高田の歴史(カテゴリー別)
- 大分市高田水害の歴史
- 大分市高田の神社・仏閣
- 高田の古跡(石碑・慰霊塔等)
- 高田の偉人・人物
- 高田の伝統・祭り・行事
- 風俗・地理・言語
- 高田の伝説と民話
- 高田の産業(作成中)
- 鶴崎地区の歴史
- 昭和井路の歴史(計画から完成まで)
- 高田の統計
- 高田の歴史年表
- 高田公民館歴史資料室
- 高田の歴史書
高田の歴史 最近40件の表示
※ 20件までの表示をしています。
<先哲祭>令和6年度 第102回先哲祭
<若宮八幡社 宮総代会>令和6年秋季例大祭 コロナ後最大の盛り上がり
<大分を歩く特別編 熊本阿蘇神社>熊本地震の復興を見る
<若宮八幡社・宮総代>「茅の輪」を試作
<鶴崎地区の歴史>大野川の渡しと殿様道路(府内~臼杵) 広内の巡見使御宿跡
<高田七輪のまちづくり―歴史マップ>高田の歴史ポイントを見て歩こう! <更新>
<大分を歩く>九州電力 新大分発電所見学会に参加
〈丸亀・鶴瀬地区〉国交省 大野川堤防補強工事現場に水中ブルドーザー出現
<ふるさとの歴史教室> (空桑・源兵・津留崎有終館)の講話を聞いて
<市政報告>河川掘削、災害時の避難 ・鶴崎地区整備計画/ etc
<令和6年水難者慰霊祭>台風10号明けの水難者慰霊祭
台風10号 河川水位情報 高田橋、川添橋付近をより詳しく
<七輪のまちづくり>令和6年度本場鶴崎踊り大会に高田おどり隊も参加
〈高田を歩く・高田の歴史〉渡し・道・橋 その2 (歴史の変化を探しましよう!)
<高田の歴史>この旗は何だろう? 高田住民の常識?
〈高田を歩く・高田の歴史〉高田の渡し・道・橋 そのルートと歴史
〈鶴崎地区の歴史〉メモ 鶴崎地区の諸藩の分立(藩の飛地)
《高田の歴史》高田会所と惣庄屋
<西暦・和暦早見表>盆が近づき墓掃除、我が家のお墓はいつ立てられたのだろう?
〈堂園 おしゃべりサロン〉 今回は川祭りに合わせ河童(かっぱ)を作成
〈鶴崎地区の歴史〉鶴崎踊り保存会 創設100周年記念式典にて
大分市内小学校の設立年比較表 (高田小学校150周年に寄せて) 《更新》
《高田の歴史・七輪のまちづくり》歴史標柱とポイントの概要》 <更新>
<高田の巧み>能面打ちに80歳からの挑戦 丸亀の高田 守さん(86歳)
<高田の巧み>能面を作り続けて10年 南の鶴田隆一さん(85歳)
<鶴崎地区の歴史>「鶴崎地区の八校区」どうなっているの?高田は。
<高田校区自治会>高田の水難者慰霊祭 令和6年 宝塔様
<大野川水害対策協議会>令和6年 高田小学校四年生とのアユ放流体験学習
<高田の歴史>高田校区 歴代自治部会長 <昭和29年~平成28年まで>
年度別高田の歴史 <年度別ではなく年別です>
大友氏滅亡後大分は多くの藩に分断してしまいました。そしてその中でまた細かく分断したのが、わが高田周辺です。(高田は肥後細川藩です)まず、鶴崎は三佐(岡藩領) 家嶋(臼杵藩領) 千歳(延岡藩) 乙津(天領)と入りくんでいます。高田周辺も 高田風土記(1800年 文化年間)によれば 臼杵藩は 丹生 岡 延命寺 金谷 毛井新田 横尾 森村 森町村 大津留村 毛井村 等 幕府領松岡村になっています。(今でも知られている村をあげています)
それ以外の鶴崎、大在、坂ノ市、佐賀関、野津原、竹中などは、肥後熊本藩の飛び地でした。
〈当ホームページ 高田の歴史-高田村史内より抜粋〉
ー省略ー
そして熊本藩は行政の中心として肥後領内に手永をもうけました。手永とは熊本藩が藩内の行政区として管内を五十三手永に区画し、各手永に御代官兼御惣庄屋を置いて手永内のおける一切の民生を行わせていました。
大分では九重、野津原、谷村、高田、関の五か所の手水がありました。(熊本藩の参勤交代の通路にあたると思います )高田手永は現在の高田ではなく、わかりやすく言えば昔の鶴崎市ほどの広い地区でした。そして<高田会所>はその民生の執務所でした。会所の長を御代官兼御惣庄屋といいます。そしてそれが設けられていたのが高田の上徳丸にある高田会所跡です。
高田はこの地域の行政の中心的位置にあったのです。
〈当ホームページ 高田の歴史-人物(岡松甕谷)より抜粋〉
歴史は知れば知るほど奥が深く面白いものだと思います。