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年度別高田の歴史 <年度別ではなく年別です>
大友氏滅亡後大分は多くの藩に分断してしまいました。そしてその中でまた細かく分断したのが、わが高田周辺です。(高田は肥後細川藩です)まず、鶴崎は三佐(岡藩領) 家嶋(臼杵藩領) 千歳(延岡藩) 乙津(天領)と入りくんでいます。高田周辺も 高田風土記(1800年 文化年間)によれば 臼杵藩は 丹生 岡 延命寺 金谷 毛井新田 横尾 森村 森町村 大津留村 毛井村 等 幕府領松岡村になっています。(今でも知られている村をあげています)
それ以外の鶴崎、大在、坂ノ市、佐賀関、野津原、竹中などは、肥後熊本藩の飛び地でした。
〈当ホームページ 高田の歴史-高田村史内より抜粋〉
ー省略ー
そして熊本藩は行政の中心として肥後領内に手永をもうけました。手永とは熊本藩が藩内の行政区として管内を五十三手永に区画し、各手永に御代官兼御惣庄屋を置いて手永内のおける一切の民生を行わせていました。
大分では九重、野津原、谷村、高田、関の五か所の手水がありました。(熊本藩の参勤交代の通路にあたると思います )高田手永は現在の高田ではなく、わかりやすく言えば昔の鶴崎市ほどの広い地区でした。そして<高田会所>はその民生の執務所でした。会所の長を御代官兼御惣庄屋といいます。そしてそれが設けられていたのが高田の上徳丸にある高田会所跡です。
高田はこの地域の行政の中心的位置にあったのです。
〈当ホームページ 高田の歴史-人物(岡松甕谷)より抜粋〉
歴史は知れば知るほど奥が深く面白いものだと思います。