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👉高田歴史ポイント31概要

《3》 開田記念碑

昭和42年1月設立 (関門バス停横)

高田地区は昔から水田は皆無で畑作が中心でした。昭和33年(1958年)に昭和井路が完成して初めて水稲が収穫できました。記念碑はその間の経緯が詳しく記録されています。

昭和井路の歴史をこのHPにUPしています。そちらも参考にしてください。(高田の歴史(戦後編))

記念碑の記を読んでみたいと思います。
(部分的に不明な箇所があり、おかしい文面になっているかもしれません。)

開田記念碑の記

我が高田地区は大野川の三角州に位(くらい  場所を占めること)して古来から洪水地として知られた水田皆無の畑作地帯であった。然るに昭和の初め大野川に水源を求める県営井路〇〇〇(不明)事業が企画されて我が高田村(村長 岡松〇〇)も加盟し、後、昭和井路耕地整理組合(三村八箇村に及ぶ地域)が組織され、組織されるに当って全村加入し開田の日を待った。
〇 〇  月日は流れ昭和三十年四月昭和井路土地改良区理事 筒井〇蔵氏の慫慂(しょうよう しきりに進めること)もあって、高田地区開田期成会(会長 小手川又吉)を結成して開田の促進に努力した。
昭和三十二年高田支線が竣工した。〇て同年十月期成会を解消して昭和井路高田地区水利組合(組合長 小手川又吉)が組織されて専ら事業の促進に努めた。よく三十三年地区民多年〇望の水稲が初めて収穫された。事業は逐次進んで昭和三十七年完成した。
開田面積五十一兆予、小支線6520m余、孫線7170m余に達して総工事費1760余万円の巨額に及んだ。事業の施行に当り役員の啓蒙垂範と昭和井路土地改良区理事岩尾亀雄氏の輔導(ほどう みちびき)並びに組合員の努力によること甚大であった。
組合結成以来の職に就かれたものは ( 人名は省略する  後日UPの予定  )である。
開田事業概況を記して後昆(こうこん  子孫)に残すものである。
昭和四十二年一月