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👉高田の歴史

👉輪中のさと 高田郷土史 第二章
👉輪中のさと 高田郷土史 第二章第三節
👉輪中のさと 高田郷土史 第二章最終章


この[輪中のさと]は30年前に書かれたもので現在とは違っている部分もあるとは思いますが、一つの郷土史として読んでいただきたいと思います

高田の歴史を調べている時に[輪中のさと]という冊子を県立図書館で見つけました。30年前の平成3年に書かれたものです。

筆者は中村文明氏です。この中村文明氏はかって高田の3大家(岩丸・横萬・金傳)の金傳(かねでん)の当主だった人です。高田の歴史を後世に残したい、という意思で書かれたものです。そして今回、HPでより多くの人に見せたい、と子息の中村守明氏に話をしますと中村氏から快諾を得ました。

中村文明氏の意図はこの本の序文及び編集後記で十分わかると思います。中村氏の遺志を継いでより多くの人が高田の歴史に興味を持ってくれることを期待します。

また、この本を作成するに当たり多くの協力をいただいたようです。

序文・目次

序文

大分郡高田村は、明治22年の町村制施 行により、堂園村、常行村、関門村、南村、下徳 丸村、上徳丸、亀甲村(大鶴村を含む)鵜猟河瀬(うりょうがせ)村の須ケ台八ケ村が合併して誕生した。 昭和29年3月 には、鶴崎町、高田村、川添村、明治村、松岡村の5ケ 町村が合併して鶴 崎市が誕生、更に昭和38年には新産都の指定に伴ない大分市と合併し今日に至る。 明治、大正、昭和、平成と時の経過と共に郷土も大きく変容した。顧みますれば、大正 9年 に郷土史研究家で多くの著書を残しておられる久多羅木儀一郎、中村寿徳、小手川又 吉の諸先生が編集されて出版された「高田村志」があります。 当時微々たる一寒村で村志が刊行されたこともその当時としては驚異で県下稀有のこと であったと思われます。あれから70余 年、その間昭和18年 の大洪水、そして第二次大戦の 終戦、戦後の混乱と新憲法下での諸改革、さまざまな困難に耐え努力し続けた先哲の方々の 歩みの一つ一つを記録し後世に残しておきたいと思い、浅学非才乍ら敢えて回顧録を記す ことにしました。 後日、その道にい深関心をもたれる学究者によって権威ある郷土史が大成されることを 期待するものであります。大洪水、戦争、合併等で資料の保管が役所にも、個人にもなく、 又長年行政に携つていた古老も今は亡く、全く資料の入手が困難でありましたが幸 にして仲摩貞夫、杉本智勝、金丸次雄、筒井三四士諸氏の絶大なるご指導ご協力を得て出版 のはこびとなりましたことに対し深甚の謝意を表する次第であります。 また出版にあたりましては、得丸デザイン印刷並 びに首藤逸夫氏の格別なご援助に厚くお礼申し上げます。

中村文明

アップした分を太字赤にします。

目次

第一章 高田の歴史

第一節 高田自治体のおこりと住民のくらし

1・刀工とその作品
2・ 高田風土記にみる須ケ在(洲|ケ 在)8ケ 村の規模
3・人物編(1)
  (1) 歴代村長と在職期間
  (2) 歴代助役と収入役  (省略)
  (3) 在郷軍人分会長と青年団長  (省略)
  (4) 婦人会長、農協組合長、公民館長、自治会長 長寿会長
第二節  住みよい郷土をめざして
1・農地改革と公職追放令
2・ 中正会と財団法人奨順社
3・青年団と婦人会

第二章 産業発達の歩み 別ページ

第一節  産業基盤の整備
1・県道と村道
2・ 昭和井路と高田
第二節  産業と住民のくらし

1・ 商工業の発達と金融機関

2・ 農業の移り変わり

3・ 酪農の始まり

第三節   季節の行事とくらし
1. 年中行事一覧表
2. 郷上の地名(大字小学).岩戸神楽 寺社及び公民館
3. 時代点描
4. 人物編(2) ① 歴代村議会議員 ② 郷土出身著名者一覧
参考文献
編集後記 従軍者名簿

第一章 高田の歴史

高田では、人々はいつごろからどんな生活をしていたのだろうか。それを知る手がかり として「高田風上記」「高田村志」がある。それによると、慶長6年肥後熊本藩加藤清正 領、寛永9年 から同細川領、高田手永洲ケ在8カ 村に属し、高田会所支配をうける。と記 されている。高田手永惣庄屋をはじめ藍沢氏、寛文・享保年間は筒井氏、享保宝暦年間は高田氏、宝暦7年からは岡松氏と歴代当村出身者である。村高は「正保郷帳」346石余、うち田8石余、畑338石 余でともに水損所。「寛文郷帳」 「見稲簿」も同高。「天保郷帳」347石 余「旧高田領」391石 余。農閑期には婦女は織物、 男子は日雇他所稼のほか、樋屋屋根葺を業とする者、造酒、揚酒の商札をもって渡世する 者もいた。課役は助水夫3人 、堤防普請、山林竹木伐持出、宿駅役など、文化10年当時の (下徳丸村)家 屋70余 、瓦茸蔵5、人数300余 、馬13、牛2、 高札場がある。鎮守はなく、寺 は臨済宗京妙心寺未興聖寺、明治4年に大分県に所属。同12年 の戸数74、人口362、 馬11、 物産は大麦、小麦、大豆、栗(共武政表)同17年8月30日 町村役場所轄区域の制定により 下徳丸村、丸亀村、関園村、鶴瀬村、南村、常行村を管轄する町村役所が設置された。
*参考資料 高田手永の惣庄屋
① 高田(藍澤)市左衛門寛永十年(1633)~万治元年(1658)
② 高田(筒井)半右衛門 万治元年(1658) 八月~延宝六年(1678)3月
③ 高田(筒井)半右衛門 延宝六年(1678)3月~元禄11年(1698)2月
④ 筒井半輔(助) 元禄11年(1698)2月 ~享保7年(1722)
⑤ 高田(片山)伝左衛門 享保7年(1722) ~享保12年(1727)
⑥  高田(片山)弥三右衛門 享保12年(1727) ~宝暦7年(1757)
⑦ 岡松作右衛門(真勝) 宝暦7年(1757) ~宝暦13年(1763)6月
⑧ 岡松数右衛門 宝暦13年(1763)6月 ~寛政11年(1799)4月
⑨ 岡松作右衛門(勝亮) 寛政11年(1799)4月 ~文化3年(1806)3月
⑩ 岡松貞之允 文化3年(1806)3月 ~文政5年(1822)2月
⑪ 岡松角野伸 文政5年(1822)2月 ~文政7年(1824)12月
⑫ 岡松数右衛門(真友) 文政8年(1825)3月~天保7年(1836)3月
⑬ 岡松幸助 天保7年(1836)3月 ~天保10年(1839)3月
⑭ 岡松俊介 天保10年(1839)3月 ~明治3年(1870)1月
⑮ 野田敬之 允 明治3年(1870)1月 ~ 明治3年(1870)2月
⑯ 郡野一兵衛 明治3年(1870 ~ 明治3年7月

第一節 高田自治体のおこりと住民のくらし

明治22年 ~昭和29年の自治体名で大野川河口にあり、東の本流と西の乙津川に囲まれた 一種の輪中地帯を形成、地名は中世高田荘近世の地域称を採る。鶴瀬、丸亀、下徳丸、南 、常行、関園の6カ 村が合併して成立、旧村は大字となる。村成立により先の明治9年に高田田小学校が発足し、同12年 には下徳丸に校舎落成、同17年には下徳丸の興聖寺に戸長役場 (こちょうやくば 現在の町村役場)が設置される。さらに同26年 に役場が下徳丸に落成。立地上当村ば再三洪水に悩まされ、 なかでも明治26年 10月 14日 の大洪水は、水位が3丈 6尺 上がったというもので堤防の決壊 9カ 所、土地の荒廃219町余、溺死者84、流失家屋93、牛馬の死亡14、 翌27年 9月11日の 洪水にも流失家屋26と いう被害をうけている。そのため耕地の荒廃をまねき、同24年の戸 数585、 人口2,967が 、同37年には494戸 、2,836人 、同44年437戸、人口2535人 と減少 当村の土地構成もまた、地形上特異なものとなっており、大正5年には畑263町歩、宅地35 町余、山林7町余りと田がまったくなく、山林も少ない。同5年の戸数415戸 、人口2,540人 であるが、うち397戸 が農家(自作92、自小作66、小自作108、 小作131)

農産物も米は陸稲のみで産量も低く、主産物は麦、粟、午芳、里芋、大根などの畑作物 特に午芳は「高田ごぼう」として近世より著名であった。地主も「所有地ハ悉ク小作に委 ネテ商業ニ資ヲ投ズ」という状況で日本的にも特異な経営をしている。 村民の生活も多労働を必要とする栽培作物の関係からか、「嫁をやるなら高田にやるな 高田粟飯午芽の菜」と歌われるように貧しいものであった。他の産業としては、豊後行平の 流れを汲むといわれる「高田鍛治Jが著名、近世には刀鍛治6、 普通鍛治50~60いたとい われるが、大正5年 には19、 産額6,340円 で主として稲刈、草刈、草切用の薄鎌などの刃 物を製造鎌の行商(入鎌師)も 農閑期の重要な仕事で豊後、日向一円、肥後、筑前、筑後 豊前にも販路を広げていった。 しかし、近代では泉州堺の片刃鎌にしだいに圧倒されていった。昭和25年の戸数430、 人口2,640名 、昭和29年 3月 31日 鶴崎町、明治村、高田村、松岡村、川添村が合併し同時に市制を施行して鶴崎市となる。昭和38年 3月 10日 6市 町村(大 分市、鶴崎市、坂市町 大南町、大分町、大在村)が 合併して大分市となり現在に至る。

第一章第一節 2・ 高田風土記にみる須ケ在(洲|ケ 在)8ケ 村の規模

(高 田風土記より抜粋)

村名戸数人口耕地(畑)
堂園村29戸130人195反9畝 11頭
常行村140戸660人291反3畝2頭47頭
関門村103戸449人259反4畝3頭26頭
南 村50戸240人171反7畝 7頭
下徳丸村70戸300人423反2頭13頭
上徳丸村50戸200人223反 9畝1頭1頭
亀甲村(大鶴村を含む)87戸442人136反 21頭
鵜猟河瀬村54戸260人187反6畝 12頭
583戸2681人1,888反 8畝8頭
令和3年現在2859戸6510人

*高田風土記が書かれたのは1813~1814年ですから、現在(2021年)では約200年前になります。増加が多いと思うか、思ったほどではないと考えるかはわかりませんが、戸数は5倍、人口は2.5倍になっています。大家族から小家族になっているのかもしれません。

第一章 第一節 3・ 人物編  (1) 歴代村長と在職期間

中村 黙二 明治22年5月~30年4月
仲摩 孫 七明治30年4月~明治 31年3月
中村 四郎明治31年3月~大正2年11月
工藤 一雄大正3年5月 ~ 大正11年5月
岡松 準平11年6月~昭和4年
重藤 久昭和4年~昭和8年
岡松 準平 昭和8年~昭和9年
首藤 茂三郎 昭和9年~昭和12年
重藤 久 昭和12年~昭和16年
首藤 親人 昭和16年~昭和19年
岩尾 亀雄 昭和19年~昭和21年1月
三宮 護(代理) 昭和21年1月 ~ 昭和22年1月
中村 壽徳 昭和22年5月~昭和24年
工藤 昭三  昭和24年~昭和29年3月

*明治22年から高田村村長が出ていますが、それまでは高田村は堂園村、常行村、関門村等8か村に分かれていました。そして、昭和29年に鶴崎市ができることにより高田村長は終わります。なお、その鶴崎市も昭和38年に大分市と合併することにより消滅します。文書で書くと3行ですが、75年有余の歴史があります。そうなると明治の前がきになりますが、それに関してはこのHPの高田村史に若干触れています。

第一章 第一節 3・ 人物編 (4)婦人会長、農協組合長、公民館長、自治会長 長寿会長

《婦人会長》

工 藤 シズメ (初代)
伊 達 義 徳
首藤於廉
中 村 シ ヨ
徳 丸 ワ カ
鶴 田 ナラエ
高田清子
首藤鈴代
仲摩清子
有 田 美津子
藍 沢 マサエ
幸 式 部

《農協組合長》

得 丸 忠 人(初 代)
平 井 正 治
筒 井 始
中 村 九十九
《公民館長》
小手川 又 吉(初代)
岩 尾 亀 雄
筒井百喜
得九忠人
藍沢喜熊
向 守雄
仲摩正喜
《長寿会長(老 人会)》
首 藤 親 人(初代)
得 丸 武 男
児 玉 弘
《自治会長(部会)》
阿 部 弘(初 代)
中村力雄
毛利 輝雄
岡松次生
得丸嘉平
岩 尾 奈良生
《昭和53年3月1日 現在85才以上の老人》
得丸岩蔵   92才   
首 藤 佐喜太 91才
木本眞市  86才
渕 了    86才
得丸軍喜 86才

渡部ミサ 94才
江藤ユリ 91才
江藤ミツ 86才
佐藤ヨリ 86才
神沢フサ 85才

計     10名




《昭和56年9月1日現在85才以上の老人》
首 藤 佐喜太 94才
木本 眞市  90才
得丸軍記 89才
重藤重造 88才
幸 鶴治 87才
首藤勝美 87才
得 九 続     85才 計 7人
江藤 ユ リ 94才
神 沢フ サ 88才
石 川 ユキヱ 87オ
得 丸 サ ガ 87才
得 九 ト ョ 86才
仲 摩 モモヱ 86才
岩尾サウ 86才
申村ヒデ 86才
木本ア サ 86才
測   ノ  プ   85才
得丸 タ ツ 85才
得丸ナラ 85才
岡松ハジメ 85才
徳 丸 シ ゲ 85才  計14名
第一章 第二節 住みよい郷土をめざして

1・農地改革と公職追放令

農地改革

終戦後ポツダム宣言に基づく連合軍総司令部の経済民主化の基本政策に対応して行ったもので、連合軍最高司令官の「農地改革についての覚書」によって改革が進められた。
従来絶対手をふれることができなかった地主の土地所有権に対し直接の強い干渉を加えるという点で画期的なものであった。1946年から1951年 (昭和21年 ~26年)までの間に、自作農創設特別措置法によって不在地主の所有する小作地全部在村地主の所有する70a以 上 の小作地(以 下都市によって異なる)、 在村地主の所有する 70a以 下の小作地とその者が所有する自作地の合計面積が230aを超える農地を買収した。 売り渡しの相手は、当時の小作農とか自作農として農業に精進する見込みがある者に限 られた。買収売渡し価格は、当時あった土地台帳の賃貸価格の田にあっては40倍(10a平 均 700円)で あった。畑は48倍(10a平 均400円)で あった。県下では買収した農地面積は2万4500ha農地総面積の32%を占めた。農地改革前の自作地は4万9600ha あったが、改革後は、7万3208haとなり、小作地は3万1936haあったものが8143haと なり小作地の75%が 解放された。

高田村内における農地改革のようす

終戦直後の社会状勢を思う時、何んと言っても農地改革と公職追放、食糧供出の事であ ります。 先づ昭和20年12月 9日 に農地改革指令が発令されて小作人の解放・自作農創設を図るための第一次農地改革が行われ、昭和20年11月23日 現在の耕作者に所有権が認められた地主 にも適用)、その外の土地は全部解放された(不 在地主は認めない)。 続いて昭和22年から24年 にかけて第二次農地改革が実施され、完了したのが昭和25年でありました。地主に対しては耕作地の外6反歩の保有地が認められ、保有地の小作料は総て金納で、田地で反当70円 、畑地で反当39円 に定められた。尚、農地改革で所有した土地は向う30年間売買が禁じられて勿論抵当権の設定も禁じられていたが、第二次改革で解消 された。買収価格は賃貸価格の30倍で高田の畑地で賃貸価格が反当10円前後で、買収価格は反当300円 前後でありました。

公職追放令

第二次大戦後、ポツダム宣言の「軍国主義者の権力および勢力」の永久排除の方針に基づき昭和21年(1946年)2月 勅令として公職追放令が公布された。公職適否審査委員会によって職業軍人、軍国主義者、積極的な戦争推進者が公職から追放され、翌年1月の改正でその範囲はさらに拡大され、国会議員から国家、地方公務員、地方議員、有力銀行、会社、報道機関の幹部など追放された。追放者数は20万 人をこえた。昭和23年に一段落したが、 その後25年からは共産党幹部におよび、逆に 旧軍人の一部を解除するなど、それまでの措置をゆるめた。ここにアメリカの対日政策、とくに民主化政策の転換が端的に現われており、朝鮮戦争を機に当初の目的は逆転して公職追放解放者をもって、政治経済、さらに警察予備隊などに復帰させた。この追放令によって新1日指導者の交代がめざされたが、結果はそれほどになく、追放解除とともに政界に返り咲いた人物も少なくなかった。

高田村内における公職追放令のようす

公職追放令は昭和21年 1月 4日 に発令され、村長を始め村内各方面の指導者の地位、身分に対して確認され、該当者は就職禁止又は退職が勧告され昭和25年に完了した。終戦後昭和21年より昭和25年迄は行政にも動揺があり将に社会の革命的存在であった。 該当者は 村長  在郷軍人分会長  翼賛壮年団長

第一章 第二節  2・ 中正会と財団法人奨順社

中世会

中正会とは佐藤重雄、岡松発巳生、小手川又吉氏等の発起で大正6年頃、発足。青年団を退団した30才 ~40才 位の人々によって構成され会員が30人 位いて、昭和初期頃迄あらゆる部門に捗って活躍していた。中でも小学校移転の、奉安殿は中世会員によって設置され、 大正15年7月23日 村議、中正会の合同協議会、 7月24日 中正会役員、松岡・萩原両小学校の奉安殿視察を行う。在郷軍人分会、青年団と協力し高田村出身者で村外居住者169名に寄付を求めて総額 2,823円 で設立された。其の外新築校合の清掃、校庭の植樹等の奉仕を行い、尚現役入隊、 満期除隊者の歓送迎、慰問晶送り等に活躍しておりました。
幹部は会長 鶴田 新
佐藤重雄、岡松癸巳生、小手川又吉、尾長谷荘三郎
(岡松準平氏の苦心惨謄録より抜粋)

財団法人奨順社

奨順社とは昭和3年に大字関門出身の小手川善次郎氏(現 在子孫が高千穂町在住)が高田村に所有する畑地4町8反 歩余りと高田実業銀行株券100株 を高田村に寄付された。時の村長、岡松準平氏は早速村会に計って財団法人奨順社として設立し、これが管理を村長が行い運営に当っては理事12名 を選出(学識経験者として、学校長、小手川家一統より1名)、 これより生ずる収益金を以て文化教育向上のため奨学金や社会福祉事業等の補助金として使っていたが昭和20年に農地改革が行われ耕作者に解放された。現在294坪 (宅 地)と1,700萬 円(定期預金)が 基本財産として残されており、その利息を以て地区内の各種団体等に福祉事業業として補助されております。なお、故人小手川善次郎氏の功績を讃えるため頌徳碑が高田公民館の前に建立されている。

第一章 第二節  3・青年団と婦人会

青年団

高田村青年団の結成は定かではないが、大日本青年団の組織の中での一環として結成さ れたものと思われる。団員 は15才 より30才 迄の高団村在住者の男子(女子は処女会といって有名無実の会であっ た)で 、結成され本部に団長副団長・団長は団員以外の有識者を推挙していた評議員 (各支部長)会計監事2名で」を置き本団活動より支部活動に重点をおいていた。支部は九亀(鶴 瀬、上徳丸を含む)下 徳丸(南を含む)関 園、常行の4支部で支部長、評議員(3名)、会計、監事、班長(若千名)等の役員がいた。 行事としては本団総会(旧 正月)、 支部総会(旧 正月)、 支部総会では新入団員の紹介、 退団者の歓送迎会が行われていた。 3月27日・28日 の若宮八幡社春季大祭では団員にとっ ては年中最大の行事であり、又最大の楽しみでもあり他出者もこの日は帰省して参加した。 各支部毎に山車の組立(大小)、 飾り付等して山車を担いで若宮社を目指して出発。それ より抽選順に従い御神幸場に向いここで昼食、午後出発と同時に突き合いが始まり見学客を警嘆させては楽しみ乍ら帰路へ向い新道に上ると又、一段と喧嘩が激しく日没の解散時には山車と山車が突き合った末、団長が山車の上にあがって解散を告げる状態であつた。 翌日は板敷拂いといって慰労会が各支部毎に行われていた。 1日 盆には、踊りが各支部毎に催されていた。秋の小学校大運動会には青年団も参加して盛況だった。 各部毎の祭典には余興として浪曲等の催しものが行われ、又町村毎に成人修養講座等も ありて代表者が参加していた。 其の外国員の結婚式には檸入れ?といって招待され夜更まで祝福の宴をはっていた。又、 橋道路の開通、学校の新築落成式等には各支部毎に芝居の競演があり見事な演技を披露していた。

婦人会

婦人会の始まり 昭和10年春、閑院宮コト妃殿下(愛 国婦人会総裁)が御来県になり春日浦の埋立地で歓 迎会が催され高田村よりも多数出席された。 それにより昭和10年8月 1 日婦人会高田分会の発会式が行われ、初代会長に堂園の工藤シズメ氏が選ばれ上部落と下部落に各々副会 長が選任された。
当時活躍した人は
柏樹カツ、児玉ラク、森賀壽、首藤於廉、平井トワ、中村シヨ、
鶴田ナラエ、得丸タツ、仲摩ヨネ、幸ヒデ、工藤シズメ、平林ライ
仲摩タケ、首藤キク、中村カヨ、仲摩ラク、徳九ワカ、金九カヤ、
首藤カメ、工藤イシ

其の後会長には学識経験者が必要となって小学校校長が選任された。当時の婦人会と言えば、修養団体で会合には必ず講師を招いて受講していた。
行事としては小学校の運動会の時の敬老席の接待、出征兵士の送り迎え
留守家族の訪間、慰間袋、旧盆には戦死者のお墓参り、昭和18年 の大洪水の時は農兵隊への炊事接待等活躍した。 (幸 ヒデ氏より)


(備考)
昭和6、7年 頃柏樹カツ、児玉ラク両氏の発起により関門には既に主婦会が結成されており高田全村に呼びかけていたと言う。