令和5年は高田小学校開校150周年でした。

高田小学校の歴史 [明倫校 明治学校 高田学校時代]

【高田村史 ・ 高田小学校100年史】等を参考にして作成

第1回 明倫校 時代 (明治6年8月)

明治政府は明治5年に学校措置をすすめ、大分県は明治6年3月に小学区ごとに学校設置を奨励した。そして高田は近隣に先駆け半年ほどの後の8月には設立した。それまでは中村壽八郎(じゅはちろう)さんが家塾として多くの子弟を教えていたいた明倫堂を村が引き継ぎ、村立の学校として明倫校としました。開校時は上徳丸、中村半次郎氏宅(現中村英夫氏宅)の倉庫をかりていました。
(歴史散歩マップ⑫)
しかし、その年の10月の洪水により堤防が決壊し、校舎も被害をうけ休校となりました。
なお、明倫堂という言葉は江戸時代の藩校としてつかわれており、江戸時代の諸藩に同名のものがありますが、尾張徳川藩、高鍋藩、加賀藩等のものが有名で加賀藩の明林堂は後に第4高等学校(後の金沢大学)になりました。

学校発祥の地

第2回 明治学校・高田学校 時代  (明治7年2月~明治20年3月)

第1回であるように洪水で校舎も被害にあったため、明治7年2月に下徳丸沖の小路(現在の大黒屋あたり)に移しました。
そして、明治の年号にちなんで明治学校と称しました。その後、明治9年11月に高田の名前に因み、高田学校と改称しました。明治学校、高田学校の跡地は下記のあたりと思われます。

生徒が増えたこと、設備が古くなったことにより、明治12年8月1日に校舎を下徳丸字屋敷(中村 多蔵さん 所有地 180坪を購入42円)に移し、三佐地区家島にあった旧臼杵藩の願い下げた倉庫で建設しました(工事費 345円)。瓦葺の2階建て、玄関付きの4教室の校舎で当時では洒落た作りだったそうです。中村光政氏宅角にに最近建てられたのか石碑が立っていました。

明治20年4月に小学校改正令により高田尋常小学校になりました。

高田学校跡地  (写真で位置を表していましたが、はっきりした位置がまだつかめないため、その写真を削除しました。)

[高田小学校100年史より]

高田小学校の歴史第3回 (尋常小学校時代)

明治20年 小学校令改正に伴い、高田尋常小学校と改称します。
【尋常小学校】(尋常とは普通、常に、一般という意味です。)
明治19年)に文部大臣森有礼により小学校令(第1次)が公布され小学校が、尋常小学校(4年間)と高等小学校(2年間)に分かれ4年間の尋常小学校が義務教育でした。小学校令が明治40年に変更され、高等小学校が4年間になり、のちに、高等小学校4年間が2年間ずつに分かれ尋常小学校が6年(義務教育)、高等小学校が2年になります。そして、戦争が始まる昭和16年には、国民学校という名前に変更されていきます。

(蛇足ですが、森有礼(もりありのり と読みます)は伊藤博文総理の時の初代文部大臣になり、右翼に刺殺されます)
その後、温習科 裁縫科を設けたり、体操場を設けたりして学校を拡大していきます。
明治34年3月にこれまでの校舎を取り壊し、2階建て6教室の新しい校舎を7月に落成させます。

校舎平面図 (高田小学校100年誌より)

明治42年(1909年)にはさらに西側に2階建て4教室の校舎を増設する。(西校舎と呼ばれる)
明治43年には尋常高等小学校が併設されます。

校舎平面図 (高田小学校100年誌より)

学校創立から50年ほどたつと、児童の数も増え就学率も高くなってきたため、校舎や運動場が狭くなり、
移転や増築の話がでてきます。