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明治36年大分地図

高田地区の渡し (続高田村史より)

① 堂園の渡し  
 昭和6年堤防工事のために廃止になる。

②・③ 百堂の渡し  
 関門村が資金を出して経営していたらしく当時から関門の人は無料だった。文化10年の高田風土記には「百堂は府内から臼杵にわたる街道の渡しで川幅凡そ70間程なり。舟守4人にて往来の人馬を渡す。船場より少し坂を登りて分かれ道ありて臼杵との境あり云々」とある。大正期には船頭の収入は関門の住民以外から渡船料として大人2銭、子供1銭を徴収していた。
百堂の渡しは昭和27年仮桟橋完成のため廃止された。

4・金谷の渡し
上徳丸の道標に従って進むと、今の川添橋の上流に臼杵に通じる金谷の渡しがあった。
この渡しがいつできたかは定かではないが、大正14年12月10日に県費による公共の渡しとなった。そして昭和32年3月川添橋(長さ274m 羽場5.5m)の竣工に伴って廃止となった。

百堂の渡

金谷の渡し 

この渡しがいつできたかは定かではないが、大正14年(1925年)に県費による公共の渡しとなった。そして昭和32年3月川添橋の竣工に伴って廃止となった。33年間の県営の渡しに幕を閉じる。

上徳丸と川添をつなぐ渡し