トマトソース等の加工を始めた。取引は昭和11年 より始っていた。
高田地区野菜 栽培のあゆみ(校区農業)
昭和25年丸亀出荷組合発足
世話人 江藤末雄、江藤幸雄氏
主に丸亀地区を中心にした野菜出荷組合、大分、別府、北九、延岡、宮崎の各 市場へ
露地野菜、魚箱に主に(マクワ、メロン、トマト、キュウリ)ス イカ、里芋、 自菜、午芳等
昭和26年丸高荷組合発足
世話人 長門輝吉氏
校区内全地域より共同出荷体制、大分、別府、北九、延岡、宮崎、広島の各 市場へ
露地野菜、夏期魚箱(トロ箱)を 中心とした容器でマクワ、メロン、トマト、 胡瓜、秋冬白菜大根、午芳等
昭和28年ビニールが出現
光延種苗が紹介
下徳丸、南地区の先駆者のグループで久留米試験場に視察、小さなトンネル型
でトマトを試作
岩尾芳太郎、渕清彦、筒井定夫氏等
昭和30年    ビ二ールの普及拡大
中型竹組単棟トンネル、竹組ハウス考案、 トマト、胡瓜、ナス、ピーマン等、
栽培が爆発的に 発展、面積拡大
昭和32年   鶴崎野菜園芸組合発足
組合長 忠願寺慶広氏  組合員36名
宮崎、静岡、高知県等を視察研修、鶴崎型ハウスを考案、誕生する。
問口3mの連棟式、3 cm(巾)3m(厚 さ)のアングル
昭和35年   4Hク ラブ発足
世話人 小手川又吉公民館長
当時高田地区青年団の産業部を主体に結成、熊本、久留米、高知、順﨑(不明?)、宮﨑 等、先進地視察、花き部門では男子団員も生け花講習に女子団員と研修したエピソードもあります。
昭和40年   土ぶう会発足
世話人 池永二三生、筒井元生氏
高田、川添、松岡、明治の大東校区内で専業農家の後継者グループを中心に野 菜作り、栽培研究会が結成され先進地視察研修を重ねながら共同出荷、共選の機運が高まり原動力となる。
昭和42年   胡瓜部会発足
初代会長  忠願寺慶広氏  部会員36名   昭和42年~44年
二代目会長  村谷 賢市氏   部会員53名   昭和45年~57年
三代日会長  池永二三生氏   部会員38名  昭和58年~現在(21名)
鶴崎農協本所(別保)に胡瓜選果場を建設
昭和43年 昭和43年 2月15日 、 2月21日 の豪雪により鶴崎型ハウス倒壊
昭和43年 経済連1・2号型、ナガサト(長郷)型ハウス導入
昭和44年 ビニールハウスはナガサト型1本に決定  
ネポン(暖房機)全ハウスに普及。県外出荷は京果のみ
昭和47年 AP型ハウス導入
石油ショツクで資材高騰。 7月 1日 大分市農協発足 新選果場操業開始
昭和51年 大分市野菜園芸組合発足
初代会長 村谷賢市氏  二代日会長 二宮直一氏
大分市内野菜全品目で大分市農協生産部会員で構成。
高田校区役員 池永二三生氏
昭和51年 大分市農協みつば部会設立、にら部会設立
胡瓜部会より4名 移行。
昭和52年 2月 1日 大分中央卸売市場開設
(野菜、魚類)野菜関係 植田青果、大分丸果大同青果の二市場
昭和52年 第2次 農業構造改善事業の認定
①開場基盤整備事業 ②ガラス温室建設計画
大分市農協大葉部会設立 滝尾地区の2名
昭和53年 ガラス温室第一次建設
ガラス温室組合結成 組合員11名 で構成 水耕M式 導入について研修。
組合長 岡松康浩氏 品目は大葉、ミツバ、小ネギ、トマト、キュウリ等
昭和54年 大分市農業経営者会発足
水耕M式を導入決定
大葉部会に1名胡瓜部会より移行
普通作部に1名胡瓜部会より移行

初代会長   二宮 直一氏 (昭和54年~59年、3期)
二代目会長 大神 利夫氏 (昭和59年~平成2年 、3期)
三代目会長 池永二三生氏 (平成2年~現在)
大分市内一円で専業農家を中心とした中核農家30 才以上で構成している。
作物は野菜、畜産、普通作、花キ、果樹等全網羅。
高田地区世話人 池永二三生氏

昭和55年ニラ部会(夏作)に胡瓜部会より2名移行
大分市農協小ネギ部会発足 会員7名 胡瓜部会より移行
昭和57年小ネギ部会より2名みつば部会に移行
昭和59年小ネギ部会(大分市農協)廃 会
小ネギ部会より4名 みつば部会に編入、発展的解消
1月の2回に重なる大雪で長郷(ナ ガサト)、AP型 各ハウス被害甚大
施設ハウスに大打撃を与えた。
昭和60年災害復旧事業により現在普及している。 (S、R、H型)大型鉄骨ハウス建設
(フ ァイロン被覆も可能)
平成2年
大分県「野菜生産拡大対策業」並びに「大分県野菜振興協議会」を設置
平成2年度より平成5年度までハウス増設(S,R,H,AP形式)

平成3年 平成3年(1991)3月 現在高田校区専業農家経営品目分布図

大 分市農協 大葉部会 2名
大分市農協 みつば部会 7名
大分市農協 胡瓜部会 14名
大分市農協 ミニトマト部会 5名    
大分市農協 とまと部会    3名  
大分市農協 小物部会   12名
計43名



その他組織共販  胡瓜栽培者   13名
その他組織共販  とまと栽培者   4名
その他組織共販  小物栽培者    8名
計25名

大分県酪関係
畜産農家 9名
米、麦普通作 2名

*全品目では79名 となるが2品目以上作付している生産者が20名いますので
実質59名 で専業農家となっている。

資料提供 池永二三生氏

3・酪農の始まり

本村は耕地面積がせまく450戸 余りの戸数に対して250町 歩程度の耕地で非農家(40戸~50戸)を除くと一戸当り6反歩位。 古きより鍛治職多く農閑期には鎌入等の行商人が多く村内で70人~80人 位いた。其の外 酒屋へ蔵人として出る者も多く30人~40人位居り、言わば半農半商の一農村であった。高 田 風土記によると村内で飼育されていた家畜は和牛8頭 、馬138頭 と記されてある。馬が多 かったのは近郷に競馬場があつたせいと思われる。何れも沃肥が目的であつた。何んとか 確実な副業によって収益を挙げたいと、それには和牛・馬を乳牛に変えて搾乳し牛乳を販 売したらと呼びかけたのが平林利市氏であつた。其の頃、平林利市氏は既に一頭の雑種乳牛を購入、飼育して搾乳し近所の人へ配つていたと言う。早速同志に協力を求めて設立し たのが有限責任高田村信用購売販売利用組合で大正6年11月24日 に設立登記された。 (下 徳丸、今の小学校前、堂園には分場があった)搾乳所いた。其の頃、県畜産課 に前田辰雄技師がいて平林氏に全面的協力し、前田技師の指導の下で最初に購入したのが岡山県より10頭(1頭当たり8か月~20カ月 150円~200円)
飼育者は得九忠人、中村賀那伊、向 正男、中村高治、石川義夫、児玉鹿太郎、 幸栄次郎、平林利市、小手川吉郎治、中村照太
続いてて千葉県より6頭購入
飼育者は丹生福次郎、幸綱雄、丹生 薫、得九周作、本本官吉郎、有田知賀雄
続いて鹿児島県より3頭購入 飼育者は平林利市、幸 林蔵、石川義雄
尚、千葉県より種牛1頭購入
其の名はホルスタイン、フリシャンス、エスアーベー号といわれ同時に乳牛3頭を購入
飼育者は渕仁三郎、筒井類蔵、仲摩美緒 当時の種付料は20円 (但 し3回迄とす)。 乳代は1升30銭で運搬については中古車を購入して鶴崎駅迄、朝夕2回運んでいた。運転手は二宮松造(瀧尾津守の人)取引先は大分牧畜、佐賀関町古山牧畜、佐伯の佐々木木牧 畜、後に石川牧畜と契約する。其の後村内に於ては次々と分娩繁殖されて組合員も増え、一人で3、4頭位飼育する人もいて搾乳する人も50人~60人位と隆盛を極め品評会等を催され社宅も建築されて、小野崎武雄、菅島幸雄の獣医も入っていた。当時一頭当りの乳量20石~30石位で最盛期には一日2斗1升2合の最高記録を搾乳し た。釘宮太加之氏所有の 誉号もいた。其の後堂園分場は分離して堂園更生組合を設立、組合も解散した。
(幸 熊彦氏の手記より)
既に県酪農との取引が始まり多頭飼育する様になり江藤光氏が南に江藤牧場を経営していたが市街化の波に押され公害をさけて大南町の峰に江藤牧場を移転、釘宮奉文氏は新田 に、江藤千明、首藤益三、豊田光昭の各氏は長迫に夫々牧場を経営している。徳丸定男氏他数名は自宅で経営。
江藤光氏、長男源哉氏は県酪農の理事となり現在は、九州乳業(株)の社長として活躍中である。
酪農振興の歩み
昭和25年5月豊田高喜  県酪理事 45年5月 まで
37年 1月 江藤光、 江藤喜妙  高田橋へ移転
45年6月江藤光   県酪理事就任
50年6月 江藤源哉  県酪理事就任
50年       釘宮奉文  川添地区新へ移転
50年6月 首藤益三、江藤千明、豊田光昭 丹生地区長迫へ移転
54年9月 江藤牧場大南地区峰畜産団地へ移転
58年 江藤源哉 九州乳業(株)社長へ就任
昭和31年10月 江藤源哉 大分県畜産共進会に於いて農林大臣賞受賞
昭和52年10月 江藤千明 大分県畜産共進会に於て農林水産大臣賞受賞