上徳丸天満社


 上徳丸天満社は常行天満社と同じく太宰府天満宮の御分霊を勧請(かんじょう)して建てられたものである。社は最初宮前屋敷にあったが、天正の戦火(大友氏と島津氏の戦い)で焼失したため、宮前屋敷の得丸杢兵衛という人の邸(やしき)の中に祠を建てて祀った。その後、安永三年(1774年)村の人たちが、相談して上徳丸金谷渡し場の北の提上に以前のような祠を建てて祀った。しかし、明治26年の大水害で社殿が倒壊したので、場所を現在のところに移してここに社殿を造った。これが現在の上徳丸天満社である。「高田村志参照」

(1)、(2)は常行天満社の書き出しと同じですから、読まれた人は飛ばしてください。

1)天満社と天神社はどう違うの?

天満宮・天満社と天神社は同じように使っていますが、厳密には違う場合があります。
天満宮、天満社は菅原道真を祭っています。天神社は天神(あまつかみ)を祭っています。
詳しく知りたい方は下を読んでください。

天津神とは高天原にいる神々、または高天原から天降った神々の総称です。(代表的な神様では天照大神 あまてらすおおみかみ)がありますが、その「天つ神」の事を意味します。ちなみに、天の神の天津神にたいして地上の神国つ神、代表的な神様では大国主命 おおくにのぬしのみこと)があります。
天神さまとは天の神を意味します。
天満宮、天神、どちらも「天神信仰 『天神さま』といいます。
もともとは、「天神信仰」が先で、菅原道真が後から結びつきました。
「天神信仰」」は、もともと火雷天神と祭られた怨霊の神様です。この怨霊と道真の怨霊が重なったと思われます。

2)どうして菅原道真は祀られたのか

平安時代、宇多・醍醐両天皇に重用されてた道真が右大臣に命ぜられた時、当時勢力を伸ばしていた左大臣藤原時平たちによって、道真を冤罪を負わせ九州に左遷させてしまいました。道真は思わぬ冤罪を被り、悔し涙を飲みながら延喜3年(903年)に59歳で亡くなりました。

その後、道真の怨念が天皇、藤原一門に襲いかかりました。
そして天変地異も起こり、干ばつに見舞われ、雨乞いの話し合いをしていた貴族達に雷が襲いかかり、かろうじて助かった者のたちには、雷雲に乗った菅原道真の姿が見えたといいます。
醍醐天皇は恐怖におびえ病に伏し、天皇の地位を朱雀天皇に譲り、醍醐天皇が上皇なりますが、朱雀天皇も59歳で亡くなりました。
それから12年後に、一人の巫女に道真の神託が下り、それに従って祭られたのが、火雷天神で、5年後に平安京の北野に移し、北野天満宮が建立されました。「天満」の名は、道真が死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」から来たといわれています。
その後、時間とともに怨霊の働きが鎮まっていくと、道真本来の学者の才覚や文学者、政治が思い出され、学問の神様として祭られるようになりました。
そして、左遷先の太宰府天満宮や東京の湯島天神、大阪の大阪天満宮など、全国1万もの天神が分祀されました。
もとは火雷天神の天神様で、道真の怨念が火雷天神と結びつき、怨念の部分が薄れ学者の道真が残り、今では天神・天満宮が学問の神様となりました。