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更新 2023年8月11日

高田の歴史年表

高田の歴史を年表と共に振り返ってみましょう。その時代の出来事、そして写真、一つの写真が多くのことを語りかけてきます。そして高田にもこれほどの歴史があったのかとあらためて見直してしまいます。
[追加項目があれば逐次追加していきたいと思います]

「鶴崎地方歴史年表」,「続高田村志」その他郷土史を参考

平安時代以前(794年以前)

時    代出    来    事
591年日羅が九六位山に圓通寺を建てる
645年大化の改新
710年平城京に都が移される 奈良時代の始まり
713年風土記の編集を始める。現存しいる風土記風土記(常陸国・出雲国・播磨国・肥前国・豊後国)
752年奈良の大仏
755年高田最古のお寺の補陀寺が天台僧[壇叟]により開かれる
798年、天台僧同運によって開かれたという説もある。

平安時代(794~1192)

平安時代は1192年までと1185年までとの異見あり。1185年は平家滅亡の年、1192年は鎌倉幕府成立の年。

794年平安京に都が移される
1016年藤原道長摂政になる
1142~1153年刀鍛冶國綱が高田荘に居住する
1167年平清盛太政大臣になる
1177~1180年高田次郎隆澄が高田荘に居住する
1181年高田次郎隆澄、緒方三郎惟義、大野六郎家基等平家に背いて兵をあげる
1185年平家滅亡(壇ノ浦の戦い)
1190年溝口左衛門尉永繁(ながしげ)が高田の荘を領し、猪野に居住する。
1190~1199若宮八幡社創建
1192年源頼朝が征夷大将軍になる(鎌倉に幕府を開く)

鎌倉時代[1192~1333(1336)

本格的な武家政権による統治が開始した時代である。

年    代出    来    事
1192年鎌倉幕府が成立
1196年大友能直 おおともよしなお】豊前・豊後両国守護兼鎮西奉行となる
 1593年大友 義統(おおともよしむね)まで大友氏が400年続く。
1196年【紀新太夫行平】能直に扈従(こしょう)して豊後に入る
1190~1198年溝口左衛門の尉長繁が高田荘を領し、猪野に居住する
1190~1198年若宮八幡社が大友能直により建てられる
1208年紀行平が後鳥羽上皇のご番鍛冶となる
1222年紀行平が亡くなる
1272年【3代目大友頼泰】豊後国に下向(これより本拠を豊後に置くようになる)
1274年文永の役
1281年弘安の役
1285年【豊後図田帳】大友頼泰の鎌倉幕府へ豊後国の調査をし上書した。その中に初めて高田の荘という文字が使われる
1333年鎌倉幕府滅亡 後醍醐天皇建武の新政
1336年南北朝時代が始まる
1338年足利尊氏が室町幕府を開く

室町時代(~1573)   戦国時代( ~1602年)

1333年鎌倉幕府を倒し、1338年足利尊氏が征夷大将軍になる。室町時代の開始年次は1333年、1336年、338年と諸説あり。
室町時代の応仁の乱(1467)から日本が統一されるまでの乱れた時代を戦国時代と言い、室町幕府が倒れ、織田信長、豊臣秀吉の時代を安土桃山時代という。

時    代出    来    事
1338年足利 尊氏が幕府を成立
1387年興聖寺が曲の手(かねのて)に建てられる数度の焼失の後、現下徳丸に再建される 
1467年~1468年応仁の乱
1500年徳丸惟貞が大友親治から高田の荘徳丸名扇の内の知行を許される。
1553年このころよりキリシタンの伝道が始まる
1576年織田信長が安土城を築く。
1577年間別調(まべつちょう 現在の国勢調査の類)がおこなわれ、その中に門前、別保、成松、徳丸、猪野等の名前が出ている。
1582年本能寺の変
1585年高田の荘の洗礼1300名とあり、キリシタンが増える。
1586年~1587年豊薩合戦 豊後と薩摩のあいだで戦争が行われる 高田の多くの神社、寺が焼かれる。
 鶴ヶ城の戦い 戸次川の戦い
1586年~1587年鶴崎合戦(豊薩合戦)が行われ、高田からも多くの豪志が参加する。
1586年~1614年高田鍛冶統行は藤原姓、仲摩新五郎という。
1586年(天正14年)鶴崎合戦の戦火により、若宮八幡社、常行、上徳丸天満宮、補陀寺が焼失する(後、再建される)
1590年豊臣秀吉全国を統一
1594年(参考)家島・森町・小池原・猪野・葛城の大部分、大津留・毛井・広内・宮河内が臼杵領になる。
1600年関ケ原の戦い

江戸時代(1603~1867)265年間

1603年徳川家康が征夷大将軍になる。

時    代出   来   事
1600年関ケ原の戦い  
1601年加藤清正豊後の国二万石を転封される(てんぽう 国替え)これにより高田は熊本藩になる
1601年法心寺加藤清正により創建される毎年行われる二三夜は清正の法要である
1603年徳川家康、江戸に幕府を開く。
このころより加藤清正によるキリシタンの取り締まりが厳しくなる。
1611年加藤清正病没  
1614年キリシタンの大追放が行われる。
1625年【若宮八幡社】 亀甲にあった社殿が洪水により流出  
1629年【若宮八幡社】加藤忠弘(熊本藩2代目藩主)が現在の鵜の瀬に社を再建する。
1632年熊本藩主加藤忠広が改易される
1632年細川氏の乗船「波菜之丸 なみなしまる」が新造される 千石船 長さ33m幅8m
1632年豊前小倉藩主細川忠利が肥後熊本藩52万石に転封される之より高田は細川領になる  
1632年細川忠利が領内の検地をする
1637~1638年【島原の乱】細川領の鶴崎地区も参加する。
1644年常仙寺 刀鍛冶藤原行長の寄進をもとに日秦により建てられる
1647年中島・門前・家島・葛城の一部 成松・池ノ上が延岡領になる
1658年大洪水発生 亀甲村は非常な災害を受ける
1659年常行神社常行枯木天神が創建される
1662年一乗寺 法心寺の日達により建てられる
1669年刀工藤原行長が死ぬ。常行の常仙寺は1644年この行長の喜捨によって出来たお寺で同寺には行長の木像や位牌がある。
1664年能仁寺 細川綱利により建てられる
1661~1672年キリシタンに対する取り締まりが最も厳しかった時代である。
1707年大風雨・洪水あり。(高田風土記の亀甲村の条に「どて切れ70間(約127m)程にて流家13件、倒家96~97間ありし」と)なおその後も洪水に対する表記は多数あるが割愛する。
1751年興聖寺数度の移転の後現下徳丸に移転される
1761年紀行平の540年忌にあたりその供養碑を建てる。(現在地 横尾字二目川鍛冶屋 現在は変わっているかもしれません)
1758年首藤治郎兵衛 岩丸家の長男として生まれる
1761年紀行平の540年忌にあたり、明治二目川に供養塔が建てられる。
1797年毛利空桑 大分郡常行村に生まれる
1798年紀行平  刀工行平の墓が関門仲間に建てられる
1803年豊後国志が完成する
1810年伊能忠敬 第二次の鶴崎測量をする (高田では下徳丸村、関門村、堂園村を測量)
1813年(1814年)高田風土記 高田手永の地誌が編纂される
1820年岡松甕谷 丸亀(上徳丸)に生まれる
1824年毛利空桑が私塾を常行に開く
1834年毛利空桑藩命により鶴崎に移転する。
1837年富豪首藤次郎兵衛がなくなる(79歳)治郎兵衛は高田の常行の人 長八、義道ともいう。熊本、臼杵、府内、杵築、延岡の各藩に御用達をなし、献金をなす
1840年1835年に焼失した波菜之丸を新造する。
1841年岡松作右衛門高田手水の惣庄屋岡松作右衛門が亡くなる(68歳)
1849年高田鍛冶勝衡が死ぬ
1850年岡松真澄高田手水の代官惣庄屋岡真澄が亡くなる(68歳)
1859年コレラが流行する
1867年【徳川慶喜】大政奉還をする

これ以降は高田関係の朱書きは多すぎ朱書きできません。主要な項目のみ朱書きにします。

明治時代・大正時代

時    代年号出   来   事
1868年江戸を東京と改め、都を移す。
1871年廃藩置県により 大分県になる 各藩は次のようになる(熊本県、岡県、延岡県、臼杵県、日田県)
1872年学制が公布される
1872年大分県支庁(鶴崎出張所)を鶴崎に置く
1873年明治6年8月15明倫堂を明倫学校として開校 高田小学校の始まり
1873年毛利莫が大分県師学校長となる
1875年(明治8年)町村の合併が行われる。丸亀村(亀甲村・上徳丸村) 鶴瀬村(大鶴村・鵜猟河瀬村)
1875年第三大区(大分郡) (第11小区)  関園村・常行村・南村・下徳丸村・丸亀村・鶴瀬村となる。)
1875年高田を2役所に>従来の九カ村を六か村にし、下役所(常行、関園)それ以外を上役所の二部とする
1876年明倫学校後の明治学校を高田小学校と改称
1877年西南戦争で西郷軍が鶴崎に来る。官軍の輜重部を本村高田に置き、糧食を常行の首藤百門より調達
1879年高田小学校は下徳丸字屋敷に移る
1879年コレラが流行する
1884年役所を一つ 上下役所を一つにし下徳丸の興聖寺を借りて役場とする。
1884年毛利空桑没す88歳
1887年高田尋常小学校に改称する
1888年駐在所が下徳丸に開設される
1889年明治22年町村制施行 高田村になる 村長 中村黙ニ 助役 仲摩 孫七
5月15日興聖寺で初めての高田村議員集会 議員定数12名
 1889年明治23年第一回村会
1889年(参考)  松岡村・毛井村・大津留村の三村が合併し、松岡村になる。
1892年高田村役場が下徳丸に建てられる
1893年明治26年10月14日明治26年高田大水害がおきる。 後に水難横死生徒の碑が建立される高田村では溺死84名、流出家屋93、牛馬の死するもの14頭 
1894年日清戦争がおきる高田村から31名が出征
1895年明治28年岡松甕谷亡くなる(76歳)
 1897年明治30年高田村の人口は2825人です。
1904~1905
日露戦争がおきる高田村から81名出征
1901年明治34年7月31日高田小学校では校地を拡張し、木造二階建六教室を新築
その間、興聖寺で授業をする
 1903年明治36年小学校創立30周年記念式を行う。 (10月13日)
1907年明治40年筒井百平が富士山頂で我が国初の寒中気象観測をする
若宮八幡社拝殿新築落成のため、開帳祭が執り行われる
1908年小学校義務教育が6年に延長される
1909年12月 高田村の戸数437戸 人口は2553人
小学校増築落成式を行う。
1910年高田尋常小学校が高等科を置き、高田尋常高等小学校に改称
1912年大正元年8月6日高田に初めて電灯がつく その記念碑が若宮八幡社境内にある
1913年大正2年高田農業補習学校を小学校に併設する。
1914年大分・坂ノ市間にバスの運行が始まる
1914年大正3年4月1日鶴崎駅が開業する
第一次世界大戦(日独戦) 高田村より7人出征
1915年大正4年高田小学校校歌が制定される
5月29日県道について村長、村議、区長等で現地見聞
1917年高田村生産販売組合ができる
 1917年大正6年役場新築落成式  前の役場は駐在所として利用
1920年大正9年6月10日[高田村志]発行  久夛良木儀一郎 中村寿徳 小手川又吉
第一回国勢調査を実施
 1921年大正10年3月6日県道編入の許可が下りる
1920年大正9年6月高田実業銀行設立 (資本金50萬円) 初代頭取 首藤親人 二代目 首藤宝吉 三代目 首藤勝美
 1922年大正11年広瀬辰男  高田若宮八幡社の宮司に就任 (大神宮司死亡につき)
大正11年12月10日先哲祭が始まる>岡松、毛利先生の追悼式
1923年大正12年6月6日小学校小遣い室の不始末で全勝
1923年大正12年高田小学校保護者会が始まる
鶴瀬より鶴崎町に至る新道が開通
関東大震災が起きる。
日豊本線が全通する。
1924年大正13年9月旧高田橋開通
1925年大正14年12月10日金谷渡しが県費による公用渡しとなる
1925年大正14年昭和元年昭和元年 小学校が現在の位置に移転
移転時の授業
1年、高等2年    興聖寺
高等一年・三年    役場
4年、5年       平林利一氏方
2年、6年       常仙寺


 1926年大正15年 昭和元年
 12月26日崩御
11月3日(明治節) 新校舎の落成式

昭和時代

昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号である。世界恐慌から満州事変へと戦争の道を進む。昭和の前半は暗い時代である。しかし、戦後の昭和は第二次世界大戦での敗戦からの過酷な戦後復興を迎える。高度成長時代、東京オリンピック、そして、オイルショック。
昭和は、第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることができるようだ。
そして、高田もその歴史の中で生きていく。

時    代出   来   事
1926年昭和 4年  大野川の改修工事が始まる(現在も継続中)
1928年昭和3年「財団法人奨順社」設立 
 :昭和井路組合に加入
1929年昭和4年【先哲祭】 毛利、岡松、行平の先哲祭をする 2月22日
  〃1945年(昭和20年)2月22日まで毎年行われた
1929年  〃大野川の改修工事が始まる(現在も継続中)大野川幹川(戸次~海  右岸19.35km) (竹中~海 左岸18.2km)
乙津川(松岡~海 左右岸9.14km)
1931年昭和6年8月30日高田小学校の2棟が焼失する。
5年生以上は堂園の平林利一さん方の養蚕室を借りて授業
 〃県道下徳丸より上徳丸に至る新道開通
村道下徳丸中村健二郎前より仲摩龍三郎にいたる新道開通
1932年昭和7年大分県立鶴崎工業学校を設置する。
1932年4月28日 前年焼失した高田小学校が新築される
  1933年昭和8年高田橋より駐在所前までの県道拡張工事が実施される。
1936年昭和11年高田村少年消防隊を結成する
 〃松本商会と契約がなり、トマトの出荷異始まる。
1937年昭和12年7月、(日本染料製造株式会社 日染)現住友化学KK 鶴崎工場が設置される
日華事変始まる
1939年昭和14年(日染)現住友化学大分製造所が操業開始する
1939年高田出身の法学博士佐藤百喜が亡くなる。(農林行政に功績)
1939年平林利市が亡くなる(70歳) 高田地区における養蚕、酪農、促成栽培の創始に努力した。 
1941年昭和16年太平洋戦争が始まる
1941年小学校名を高田村立国民学校と改称する
1942年昭和17年昭和井路工事が始まる
1943年昭和18年9月18日昭和18年の大水害が起きる  鶴瀬の堤防が破壊、高田橋が流失

降水量 604.5ミリ  最高水位 7m584
流出家屋 17戸   溺死者 14名

流失家屋
     鬼子母神堂、鶴林一男、金丸喜十郎、金丸次雄、馬場 磨
     宇藤高市、野田七五三吉、丸崎一三、松林悦治、佐藤照彦
     野田芳雄、工藤久江、一乗寺、佐藤益三、東 武
     村谷サカエ、村谷又四郎  (計17戸)

溺死者  金丸喜十郎他4名(男児2名 女児2名)
     村谷サカエ他2名(女児2名)
     村谷又四郎
     馬場シナ
     馬場春男
     工藤久江
     東格太郎
     東 イエ
           (計14名)


1945年昭和20年太平洋戦争が終わる
  〃金丸次雄氏  当時村財政予算額 53,800円
  〃12月9日 農地改革指令発令


農地改革

    昭和20年11月23日現在の耕作者へ
    当時高田村の耕地面積 243町歩余り
    自作地 108町歩余り  小作地135町歩余り

   解放後
     自作地 221町歩余り  小作地25町歩余り
     (計 246町歩余り) 25年8月1日現在

    自作農       236戸
    自作兼小作業    126戸
    小作兼自作業     18戸
    小作農        12戸          
            計 392戸

   昭和26年経営状況
    総戸数   392戸
    総人口   2,463人
        (一戸当たり 6人) 
    
    総面積  246町歩余り
        (一戸当たり 6反強) 




1946年昭和21年9月4日鶴瀬の大野川溢流提が竣工する()工費は1000万円
1947年昭和22年昭和22年  下徳丸郵便局が開局する(局長 山崎誠一)
1947年  〃校名を高田村立高田小学校と改称する 小学校内に新学制により高田村立高田中学校ができる
1947年  〃高田農業協同組合を設置する 初代組合長 得丸忠人
  〃4月30日戦後初めての市町村長選挙が実施される
5月1日 中村壽徳 村長に就任
1948年昭和23年明野の呼び名について治と猪を取って明野とする。
1948年県立鶴崎高等学校を設立する。
1948年各学校にPTAが発足する
  1949年昭和24年ピアノが購入され、ピアノ開き学芸会
1950年昭和25年大分郡東部組合立大東中学校が明治・高田・松岡の三中学合併が合併し、金の手にできる。 
1951年昭和26年昭和26年3月12日大東中学校新校舎が落成(金の手)
1951年高田小学校の講堂ができる
1953年昭和28年高田公民館を設置する 初代館長 小手川 又吉
 1953年昭和28年2月2日NHKテレビ放送開始
 1953年昭和28年3月15日高崎山自然動物園開園
1953年昭和井路の試験通水がされる
昭和29年戦死者慰霊殿を高田若宮八幡社境内に建立。
1954年昭和29年 昭和30年鶴崎市になる (初代市長 佐藤常雄)
1954年校名を鶴崎市立高田小学校と改称する
乙津川溢流堤の位置を松岡大津留字天神ヶ鼻に決まる。
1955年に反対運動が広がるが、昭和31年に施工が決定。
昭和31年4月~昭和34年 518,300,000円
1955年昭和30年国勢調査実施 鶴崎市の人口は27,982人
  〃鶴瀬に水難者慰霊塔を建立
得丸武男 黄綬褒章受章
1956年昭和31年高田若葉幼稚園開園  園長 小手川又吉 保母茨城キクヱ
  〃旧常行公民館落成式
高田若葉幼稚園開園 (常行公民館内) 園長 小手川又吉 保母茨城キクヱ
1957年昭和32年3月川添橋ができる幅5.5m 延長274m
4月1日 区長制を廃止して自治会制になる。会長 阿部 弘
1957年昭和32年  小学校に給食室ができる
1957年第一回別府毎日マラソンが(出発別府駅、折り返し鶴崎橋)が行われる
1957年大分鶴崎臨海工業地帯造成計画案が正式に決まる
1957年鶴崎パルプKK鶴崎工場を設立する
1958年昭和33年昭和33年5月15日  高田橋ができる幅5.5m 延長192m
1958年昭和33年  昭和井路の完工式が行われる  昭和17年1942年着工
      秋に初めての稲が採れる。
      水路延長80km 隧道数178 受益面積 約1,935ha
1958年昭和33年 川添中学校を大東中学校に統合する。
1959年昭和34年昭和34年  大野川に新溢流提完成乙津川分岐
1959年鶴崎臨海工業地帯建設事業起工式を鶴崎高等学校体育館で行われる。
1959年工業用水道工事起工式を大津留の現地で行う。
1959年鶴崎市の上水道起工式を松岡で行う
1960年昭和35年大分鶴崎臨海工業地帯の港湾浚渫工事が始まる
1960年鶴崎市農業協同組合を設立する。(本部を下徳丸に置くが後に森に移転する)
   理事 中村九十九  毛利輝雄
1960年国勢調査を実施する。 高田の世帯数443戸 男性1,193人 女性1,260人 合計2,453人)
1961年昭和36年昭和36年  毛利空桑の墓県文化財の指定を受ける
1961年明けの開拓団地の買収が決まる(富士製鉄の住宅団地に予定)
1961年鶴崎工業高等学校が設立される
1961年昭和36年3月14日  大分市から買い取った乙津川埋め立て地に若宮八幡神幸所(御旅所)をつくる
1961年昭和36年8月 関門公民館ができる
1961年昭和36年 高田地区長寿会が結成される

     初代会長 首藤親人
     副会長  中村壽徳
      〃   岩尾亀雄     
1962年昭和37年大東中学のグラウンドができる
1962年九州石油株式会社が正式に許可される
  1962年昭和井路高田地区水利組合 すべての孫線完了
     開田面積 51町歩余り
1963年昭和38年昭和38年   六市町村が合併し大分市になる 人口216,130人 (初代市長 上田 保)
1963年昭和38年  鶴崎消防庁舎が完工する。
1963年昭和38年 国立大分高専の開校式及び入学式が鶴崎高校の体育館で行われる。
1963年昭和38年 毛利空桑記念館ができる
1963年大東中学校の体育館の起工式を行う
1964年昭和39年昭和39年  東京オリンピックが開かれる
1965年昭和40年明野団地の起工式を現地で行う。第一期計画 昭和40年~45年 戸数6,000戸 人口24,000人 総工費42億円
1966年昭和41年昭和41年  高田の農家(15戸)で電熱を利用した促成栽培が始まる
1966年昭和41年 高田小学校のプール起工式を行う
1967年昭和42年昭和42年  関門に[開田記念碑]が建てられる
1967年昭和42年4月  上徳丸公民館ができる
昭和42年11月3日 得丸武男  勲五等雙光旭日章(きょくじつそうこうしょう)受章
1968年昭和43年大東中学校のプール開きをする
1969年昭和44年高田小学校の北校舎落成式を行う
1969年 〃昭和44年  亀甲公民館ができる
1969年 〃昭和44年  小手川善次郎翁頌徳碑の除幕式善次郎氏は高田出身、宮崎県高千穂町で呉服商を営み、郷里のため多くの土地その他を寄贈した。
1969年 〃松岡に東芝IC工場を建設することに決定する。
アポロ11号が月に到着 人類が初めて月に立つ。
1970年昭和45年鶴崎警察署を大分東警察署と改める
1970年  〃昭和45年  大阪万博が開かれる   よど号ハイジャック事件がある
1970年  〃昭和45年  東芝大分工場が操業する
1970年  〃昭和45年  毛利空桑旧宅及び塾跡 県文化財の指定を受ける
1970年  〃昭和45年  現鶴崎橋が開通する
松岡に東芝大分工場ができる
1971年昭和46年(昭和46年)明野団地に明野ショッピングセンターが開店する。
1972年昭和47年昭和47年  大分東郵便局が大東中学跡地にできる
1972年(昭和47年)大分市内七農協が合併し大分市農業協同組合として七月一日より運営する。
      理事 藍澤亮一 岡松次生  
1973年昭和48年昭和48年  高田小学校開校百周年記念式典が行われる
1973年昭和48年  第一次オイルショックが起きる
1973年昭和48年(昭和48年)九六位山キャンプ場を開く。
1975年昭和50年(昭和50年)高田小学校の校舎を増築する。
 1975年昭和50年国勢調査実施  高田地区  世帯数 
850戸  人口3354人(男 1648人 女1706人)
1976年昭和51年昭和51年4月19日  公立高田幼稚園が新設される
1976年昭和51年昭和井路の改修工事が完成し、完工式並びに「昭和井路の碑」が戸次で行われた。
1976年昭和51年  堂園公民館・南公民館ができる。
1976年大分市立高田幼稚園が新設され入園式が行われた。
  1977年昭和52年若葉保育園現在地に移転
1978年昭和53年第二次オイルショックがおきる
 1978年9月 南公民館落成式
1981年昭和56年昭和56年 渕健児(下徳丸) 大分市議会議員初当選(以来5期18年間つとめる)
1984年昭和59年昭和59年9月  鶴瀬公民館ができる。
  1984年江藤 光   黄綬褒章受章
1985年昭和60年昭和60年  毛利空桑記念館が開館する。
1987年昭和62年昭和62年  国鉄鶴崎駅がJR鶴崎駅になる
1988年昭和63年昭和63年  大分市立東陽中学校が下徳丸に新設される
      生徒数858名  職員数45名
1988年昭和63年  青函トンネル・瀬戸大橋 開通
1989年昭和64年昭和64年・平成元年   1月7日昭和天皇崩御 1月8日から平成になる

平成時代

1991年平成3年  台風による倒木により若宮八幡社の社務所が大破
1993年平成5年  台風13号により低地浸水 特に関門団地は床上浸水 
1993年平成5年  上徳丸公民館新設
1993年      Jリーグ開始  10チームにて        
1995年平成7年  下徳丸公民館新設
1998年平成10年  高田公民館大字南に新築移転
1999年大野川防災センター落成式(平成11年)平成8年~平成10年
1999年平成11年 渕 健児 県議会議員初当選(以来4期  年間つとめる
大分スポーツパーク 「ビッグアイ」が完成
2002年サッカーワールドカップが開かれる
「完全学校週五日制」が実施される。
2004年平成16年  関門及び堂園雨水排水ポンプ場ができる
2004年平成16年  第一回鮎・うなぎ放流体験学習が行われる。
2005年平成17年  堂園・関門雨水排水ポンプ場ができる
2007年平成18年  校区七輪のまちづくり協議会発足
2007年平成18年  高田校区歴史散策マップ作成
2007年平成18年  第一回琵琶の州ウォーキング大会
2009年平成21年  堂園公民館竣功
2009年平成21年  御旅所に仮宮ができる
2009年平成21年  JA東陽支店発足 高田・川添が合併
2011年平成23年   東北地震が発生する
2012年平成24年   安倍二次内閣の発足
2013年平成25年   渕健児県議亡くなる(享年73歳)
2016年平成28年   熊本地震が発生する
2019年平成31年   ラグビーワールドカップが開かれる
2019年平成31年(令和元年) 消費税が10%になる
常行公民館が新設

令和時代

2020年令和2年1月15日令和2年 新型コロナウイルスが流行する。 1月15日 日本で初めての確認
2021年令和3年7月23日2020東京オリンピック開催(1年遅れの開催) 
2021年令和3年 多くの行事、イベントが中止される。 常行自治会長 首藤規行氏が亡くなる。11月
2021年令和3年10月14日岸田内閣発足 
2022年令和4年年2月24日 ロシアウクライナに侵攻する。 
2022年令和4年4月2日(南)高田グラウンドの完成、安全祈願祭 
2022年令和4年7月8日安倍晋三元首相 銃撃され死亡
2022年令和4年11月20日 先哲祭100周年記念行事が開催される。
2023年令和5年2月28日「大分市 協働のまちづくり大賞」で大賞を受賞
2023年令和5年3月05日第27回校区グランドゴルフ大会がコロナ後の体育行事として3年ぶりに開催
その後、5月にソフトボール大会、6月にミニバレーボール大会が開催
2023年令和5年4月09日 大分県知事に佐藤樹一郎氏初当選 20年ぶりの交代
2023年令和5年5月~9月 新中島橋関連の仮設道路工事始まる
2023年令和5年10月~令和6年5月新中島橋護岸工事始まる
2023年令和5年10月26日 ドラッグモリ 大分高田店が堂園にオープン
2023年令和5年11月11日高田小学校150周年式典が開催される。