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👉「高田村志」より「毛利空桑」
👉「高田村志」より「毛利空桑の父」

この高田で偉人ナンバーワンと言えば 筆頭は毛利空桑だと思います。
では、空桑とはどのような人だったんでしょうか。
空桑は江戸末期から明治初期にかけて活躍した儒学者。1797(寛政9)年に近くの大分郡高田郷常行に生まれ、14歳で脇蘭室や日出の帆足万里の門をたたき、熊本や福岡でも学んだ後28歳で帰郷した。私塾「知来館」を開き、後進の教育も開始。 
その後、藩主からの要請→参勤交代で鶴崎に来たお供の兵士の教育も行うようになった。
38歳の時、鶴崎の国宗地区(現在 毛利空桑記念館 のある辺り)でも塾を開く。
 
門弟は千人を超え「文ありて武なきは真の文人にあらず」「武ありて文なきは真の武人にあらず」が信条。剛毅、不屈、礼節の人であるとともに、その尊王思想は維新にも大きな影響を与え、吉田松陰や斉藤監物らも来訪し空桑に意見を求めたという。1884(明治17)年12月22日88歳で没する。常行にある墓は大分県指定史跡となっている。
また、1963年(昭和38年)に旧宅及び塾跡に隣接して建てられた遺品館は、1985年(昭和60年)に改築され、毛利空桑記念館になっています。
なお、空桑の先祖は、あの毛利元就公の弟だそうです。
歴史に興味がある方はこの先ももっと調べてください。

詳しく知りたい方は⇒毛利空桑記念館
(大分鶴崎高校近くに【空桑・思索の道】があります。

記念館と鶴崎高校横にある空桑思索の道

こういう偉人が、この高田に生まれたということをもっと知り、誇りにしてもよいと思います。

では、この「金鱗湖」という名称を付けた人物は?  毛利空桑でした。
水から跳ねる魚の鱗が夕日に照らされて金色に輝くのを見て、1884年(明治17年)に空桑が名付けたものと伝えられています。

《29》 空桑が27歳の時に初めて立てた私塾[知来館]の跡地です。

《27》 空想の墓