常行天満社

常行天満社 「高田村志参照」
  常行天満社は太宰府天満宮の御分霊を勧請(かんじょう)して建てられたものである。神社は今から450年前には現在の初穂田というところにあり、立派な建物であったという。(広大な社地と三つの僧院があった。)
 しかし天正の戦火(大友氏と島津氏の戦い)で焼失し見る影もなくなってしまった。万時(まんじ)二年(1659年)初穂田の首藤杢左衛門は、自分の邸の枯れた松の梢から菅原道真公の尊像ををみつけ、そこに社をたてて祀った。常行天満社のことを、[枯れ木天神]と呼ぶのはこのためである。
享保元年(1616年)6月3日にまた火災にあって全焼したが、宝暦の頃、(1751~1763)熊本地方に日照りが続いた時、社僧位乗院が藩主の命で雨乞をし、(この時は高田は熊本藩である)それが成功したので藩主はその御礼として社殿を造営した。これが現在の常行神社である。

1)天満社と天神社はどう違うの?

天満宮・天満社と天神社は同じように使っていますが、厳密には違う場合があります。
天満宮、天満社は菅原道真を祭っています。天神社は天神(あまつかみ)を祭っています。
詳しく知りたい方は下を読んでください。

天津神とは高天原にいる神々、または高天原から天降った神々の総称です。(代表的な神様では天照大神 あまてらすおおみかみ)がありますが、その「天つ神」の事を意味します。ちなみに、天の神の天津神にたいして地上の神国つ神、代表的な神様では大国主命 おおくにのぬしのみこと)があります。
天神さまとは天の神を意味します。
天満宮、天神、どちらも「天神信仰 『天神さま』といいます。
もともとは、「天神信仰」が先で、菅原道真が後から結びつきました。
「天神信仰」」は、もともと火雷天神と祭られた怨霊の神様です。この怨霊と道真の怨霊が重なったと思われます。

2)どうして菅原道真は祀られたのか

平安時代、宇多・醍醐両天皇に重用されてた道真が右大臣に命ぜられた時、当時勢力を伸ばしていた左大臣藤原時平たちによって、道真を冤罪を負わせ九州に左遷させてしまいました。道真は思わぬ冤罪を被り、悔し涙を飲みながら延喜3年(903年)に59歳で亡くなりました。

その後、道真の怨念が天皇、藤原一門に襲いかかりました。
そして天変地異も起こり、干ばつに見舞われ、雨乞いの話し合いをしていた貴族達に雷が襲いかかり、かろうじて助かった者のたちには、雷雲に乗った菅原道真の姿が見えたといいます。
醍醐天皇は恐怖におびえ病に伏し、天皇の地位を朱雀天皇に譲り、醍醐天皇が上皇なりますが、朱雀天皇も59歳で亡くなりました。
それから12年後に、一人の巫女に道真の神託が下り、それに従って祭られたのが、火雷天神で、5年後に平安京の北野に移し、北野天満宮が建立されました。「天満」の名は、道真が死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」から来たといわれています。
その後、時間とともに怨霊の働きが鎮まっていくと、道真本来の学者の才覚や文学者、政治が思い出され、学問の神様として祭られるようになりました。
そして、左遷先の太宰府天満宮や東京の湯島天神、大阪の大阪天満宮など、全国1万もの天神が分祀されました。
もとは火雷天神の天神様で、道真の怨念が火雷天神と結びつき、怨念の部分が薄れ学者の道真が残り、今では天神・天満宮が学問の神様となりました。